第27話 ロランの狂気

 ロランの熱の篭った視線を浴びて、リアーヌは逃げ場を探して首を巡らせた。でも、それだけの動きでも彼女を載せた馬が反応して身体の均衡を崩しそうになってしまう。だから、ロランに見上げられる位置に甘んじるしかない。周囲にいる兵たちも、主のロランに倣って彼女に恭しい目を向けるか、自身の馬の世話に忙しく立ち働くだけ。彼女の混乱に理解を示してくれる者は見当たらなかった。

 だから、リアーヌが唯一できる反抗は、口を動かすことだけだった。ロランが酔ったように述べたことは訳が分からなくて、どこから正せば良いのかも分からないくらいだけれど。


「わ……私は、シェルファレーズの公妃です! 父の命によって、そして私自身も了承の上でこの国に来て、今では大公殿下の貞節な妻なのです! 貴方の妻になることはできません!」

「ですが、婚礼を挙げたではありませんか。神の御前で、永遠の愛を誓ったでしょう」


 当然のように言いながら、ロランは立ち上がり、馬の鞍に手を掛けた。再び彼が騎乗しようとしているのを察して、リアーヌは精一杯身体をよじる。でも、無駄だった。ロランは軽やかに馬にまたがると、あっさりとリアーヌを腕の中に収めた。


「それは代理としてです! 私の夫になったのは、あくまでもクロード様で──」

「ええ、貴女はこれまでも何度も夫を替えてこられた。そのすべてを受け入れると言っているのですよ」


 背中に感じる、夫以外の殿方の体温。耳元に寄せられる唇、それが囁く吐息。どれをとってもおぞましいばかりで、叫び出したいくらいなのに──過去の夫たちに言及されると、途端にリアーヌの心も身体も竦んで凍り付いてしまう。アロイスの妻だと宣言した傍から、クロードとの結婚を語るなんて。おかしい、と気付いてしまったのだ。前の夫たちとの結婚をなかったことにしたのだからアロイスとだって、と。ロランはそう主張しているのだろう。


「ガルディーユ王の命令だということはよく分かっています。父に命じられれば、娘には逆らえないものでしょう。だから、ガルディーユ王には心を変えていただく。ご息女には、こんな山奥の小国の公妃ではなく、ルメルシエの王妃の地位を与えたいに決まっている」

「……違います」


 でも、リアーヌは辛うじて踏みとどまることに成功した。アロイスの腕の温もりと、彼の言葉を思い出したのだ。誰に恨まれても憎まれても、リアーヌの未来はアロイスと共にある。我が身を危険に晒したのも、そのためだった。


(何を言われても、耳を傾けてはいけない。私は、アロイス様のもとに帰る……!)


 心に念じて、深呼吸して。リアーヌは声を震わせずにロランを睨むことができた。狭く不安定な馬上で、彼とできるだけ触れ合わずにいようとするのは難儀なことだったけれど。落馬しない精一杯の距離を保って、リアーヌは毅然として言い放った。


「父は、私に嫁ぎ先を選ばせてくれました。私は、今ではアロイス様を愛しています。こんなことは無駄で、無意味です。私を放して──いいえ、すぐにアロイス様が見つけてくださいます!」

「ええ、地の利はあちらにありますから。早く山を降りて、国境を越えなくては」


 ロランが手を軽く振ると、兵たちもそれぞれ騎乗した。主人に抱えられたリアーヌを取り囲むようにして、一行は再び山中を進み始める。今度は、斜面を下る方向へ。道なき道なのは相変わらず、木々の隙間に馬体をねじ込むような進み方だ。リアーヌが必死に周囲を見渡しても──ロランの腕の拘束を度外視しても──逃げ道など見当たりそうにない。既にどれだけアロイスから離れてしまったのだろう。リアーヌには分からないから、焦りが募る。一方でロランは、上機嫌で得意げに語り続けていた。


「シェルファレーズの公弟が我らの手引きをしてくれました。安全に逃げられる経路まで教えてくれた! でも、先ほども言った通り。彼が兄に隠しごとができるかどうかは疑問の余地がありますから……」


 だからフェリクスが教えたのとは異なる道を行っているのだ、とロランは仄めかしていた。彼はリアーヌが義弟のを把握しているとは知らないはずだけど、恐らくは彼女の心を折るためにそうしたのだ。アロイスが、彼ら一行を見つける希望はないのだと突き付けて──その脅しは確かに、リアーヌの心を揺らす。


「……私の夫はシェルファレーズの山々をよく知っています。逃げられるはずはありません……!」

「ええ。ですが、裏を返せば平地にはあの間男の力も及ばないということ。山奥の賊まがいの連中には、国境を越えた捜索や追及などできません」


 愛する夫をあしざまに言われて、リアーヌはきつく唇を噛んだ。反駁したくても、一面の事実を突いているのが分かってしまうからなお悔しい。先ほどよりは速度を落としているとはいえ、ロランたちは木々を分け入りながら危なげなく進んでいる。まさか、本当にアロイスは彼女を見失ってしまったのだろうか。


(見つけていただけない場合は……?)


 ドレスの裏に縫い付けた短剣を探りながら、リアーヌは必死に考える。この剣を誰に対して使うべきか。彼女の細腕ではロランに届かないかもしれないから──それなら、自分自身に使うしかないかもしれない。心ならずも夫と引き離されるくらいなら。

 リアーヌが思い悩む間にも馬は進み、アロイスとの距離は開いていく。自らの首に刃を突き立てる想像をしながら、刻々と移り変わる景色に怯えながら、リアーヌは言葉での脅しを試みた。でも──


「私……父に言いつけます! 私を取り戻してくれるように。ルメルシエの横暴を許さないようにと、ガルディーユの兵を動かしてもらいます。それを望まないなら──」


 言い切ることは、できない。


(私、何てことを……!?)


 父の威を借りる情けなさと、国同士の争いを望むような物言いの傲慢さと恐ろしさに、気付いてしまって。それに、木々が精一杯張り上げた声を吸い込む──周囲に人の気配がまったくないのを突き付けられて、リアーヌの声は宙に浮いた。人馬の息遣いと、蹄が下生したばえを踏む音だけが聞こえること数秒、居心地の悪い間は、ロランの軽やかな笑い声で破られる。


「優しい方、ただでさえ傷ついたルメルシエに、さらなる戦乱を呼ぶおつもりですか? いいえ、貴女にはそんなことはできません。父君には、私との結婚を望むように手紙を書いてくださいますように」


 いっそ優しく囁くと、ロランは腕に力を込めた。手綱から離れた手が、リアーヌの腰を妖しく撫でる。夫ではない殿方の掌を、ドレス越しにとはいえ感じるのは虫が素肌を這うような嫌悪を催させる。しかも、檻に閉じ込めるような抱擁は、彼女の扱いも示唆しているのだと分かってしまう。ロランは、リアーヌをルメルシエに連れ帰ったら、こうやって王宮の奥にでもしまい込むつもりなのだ。そうして表には出さず、父にも会わせず、彼女の名前と立場だけを都合の良いように利用するのだ。

 恐怖に圧し潰されそうになって──リアーヌは、ロランの非を探す。不気味なほどににこやかな彼に、自らの卑劣な行いを突き付けてやりたくて。同時に、無辜の民を巻き込むつもりかと、やんわりと責められた後ろめたさをどうにか誤魔化そうとして。


「乱を抑えることもできないのに私を望むのですか!? 祖国の危機に、こんなところでで非道なことを……そんな方を夫にしたくはありません!」


(そうよ……どうしてこの方はここにいるの!?)


 ルメルシエでは、いまだ内乱が収まらないと聞いている。ならば、王族に連なる者としては国内に目を向けるべきであって、リアーヌに構っている余裕はないはずだ。手練れの兵がいるなら、ルメルシエで役に立つことが幾らでもあるだろうに。


「くく……っ」


 リアーヌの難詰は、正当なものであるはずだった。父やアロイスを理由にするのではなく、この上なくはっきりとリアーヌ自身の意思と言葉で拒絶したはずでもあった。でも、ロランは愉しげに笑うだけだった。馬が歩む振動に咥えて、彼の身体の揺れがリアーヌの身体に響く。そしてロランは、リアーヌの耳に口づけるように唇を寄せた。


「乱はね、止まるのですよ。貴女さえルメルシエに戻ってくだされば……!」

「え……?」


 強く抱き締められる嫌悪は、もちろんある。でも、自信たっぷりのロランの口ぶりの方が気になって、リアーヌの口から間の抜けた吐息が漏れた。首を捻って彼の顔を見上げると、彼女を驚かせたのが嬉しくて堪らないとでもいうかのような、晴れやかで得意げな笑みが見下ろしている。ロランは、言い聞かせるような口調で語りながら、リアーヌの頬をそっと撫でた。


「《黒の姫君》の評判を、拭って差し上げると言ったでしょう? 貴女が戻ると同時に乱が収まれば、貴女は希望と平和の象徴になりましょう。私は、前の者たちと違って死んだりはしない。ずっとお傍にいて、貴女を幸せにする。そうすれば、不吉な噂を口にするものはいなくなる……!」

「止めてください!」


 リアーヌは激しく首を振ると、ロランの無礼な指を振り払った。

 ずっと傍に。幸せに。アロイスと同じことをロランが口にするのが忌まわしくてならなかった。リアーヌの想いを何ひとつ確かめることさえせずに、彼女の幸せを決めつけられるのが不快でならなかった。それに、何より──


「……どうしてそのように断言できるのですか。ルメルシエは乱の鎮圧に手間取っていると伺っていました。クロード様だって、それで──」


 じわじわと、黒い嫌な予感がリアーヌの胸にこごっていく。王族たるクロードに、反徒の凶刃が届いてしまったのを、ずっと不審に思ってはいたのだ。リアーヌはかつて、父が手を回したことを疑っていたけれど、どうやら父は悪意ある企みを巡らせてはいないようだ。ならば、であることも、考えられるのだ。


「はい。武器も食料も──王族の助力があればいつまででも乱を続けられますよね。クロードの作戦だって筒抜けだった。生かさず殺さず、戦いを長引かせるのは簡単なことです」


 リアーヌの顔に浮かぶ疑問を読み取ったのだろう、ロランは優しい微笑みで彼女を見下ろした。片手で馬の手綱を繰り、もう片方の手でしっかりと彼女の腰を抱えながら。支えるというよりは絶対に離さないというような──蛇に絡みつかれて締め付けられるような奇妙な圧が、怖かった。恐ろしい罪を告白しながら悪びれもせず、むしろ手柄を誇るような風さえあるロランが理解できなくて。そんな男の手中に落ちてしまったことが、不安でならなくて。ロランを遮ることもできなくて──決定的なことを、聞いてしまう。


「だから私は《黒の姫君》の噂など恐れない。最初のおふたりは不幸な偶然だし──三人目のクロードについては、私が手を回したのだから……!」


 震える身体を叱咤して、リアーヌはドレスの生地の中から短剣の柄を探り当てた。どうやれば抜き放つことができるかも、練習してある。


(怖がっている場合じゃ、ない……!)


 リアーヌは、怒らなければならない。クロードのためにも、フェリクスのためにも。アロイスと、彼女自身の未来のためにも、黙ったままでいてはいけない。助けの手がまだ届かないなら、自力で時間稼ぎをしなければならない。


「どうか喜んでください、リアーヌ様。貴女は何も悪くないのですから。貴女は美しく心優しい姫君で、夫を幸せにすることができるのですから」


 機嫌よく語り続けるロランは、リアーヌが何を考えているかには頓着していない。彼女の心臓がどれだけ高鳴っているかも。もしかしたら、勝手に良いようにとらえているのかもしれないけれど。

 女の細腕で、どこまでの傷を負わせられるか分からないけれど。振り向きざまに、顔を狙えば怯ませることくらいはできるかもしれない。多少、殴られても蹴られても──それで騒ぎになれば、アロイスに対する合図にもなるはずだ。


「ねえ、リアーヌ姫──」

「──っ」


 ロランが何ごとか囁くのを遮って、リアーヌは短剣を抜こうとした。短剣の柄を強く握りしめて──でも、ロランの血が流れることはなかった。兵の鋭い声が響いて、彼女と、それにロランの馬を止めさせたのだ。


「殿下──何者か、います……!」

「何!?」


 リアーヌに向けていたような甘ったるい声ではなくて。ロランもさすがに鋭い声を上げた。周囲の兵たちも足を止めて口を閉ざす──すると、確かに一行以外が立てる音が聞こえてくる。馬の蹄が下生えを踏むぱき、ばきという音が、確実に近づいて──一行を追い越したところ、だろうか。

 ちょうど、木々がまばらになった、多少拓けた場所に差し掛かったところだった。だから木々の影に何かが動いたのを、リアーヌも確かに認めることができる。金属が反射する鋭い光は、鳥や獣ではあり得ない──人が纏う武具や装飾品だ。そうと気付いて、リアーヌの心臓が跳ねる。同時に、ロランが叫ぶ。


「シェルファレーズ大公の手の者か? 獣のように素早いことだな……!」


 リアーヌを抱えたロランを中心に、兵たちは各々剣を抜いて外側に向ける。ロランもそれで守られているなどと安心してはいないのだろう、嘲り煽る声にも緊張が滲んでいるようだった。リアーヌも、もちろん全身を強張らせ神経を張り詰めている。でも、その理由はロランたちとは真逆だろう。


(アロイス様……来てくださった……!?)


 いまだ油断せずに短剣を握りしめながら、それでもリアーヌの胸は希望に弾む。そして、その希望が裏切られることはなかった。


「シェルファレーズの森の中で、その主を出し抜こうなどとは思わぬことだ。我が一族と妃に対する狼藉を、決して見逃すわけにはいかない……!」


 兵たちの剣の煌めきの向こう、木々の間から一騎の馬が姿を現した。金の髪の煌めきが王冠のように輝いて、リアーヌの目を射る。危うく、涙をあふれさせそうになる。

 ロランの手の者と剣に阻まれて、アロイスはリアーヌからはまだ遠い。でも、再び姿を見ることができただけでも心臓が止まるほどの喜びだった。高揚のままに身を乗り出すリアーヌを抱え直すロランの舌打ちが、いかにも忌々しげに響いた。

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