橙の痴態

「お得意さまというよりは……二階はあの方専用のようなものなのですか?」


「そ、そうです。そういう感じです……」


「せ、専用ってすごいね」


「差支えなければどういった経緯でそうなったのか教えて頂けませんか?」


 爽の問いに店員が答える。


「え、えっと、私が聞いた話だと、この店のオーナーが大の浮世絵好きでして、橙谷さんの才能に惚れ込んで、二階をほぼ丸ごと貸し出しているんです。半分あの方の仕事場のようなものになっています」


「ふむ……出資者、パトロンのようなものですか」


「まあなんでも良いですわ。ちょうどいらっしゃるのなら早速ご挨拶に参りましょう」


「い、いえ、ですから! それはちょっと困ります!」


「何が困るのですか?」


「橙谷さんの許可を得ていない人は例えこの店の関係者であっても自由に二階に上がることは出来ないんです!」


 立ち上がって階段へ向かおうとした小霧の行く手を店員が両手を広げて阻む。


「ならば押し通るまでです」


「こ、困ります!」


「ち、ちょっと、さぎりん!」


「まあまあ、ここは一つ穏便に……」


 揉み合いになった小霧と店員を宥めるような口調で爽がゆっくりと立ち上がった。


「店員さん、先程も申し上げましたが、揉め事を起こす気はありません。我々を二階に上がらせてはもらえないでしょうか?」


「で、ですから私一人の判断ではどうすることも……!」


「工藤菊乃さん……」


「え、何で私の名前を⁉ あ……」


 突然フルネームで呼ばれた店員は驚きながら、思わずエプロンの左胸に付けていた名札を隠すようにおさえた。爽は店員の耳元で何かを囁く。店員は驚いた顔で爽を見た。


「⁉ な、何故それを⁉」


「二階、上がっても宜しいですか?」


「~~! ど、どうぞ……」


 店員は慌てたように階段への道を開けた。小霧が不思議そうに爽に尋ねる。


「何を言ったんですの?」


「それは乙女の秘密ということで……」


「よ、よくそんな秘密を知っていたね。初めて会ったんじゃないの?」


「勿論初対面です。先程名札を確認させて頂いて、食事中にちょっと調べて貰いました」


「調べて貰った? 誰にですの?」


「黒駆くんです。流石の情報網と言いますか、少し引いてしまいますね」


「あー……」


 葵は自身の部屋の天井裏に忍び込んでいた秀吾郎の様子を思い出して、何とも言えない表情を浮かべた。三人は二階に上がった。二階には一階と違っていくつかの部屋があった。騒ぎ声は一番奥の部屋から聞こえてくるようだった。


「奥の部屋に居るようですね。さて、どうしますか、高島津さん?」


「え? い、いやわたくしに振られても……」


 いざとなるとやや尻込みした様子の小霧を横目に、葵がスタスタと廊下を奥へと進んでいった。


「葵様⁉」


「若下野さん⁉」


 驚く二人に構わず、葵は一番奥の部屋の襖をガラリと勢い良く開けた。騒ぎ声が一瞬で静まった。一方、部屋の様子を見て、葵は固まった。葵に追いついた爽たちも、部屋の中を確認し、絶句した。そこには二人の女性に馬乗りにされ、四つん這いの状態で部屋を這い回る、『天才浮世絵師』橙谷弾七の姿があったからだ。


「へ、変態だー‼」


 暫しの沈黙の後、葵が絶叫する。


「変態ですわね」


「まごうことなき変態さんですね」


 二人も迷わず葵に同調した。


「……いきなり随分なご挨拶じゃねえか」


 ド派手な着物を上半身はだけさせた、弾七らしき男が四つん這いの状態のまま、気取りながら答える。


「俺様のどこが変態なんだ?」


「いや! もう何というか、服装、体勢、状況、何もかも!」


 葵が部屋中を指差す。

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