とにかく怪しい黒

 怒涛の学園初日を終えた葵だったが、まだ気疲れすることが残っていた。住居問題である。将軍となった葵は大江戸城本丸の『中奥なかおく』で生活することになった。『御休息ごきゅうそく』と呼ばれる広い部屋で一人落ち着かない夕食を取り、『御湯殿おゆどの』と呼ばれる広い浴室でお風呂に入ることになった。今度はその広さが逆に気に入ったが、衣類を預かる『小姓こしょう』と体を洗う『小納戸役こなんどやく』が待機しているということには閉口した。当然、その場から直ちに去ってもらうようにした。


「我々御小姓衆は上様の身の周りの警護を、そして御小納戸衆は身の回りの世話を仰せつかっているものです! その我らを遠ざけるなど! 上様の身に何かあっては一大事です! どうかお考え直し下さい!」


「自分のことは出来る限り自分でやりますから! 警護はともかく、せめて、身の回りの世話役の方は女性で固めて下さい!」


 癒しのバスタイムのはずがどっと疲れてしまった葵は、さっさと寝てしまおうと思った。廊下を歩いて、御休息の隣の部屋に入った。本来は御休息が将軍の寝室になるはずだが、枕が変わるとなかなか寝られない体質の葵は、自分の今まで使っていた部屋と全く同じ部屋を大江戸城内に移設してもらっていた。これは葵が将軍職を引き受ける際に出したいくつかの条件の内の一つである。ドアを開けると、慣れ親しんだ我が部屋の光景である。机やタンスなどそのままの位置においてあることに、葵は満足した。電気のスイッチをつけようと思ったが、何度か操作したものの点かない。まだ電気が通っていないのか、それとも接触不良か、いずれにせよ明日確認しようと思い、葵はベッドに潜り込んだ。疲れのピークに達した体を一刻も早く休めたいと思ったからだ。しかし、ベッドに入った瞬間、彼女は強烈な違和感に襲われた。妙にベッドが狭いのである。自宅から持ってきたものは決して大きいものではないが、葵が手足を十分伸ばせる程の広さであるはずなのである。だが手足が伸ばせない。いや、正確に言えば伸ばせるのだが、何かに当たるだ。この時点で葵の眠気も完全に醒めていた。やはり接触不良だったのか、部屋の電気が今更点いた。その瞬間葵は驚愕した。自らと添い寝をするような形で、黒装束の服を着た一人の青年がベッドに目を閉じて横たわっていたからだ。


「きゃああああ‼」


 葵の叫び声にその黒装束の男もバッと飛び起きた。


「曲者か! く、どこに消えた……」


 黒装束の男は背中に背負った刀に手をかけながら、部屋をゆっくりと見回す。そして両手を組んで静かに目を閉じる。


「……周囲に怪しい気配は感じないな。慌てて逃げ去ったというわけでもなさそうだ」


 そして、黒装束の男は葵の方に振り返って、冷静な口調でこう告げる。


「上様、貴女に何が起こっても自分が必ず守ります。安心して下さい、控えていますよ」


「あ、あ、あ……」


「あ? どうされました?」


「貴方誰よー―‼」


「ぶほぁ⁉」


 葵は持っていた枕で黒装束の男の顔面を思いっ切り殴りつけた。


 ようやく落ち着きを取り戻した葵はベッドに腰掛け、腕を組みながら、部屋の中央で正座をする黒装束の男に声を掛ける。


「で……? なんで貴方がこの部屋にいる訳? えっと……」


「……自分は黒駆秀吾郎くろがけしゅうごろうと申します。御庭番を務めている者です」


「御庭番……?」


「代々上様の警護を仰せつかっているもの……簡単に言えば隠密です」


「ふ~ん、で、何でその隠密が私の部屋に居るのよ?」


「ええっ⁉ ここは物置では無かったのですか⁉」


「はっ?」


「い、いや大分狭い所だなとは思ったのですが……」


「狭い……」


「上様が居住するには、その、何と言いますか、いささか庶民的というか……」


「庶民的……」


「多少窮屈ではありましたが、ちょうど横になれる所がありましたので、仮眠をとっておりました」


「……わね」


「? 如何しましたか、上様?」


「狭くて貧乏臭い物置小屋で悪かったわね! ここは私にとって大事な憩いの空間なの! さっさと出て行って頂戴‼ 貴方の顔は二度と見たくないわ!」


「は、ははっ⁉ これは大変失礼致しました!」


 そう言って、秀吾郎はさっと部屋から姿を消した。葵にとっては生まれて初めて目にする忍者の超スピードだったが、最早今の彼女にはそれに驚く気力も残っていなかった。


「……疲れた。さっさと寝よ」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る