杉内書店員と論理哲学論考

360words (あいだ れい)

論考アドヴァンテージ

 私の働く書店のバックヤード(従業員の休憩室)には、パイプ椅子が四つとその真ん中に会議室用の長机があるだけの簡素なものだ。

 他にあるものといえば、出入口側には、在庫表、事務書類、シフトの書いてあるホワイトボード。反対側には従業員用ロッカー、時計、店長の事務机。

 ドアと壁は厚く、外部からの音が一切入ってこないこの部屋は、私にとっては非常に理想的な読書環境と言えた。


 そんな私は、四つあるパイプ椅子の、出入口と最も離れている席に座って本を読んでいる。

 本のタイトルは『論理哲学論考』。かの有名なウィトゲンシュタインが生前出版した、唯一の哲学書である。

 と、偉そうに言っているものの、私は、この本を手に取って三年経った今でも、彼が記していることを理解できたことが無かった。

『語りえぬものについては,沈黙せねばならない』という、この本の最後に出てくる、最も有名なフレーズ。それに従うのであれば、私自身からこの本について語れることは無い。

 それほどに難解で、理解と納得が出来ない本なのだ。

 一ページめくるたびに複雑な構造となる彼の"発言"に、自然とまばたきの回数は増え、側頭部には灼熱感が走り、喉は渇く。

 だが、私はその感覚をイヤだ、と思ったことは無かった。




 ふ、と長机の上に置いていたスマホの画面が光る。

 視界の奥に光をとらえた私は、肺にこもっている疲れ切った息を短く吐き出し、本を長机の上に置いた。

 代わりに、光るスマホを手に取る。

 スマホのロック画面には、黄色い『アラーム』の文字とデジタル時計の表記があった。

【16:20】

 私は着ていたセーターを脱ぎ、ロッカーからインディゴブルーのエプロンを取り出し、上から着る。ロッカーにスマホと本を入れたリュックサックをしまい、ロックを掛けた。エプロンの右ポケットから、ネームカードを取り出す。フォントサイズ32くらいの大きさのひらがなで、すぎうち、と書かれたそれを左胸ポケットに付けた。

まだ、わずかにひりつく側頭部を左手の親指で押しながら、準備完了、と呟く。

 右手でドアノブを掴み、ぎこちない笑みを携えて、私はバックヤードを出た。

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杉内書店員と論理哲学論考 360words (あいだ れい) @aidarei

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