第26話 番狂わせ

「どういうつもりだ──」


 突き付けられた白刃を睨みながら、フェリクスは低くロランに問うた。彼もいた剣の柄に手をかけてはいるけれど、ロランの配下は巧みに牽制されて、抜く隙を見いだせないようだった。それでも、フェリクスの目は鋭く険しく、ロランを貫くようなのに──リアーヌを腕の中に収めた男は、向けられる激しい敵意を意に介さずに嗤った。


「シェルファレーズの公弟よ、貴殿の評判は調べさせていただいた。心から国を愛し、兄大公を敬愛している男だと」


 彼の余裕は、十分な数の兵に守られているからなのだろう。剣を構えた兵たちが、ロランを守るようにフェリクスを囲んでいるのがリアーヌにも見て取れた。


(誰か、来てくれないの……!?)


 心の中で叫んでも、無駄なことだと分かってしまう。シェルファレーズの兵も間近にいて恐らくはこの場面を見ているはずだ。でも、彼らがロランを捕らえるよりも、フェリクスに剣の刃が届く方がきっと早い。だから、誰も──リアーヌ自身も、迂闊に動くことはできないのだ。


「兄君への忠誠ゆえに、《黒の姫君》を恐れ追放しようとするのは、まあ分かる。だから信用させていただいた。──だが、後で怖くなって、敬愛する兄君に何もかも打ち明けたりはしないかどうか、問い詰められて吐き出すことがないかどうか、については信じ切ることができない」


 機嫌よく、にこやかに饒舌に語っていたロランが、不意に声を低めた。主の声に宿った剣呑さに応じたのか、兵のひとりが一瞬でフェリクスとの距離を詰め、彼の腹に拳を叩きこむ。堪らず膝をついた彼の姿は、押し寄せる兵の身体によって見えなくなってしまう。ただ、低い呻き声だけがリアーヌの耳に届く。


「──っう、あ……」

「フェリクス様!」


 悲鳴を上げるリアーヌを抱えて、ロランはひらりと馬に跨った。身体がふわりと浮き上がる感覚を味わう、ほんの数秒の間にも耳を塞ぎたくなるような恐ろしい音と声が聞こえてくる。なのに、それを命じたロランは、信じられないほど明るくあっさりとリアーヌの耳元に囁くのだ。その体温で、その吐息で。リアーヌの全身を粟立たせ、目が眩むほどの怒りと嫌悪を感じさせる。


「ご自身を裏切った者を心配なさるとは、なんとお優しい。少しだけ、この場に留まってもらうだけですよ。少なくとも我らが十分に距離を稼ぐまでは、兄君のもとに走れなくなるように」

「私を、どうなさるおつもりですか!?」


 自分のためではなく、近くに潜んでいるであろうシェルファレーズの兵のために、リアーヌは震える声を張り上げた。彼らに少しでも多くの情報を与えて、アロイスを助けなければならない。願わくば、今こうしている間にも、フェリクスの窮地を見て報告に走っている者がいると思いたかった。リアーヌの必死の勇気と抵抗も、ロランに苦笑で迎えられるだけだったけれど。


「そこの人には知られてはならないと言ったでしょう。まあ、とりあえずは安心してくださいますように。貴女には髪一筋ほどの傷もつけませんから」

「そんなこと……!」


 アロイスやフェリクスが約束してくれたのと違って、彼女を脅かす者自身がうそぶを、どうして喜ぶことができるだろう。フェリクスは、地に倒れ伏して呻いているというのに! なのに、リアーヌが全霊を込めて睨んでも、ロランが気付いた様子はやはりなかった。彼女をしっかりと腕の中に抱え込んで、彼はフェリクスに高らかに告げる。


「私が何者かは、いずれ風の噂で知ることだろう。ガルディーユのリアーヌ姫を妻にした者として。だが、その時には何もかも遅い! シェルファレーズ風情がどう足掻いたところで、何もできまい!」


 同時に、ロランは手綱を繰って馬を走らせ始めた。激しく揺れる馬の背にあって、非常に、非常に不本意なことに、リアーヌはロランにしがみつかざるを得ない。いっそ落馬して、地面で頭を打ちたいと思うくらいだけど──でも、無事に返ると、夫と約束したのだから。


(大丈夫……アロイス様は、すぐに来てくださる。フェリクス様を助けてくださる……!)


 彼女自身のことよりも、フェリクスの怪我の程度が案じられて仕方なかった。ことの発見を遅らせるだけだというロランの言い分が正しいのか、兵は十分に手加減してくれたのか。ただ、視界の端に動く影が見えたのは、ロランの手勢が伴走しているだけではないだろう。シェルファレーズの兵も動き始めていることを信じて、リアーヌは冷静さを保つことに努めた。ロランの思惑を聞き出して、少しでも夫を利するように振る舞わなければならないのだ。




 森の中を、馬が駆ける。女たちに配慮してごくゆっくりと進んでくれた行楽の間と違って、追手から逃れようとしている今、ロランたちは危険な山道にもかかわらず速度を出している。最初の襲撃でもすべての賊を捕らえられなかったように、彼はこのに手練れを揃えて臨んでいるようだ。それでも、逃げる道筋が分かっていれば捕らえることは容易いと、そういうことになっていたはずなのだけど──


(伝えていた道と……違う……!?)


 顔に当たる風に逆らって必死に前を向こうとするリアーヌの視界を、速さで溶けた木々の緑が過ぎ去っていく。森の中を、風の速さで駆けている──そのこと自体が予定と違う気がしてならなかった。そもそも、アロイスはロランが姿を見せたその場で取り押さえたいと言っていたのに、それも叶っていない。フェリクスの安否を慮って、シェルファレーズの兵は姿を見せられなかったのだろうけれど。だから、初動からしてどうしようもなく後手に回ってしまっているというのに、ロランは計画に沿った動きをしてくれていない。

 ロラン──リアーヌを狙うに送った書簡で、フェリクスは先ほどの沢を下る道を勧めていた。木々に道や視界を遮られることがなく、すぐに農民が生活に使う細道にも行き当たるから、と。大公が「水辺で足を滑らせた」公妃の捜索を始める前に、十分に距離を稼ぎ姿を隠すことができるだろうと言われて、ロランも快諾の返事を寄こしていたはずなのに。


(山の中に入っているの? どうして……?)


 馬の速さと自身の動揺のために、感覚がおかしくなっているなら、まだ良い。でも、ロランたちの一行は山の斜面を登っているように思えてならなかった。腕を動かす兵がいるのは、行く手を遮る枝葉を切り払っているようだ。坂道を、それも整備されていない獣道のような経路を一気に駆け上がることはできないから、左右に馬首を切り返しながら少しずつ高さを稼いでいる、気がする。

 番狂わせへの不安を抱えてリアーヌが縮こまっているのに気付いたのか、馬の足を緩めさせながら、ロランが話しかけてきた。


「もうしばらくのご辛抱を。尾根を越えたら速度を緩めますので」

「……私をどうなさるおつもりですか」


 先ほどと同じことを、より低く、かつより険しい声で質したリアーヌに、穏やかな苦笑が振って来る。髪の色と同じく、ロランの目の色は黒い。一応は優しく理知的な目、とも評せるのだろうに、アロイスの色とは違うというだけで、リアーヌが感じるのは恐怖と嫌悪だけになってしまう。


「舌を噛まないように、口を閉じていらっしゃるのが良いでしょう」

「今、教えてください! 何も知らないままなんて……!」

「お静かに」


 声を上げて騒ごうとしたリアーヌの意図に気付いたのか、それとも先を急ぎたいだけなのか。ロランはそれだけを言うと、再び馬の速度を上げた。


 山の稜線に立つと、遠目にシェルファレーズの王城の白い姿が見えた。つい昨日、あの城から発ったばかりで、手に届きそうな距離にも見えるのに。ロランの手中にあってはリアーヌの家であるはずの城は遥かに遠かった。


「私を、どうなさるおつもりですか」


 ロランたちの一行が足を止めたのを感じて、リアーヌは三度目に同じ質問を口にした。兵たちに追手の有無や方角の確認について命令を下していたロランはすぐには答えず、まずは自身だけが馬を降り、恭しく地に跪いた。目立たない色のマントも服も、上質のものではあるのだろう。さしたる宝飾もなく、山中のちょっとした空き地に膝をつく姿でさえも貴公子然としているのはさすが、ではあるのだろう。


「非礼をお詫び申し上げます、リアーヌ姫。ですが、愛ゆえのことと、どうか分かってくださいますように」

「質問に答えていただいていません。どうしてこのようなことをなさったのですか、ロラン様?」


 それでも、馬上から彼を見下ろすリアーヌがロランに対して心を動かされることは、ない。彼女の心を占めるのは依然として怒りと不安と恐怖であって。愛などと訳の分からないことを言われたとしても、そこに戸惑いと混乱が加わるだけだ。ルメルシエで彼女の夫だったクロードの復讐でないというのなら、やはりガルディーユの援助が目当てということなのだろうか。

 しつこく同じことだけを問い続けるリアーヌに苛立ったのか──ロランは、きっと顔を上げて彼女を睨め付けた。


「貴女を愛しています。初めてお会いした時から、ずっと。クロード亡き後は、私の番だと思ったのに……《黒の姫君》の評判など、拭って差し上げようと思ったのに!」


 跪いた姿勢から、馬上の高みにいるリアーヌを見上げるのだ。どうしても不自然な体勢になってしまう。直角に近い角度に首を曲げる痛みによって表情が歪んでいるのだと思いたかった。なのに、と分かってしまうのはどうしてだろう。跪いて土に汚れることを厭わないこと、やたらと前のめりな姿勢、声に宿る熱病のような熱さ。そんなものがすべて、何かがおかしいとリアーヌに告げているのだ。


「貴女はしまったから──取り戻さなければならないと考えました」


 だって、リアーヌは何も言わず、眉を顰めた表情を変えてもいないのに。なのに、ロランは笑った。ルメルシエの王宮で彼が常に見せていた、優しい笑顔だ。このうわべの表情を信じて、彼の訪れを待ったこともあるリアーヌは、なんと愚かだったことだろう。笑顔を浮かべたまま、この方がこんなにもおかしなことを口にできるなんて。


はありましたが、改めてルメルシエにお迎えいたします。貴女さえ戻れば乱も収まる。ガルディーユの後ろ盾があれば、誰しも私を王と認める。貴女は、ルメルシエの王妃になれるのです……!」

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