One-sided poem

つぶら杏

One-sided poem


「そういえばほら、皆川さんとこの息子さん。今度は八つ上の娘と付き合ってるんだって。足が早いわねぇ」

 ありきたりなクイズ番組に向いていた私の横顔へ届く母の声はワントーン高い。私は若干のうんざりするような感情を隠して視線を前に戻す。

 噂話は嫌いだ。下世話な上に、下らなさすぎると自らの住む場所の娯楽のなさが浮き彫りにさえなってしまうから。

「手が早いじゃないの?」

「すぐ別の人に行ったから足が早いかなって」

 聞いた割に私――岩田佳奈の心はどっちでもいいかなって感情で埋まった。

「それより八つ上よ、八つ上。同じ会社の上司さんの妹さんらしいけど、上手くいくのかしらね。上司さんの名前なんて言ったかしら、ほら」

「ほらって言われても」

「ほら、あれよ。綾川さんの息子さんも働いてるあそこの」

 言葉の続きを待つけれど一向に出てこない。そうしている内に思い出したかのように母も箸を野菜炒めの大皿へと伸ばし始めた。これ以上会話を続けたくなくて黙っていたけれど私には見当がついていた。多分、大和塗料の藤原さん。思い当たった自分に少し呆れた。

 この世界の狭さが、特に苦手だ。

 話したこともないお婆ちゃんが私の習い事まで知っていたり、家を建ててくれたという繋がりだけの大工さんが離婚するとのことで慰謝料の金額が聞こえてきたり。教頭先生に猫を買い始めたことを知られていたのは子供ながらに薄気味が悪かった。

 そして、母からのニュースもほとんどがそんな大きなお世話に繋がってしまうような報せばっかり。私は機嫌を損ねない程度に相槌を打つことに終始することにしていた。


「あ、そういえば」

 けれど。

 今日は違った。


「須賀さん家の娘さん、帰ってきてるんですって。芽衣子ちゃんだっけ?」

 メーコが帰ってくる。

 帰りの遅い父をよそにした、寂しい食卓を彩るとびきりのニュースに私の心は浮き立った。雷が落ちた、というよりは空に打ち上げ花火が上がった音に気付いたような、そんな感じ。思考が働くよりも先、野菜炒めに向いた視線を上へと上げていた。

「……いつ?」

 それでも、興味を隠すようにぶっきらぼうに。興味がある、なんて思われるのはなんだか恥ずかしかったから。

 母は、さぁ、なんて曖昧な空返事。続きの言葉がないことを証明するように今度はテレビへ視線を向けている。IQクイズに悩む振りをするイケメン俳優をぼんやりと見つめていた。

 やきもきした。でも、ここで責めるのは辻褄が合わない。私に取れる選択肢は母娘っぽくぼんやり目で賑やかな液晶へ視線を合わせることだけ。

 三つ隣の坂井由紀子さんの浮気相手のことは、出身の幼稚園まで知っている癖に。そう内心でしか毒づけないのが歯がゆい。今度も、鏡合わせのように箸を伸ばす。ゆるゆると重怠く動いた箸先はぽたぽたと小皿を散らかしていく。下手くそなあれ……そう、スパッタリングみたいな。

「気にするほど仲良かったの?」

 そしてついに大きなお世話に矛先がこちらに飛んできた。しかも変に鋭い。

「……別に」

 雑なスパッタリングをもやしの群れで圧し潰すようにして間を誤魔化す。曖昧な返事で途切れる母の言葉にもやしを弄んでいた手が止まりかけて、でも無理くりに動かして、まとめて頬張った。ご飯に合いそうな濃い目の塩気が口の中に広がる。

「仲悪くはなかったよ」

 飲み込む間に繕って、答える。悪くなんかない。良くもない。

 ……ただ。

 ただ、私が一方的に意識していただけだ。

「良いわねえ。美大生の娘さん、なんて」

「なにがいいの」

「美大生、なんてなんだか上品じゃないの」

「それ、短大女子は下品ってこと?」

 中くらいかもね、なんて言って笑う母の笑みには微妙に苦さが含まれているのに私は見えない振りをする。

 私が幼稚園の先生を目指すことを最後まで反対していたのは、母だったから。

「はいはい。中品な娘ですみませんね」

 茶化したような言葉に言い訳を滲ませる。

 しょうがないじゃない。メーコが夢を書いた時、私はそう書いちゃったんだから。

 苛立ちと一緒にお箸だけを伸ばして掬い取った野菜たちは途中で力尽きてテーブルの上にぺたりと貼り付いた。

「あ、こら。先生になるんでしょ。ならもっと綺麗に食べる。それと、」

「はいは一回、でしょ。分かってるって」

 わかってる。

 多分こんなの、言い訳にすらなってない。他人にはきっと意味不明。片意地張りの、独りよがりの強がりだ。

 そう、独りよがり。

 ただ。

 ただ、私が勝手にメーコを意識していただけなんだから。

「……わかってるって」

 思い出して瞳を閉じる度、思い出が幻視を起こす。

 顔を縁取る、艶のある黒い髪。それが透き通った風になびいて、流れるように眩い緑色へ染まっていく。どんな光の下でも鮮やかに燦めく、翡翠色。明るい未来色。

 生ぬるい水中にいるようにさえ感じる授業の中、生真面目な彼女だけは視線を上に下にと忙しない。その度に微かに揺れる髪を、私は見ている。

 瞳が、離せない。



       ◇



 メーコは大人しくて、控えめな子。そういう、周りからの印象をとうとう変えないままに中学の三年間過ごし切るくらいには、代わり映えのしない女の子だった。

 ひそひそ声での談笑が得意そうな子たちと教室の隅で集まっている姿が、多分クラスメイトたちの記憶の中には残っていることだろう。けれど、きっとそれも風景と同化してしまってひどく朧気だ。思い出の中のメーコを思い出す時はぼかしを払いのけるように彼女を判別する必要があると思う。ひとつひとつ、特徴を浮かび上がらせて。

 華奢な子が多いグループの中でも一際に小さな、小学生みたいな背丈。ほの白い、雪のような肌。

 それでも、きっとその程度が限界。

 よく見ていた私くらいだ。長い髪に隠れた柔らかい笑顔や、弾むように肩を震わせて笑う彼女まで覚えているのは。

 きっとメーコ自身が望めば、クラスで実は男子に一番人気、みたいな魅力が彼女にはあった。でも彼女はそれを巧妙に隠して、忍んでいた。通りすがりにする挨拶で顔を上げて、加えて声色も少し上げさえすれば、ぱっと花が咲くような笑みを輪の外に向ければ、クラスという大きな輪の中心にいることだって出来たに違いない。


 そんな彼女を目で追ってしまうようになったのは、中学三年生の夏。

 うちの中学校には卒業文集とは別に、それぞれの夢や一番の思い出などを認めた『学級ノ草子』を作る文化があった。それぞれに二ページが与えられ、落書きでも作文でも、他人からの寄せ書きでも良いから埋めて提出するのだ。

 私は同じグループたちの子たちを真似て、定規で線を引いて簡単なプロフィールを書いた。好きなもの、嫌いなもの。好きなこと、嫌いなこと、身長に血液型。あとは似ていると思う芸能人、エトセトラエトセトラ。あとは日記帳のように思い出で適当に埋めて、ちょっとオシャレを気取って蛍光ペンで縁を取って、ほら完成。周りを見た感じでもみんな出来は似たようなつまらないもので、出来上がった中身にも興味なんて湧かなかった。

 それでも私は副委員長だったから、チェックはしないといけなかった。放課後、先生と一緒になってページの抜けや漏れがないか、お馬鹿な男子たちが変なことを書いてはいないかと、つまる気配のないページ達をぱらぱらと捲っていく。


 出席番号16番。

 億劫に動く手が、止まった。


 二ページいっぱいに描かれた、大人びた女性のイラスト。まるで斧か何かのように大きな筆を担いで、ペンキだらけの服や頬を見せつけるようにこちらを睨みつけている。その表情は挑戦的で、誇らしげで、私の凡庸な心を波立たせる。けっして広くない空間に思い切って使われた濃い色が目を刺してきて、淡い色が優しく返しを作って、抜けてくれない。

 髪から爪先まで鮮やかな色たちで形作られた彼女の隅のスペースに整った文字で書かれた、数行の言葉。

『将来の自分をイメージして書きました。絵の仕事に就きたいです。須賀芽衣子』


「須賀か。すごいよな。高校は親に薦められたとこに行くらしいけど、絶対絵に関係した大学に行くんだってさ。野望だな」

 一緒にチェックをしていた担任の先生がこちらを覗いて、少しおどけるように注釈をつけてくれた。私は絵を食い入るように見つめたまま、その言葉を聞いていた。

「野望」

 自分の耳にも聴こえないように、反芻するように呟く。おおよそ彼女らしくない強い単語に実感が湧かなかった。

 実感って。内の私が自嘲した。そもそも私がメーコのなにを知っていたんだろう。関わりなんて、文化祭でするダンスを一向に覚えられない彼女を見かねて何度か教えてあげたことくらい。それも副委員長として、みたいな義務的な関わり。メーコの好きな食べ物ひとつ、誕生日すらも知らなかった。

 なのにらしくない、なんて。

 イラストの緑髪を指で撫でてみる。印刷されたそれは当たり前のように無機質な紙の質感を伝えてきて、焦らついた。逃げるように捲った17番の、履歴書チックに書かれたその場しのぎプロフィールを八つ当たりで破り捨ててしまいたい。

 悔しい、と思った。そう、悔しい。

 景色の一部だった女の子に波風を立てられたことが悔しいんだ。

 ばしゃばしゃと乱雑にページを捲って、自分に与えられた二ページを見つける。岩田佳奈の未来は、『幼稚園の先生』らしい。書いたことすら覚えてない自分に呆れて、でもみんなそんなもんだと思い直す。言い聞かせる。

 完成してクラス全員に配られた草子の35ページから始まるメーコの二ページは、流石に目を引いた。それでもクラスの反応は私の予想を下回り、せいぜいが誰かの読書感想文が県のいいところまでいったくらい。ちらちらとメーコを見て、友人ともの珍しげに囁きあって、それきり。

 別にちやほやされている彼女が見たかったわけではないけれど、釈然としないままに私はメーコを観察し始めた。

 彼女はなにも変わらない。

 輪の中でさえ、控えめに振る舞う。

 図書委員。

 小さめのお弁当。

 体育の着替え。

 吹奏楽のフルートケースは薔薇みたいに赤い。

 帰り道は、同じ方向。雨の日に小さな身体を覆う、父親から借りたみたいに大きな傘は藍色。距離を少しとって歩く。歩幅が全然違うから、合わせる。タイミングまでぴったり。ドラマでやっていた尾行術。まるでストーカーだ。まさに、かもしれない。

 歩を進める度に揺れている髪を見つめる。どうみても黒色にしか見えようのない、綺麗に切り揃えられた髪を私は翡翠色に捉えている。

 目で追って、追いかけて、それで。それで私はどうしたいというのだろう。

 興味があるなら話しかければいいし、怖がるような相手でもない。

 自分が自分でもわからないことがひどくもどかしかった。



       ◇



「買いに行くけど、他に買ってくるものあるー?」

 リビングでくつろぐ母に向けて声を通すと、大丈夫と返しが来た。その声を背に日が落ちかけの玄関の冷たさから逃げるようにドアを開けると、最後まで火を燃やそうとする太陽の光が目を刺した。秋だというのに、随分と働き者だ。不細工な表情を作って、顔を伏せる。

 歩く。あいも変わらずの古臭い背景。マンホールの傍、いつものように欠けたコンクリの穴へ踵を挿してみる。代わり映えのないこの道をどうにかして変えたくて、始めた習慣。一ミリメートルくらいは穴が広がった気もするけれど、結局なにも変わる気配なんかない。跳ねた小石が靴に入った気がする。溜め息。

 先を歩くメーコといつも別れていた場所で一度止まって、彼女の家があるであろう場所へ目を向けてみる。正確な住所はついに知ることはなかった。知ろうとすることさえなかった。

 嫉妬心だというのなら。私の中を渦巻く感情がそれならば、つまらない謎の意地で幼稚園の先生になった時点で勝ちになるはずだ。急に退学届を叩きつけたりしない限りは、夢は叶っていると言える。なのに、棘が抜けてくれる気配はない。

 もっと眩しい夢なら良かったか。きらきらとしてそうな夢を思い浮かべてみる。ケーキ屋さん、キャビンアテンダントに、それにお嫁さん。はっ。幼稚な想像力に呆れる。

 でも嫉妬というのはきっと近いんだろう。

 自分より可愛らしくて、自分より純粋で、自分より眩い。

 そんなメーコが私は羨ましくて堪らないのだ。

 変な意地も彼女との繋がりが、共通項が欠片でも欲しかったのかもしれない。

「どうして、仲良くなんなかったんだろう」

 クラスのグループは違ったし、ソフトボールと吹奏楽に接点はない。体力づくりの一環で校舎の周りをへろへろになりながら走る彼女をたまに見るくらい。それでもグループの中でも笑みを無理矢理に作らないメーコなら、戸惑いこそあれど私を受け止めてくれたに違いないのに。

 スーパーまでの田舎道を淡々と歩きながら、黒から変わる気のない自らの髪を手で鋤く。母用の高いコンディショナーを隠れて使いこんだそれは思いの外とっかかりなく抜けていき、短さも相まってあっという間に手先まで指先を運ぶ。寂しいから、もう一度。

 手はそのままに、瞳を閉じてみた。人の通る気配のないこの道は閉じたって歩ける。微かに混じる夕暮れの眩しさを疎ましく思いながらも妄想する。夢想する。

 もし。メーコと今出会えたら。どんな会話をするんだろう。そもそも仲良くもなかった私にそんな資格はあるんだろうか。資格がないのなら、きっと、彼女が話しかけてくれる奇跡を願うしかない。

 ――――メーコが、話しかけてくれるとしたら。

 随分と知り合いの減ってしまったこの町で寂しさを感じて、それで。それで、背の高さで割と目立つ方だった後ろ姿に声をかけてくれる、とか。

「もしかして、カナ、ちゃん?」

 ……ないな。

 思わず力の入った右手がくしゃり、と短めの髪の形を変えた。

 ないないないない。あの大人しい子がいきなり名前呼びなんて。あるならそう、

「もしかして、岩田さん?」

「久しぶり。帰ってきてたんだ」

 きっとこんな感じ。

「……」

「……えと」

 妄想の中でも無言になるのは許して欲しい。本当になにを話せばいいのかわからないのだ。友達未満のクラスメイトに話しかけられたとして、話題なんてない。黄色い声を上げて喜べるほどのサプライズ感もお互いにないだろうから。

「髪」

「え、」

「だから、髪。緑にしてないんだなって」

 多分、こう言ってもメーコの方はまるでぴんときてくれないと思う。例えば、卒業文集になにを書いたかなんて高校のだって思い出せない。これは、私が勝手に思い出にしてるだけなんだから。

 ……でも。

 覚えていて欲しい。せめて思い立ったようにぱっと表情に花を咲かせて欲しい。

「あ、草子のやつ! うわー……なんだか恥ずかしい」

 嘘、やだ、そんなこと覚えてるんだ――そう言って顔を覆ってくれてもいい。そうすればその隙に私は距離を半歩詰めてみせる。それだけで私の瞳はメーコを更に鮮明に捉えるに違いない。

「うわ、うわ。思いの外恥ずかしいね。あれは自分でも痛かったな、って反省してるの」

 徐々に沸き立った羞恥心を抑えるように顔を両手で挟みながら、メーコは私を見上げてくれる。無駄にでかい私の背の高さはもう棚上の物を役に立たないけれど、彼女は子供のように羨ましがってくれる。表情だけでそれがわかる。

 そうして私はそれを悪戯っぽくからかう。

「相変わらずちっちゃいね」

「岩田さんに勝てる女の子探す方が難しいと思う」

 一般的な話なのに、比べる対象が悪いなんて逃げ方をするメーコに私は笑う。

 そうして、久しぶりに会った時のありがちな会話がようやく始まる。

「今、なにしてるの」

「……たこ焼き」

「たこ焼き?」

「バイトでたこ焼き焼いてる」

 冗談っぽい私の声色に気づいて、少しむくれて欲しい。

「そう返されるとは思わなかった」

「そう? けっこう鉄板ネタなんだけど」

「あ、鉄板ものだけに?! あれ、たこ焼き鉄板ものって言っていいんだっけ?」

「どうだろ、わかんない」

「そっか。わかんないか」

 零れるように声を漏らして笑うのを、私は上から見ている。可笑しそうに細まる瞳に覆い被さる睫毛。変わらず可愛らしく震える肩。風と一緒になって揺れる髪は、夕暮れの陽に照らされて、でも、翡翠色。

 私にはそう見えている。

「こっから通える短大に行ってるよ。一応、幼稚園の先生になるつもり」

 これはどこかのタイミングで。

 彼女には言う必要がある気がするから。でも私はどう答えて欲しいんだろう。

 一瞬迷った私に妄想のメーコは自然に動いて答えをくれた。

「すごい! 夢叶えてるじゃん」

 そうだ、私は褒めて欲しい。母のくれる渋さを隠した笑みではない、無垢な笑みで私を見上げて欲しい。

「え、」

「だって岩田さんもそう草子に書いてたでしょ」

「なんで覚えてるの?」

 そしてそう、驚きたい。

「そっちこそ髪の色まで覚えてたくせに」


 ――――暗転。


「……そっか。岩田さんは夢叶えたんだね。すごいなぁ」

 改まったようにメーコが言うところから始まる。

 逸る気持ちで馳せる思いはどこかせっかちで、ひどく拙い。見たい景色だけが出来損ないのパラパラ漫画みたいだ。都合の良い、感情が動きそうなところ切り取っただけの横着な映画の見方。

 それでも、浸っていたい私は不自然にも思わずに会話を続ける。

「全然すごくない」

「……すごくないの?」

 きょとんとしたメーコの表情。

 だって夢じゃない。その場しのぎの未来を夢と言い張って意地を張っているだけ。彼女の努力に比べたら大したこともないし、そんなに難しくもないと思う。

「幼稚園の先生なんて、誰でもなれるよ」

「ああ」

 聡い子だ。きっと私の変な劣等感にもぼんやりと気づく。

「そんなこと言うなら、私のだって自称すればいつでもイラストレーター、もしくは自称芸術家だよ」

「かっこよさが違うじゃん」

「そう?」

「メーコはイラストレーターって聞いてかっこよく思わないの?」

 名前呼びはまた妄想の特権ってことにしよう。もちろん、呼ばれるのも。

「……すっごく思う」

「ほら」

「いや、それとカナの夢が叶ったことがすごいのは別の話で」

 メーコは得意げにはにかんだように笑んで、そうしてわたわたと手を振って弁解をする。それを面白そうに見る私の耳にはメーコが作り出した音が反響していた。

 カナ。

 カナ。

 佳奈。

 何度目かの恥ずかしい音と、それに共鳴するように響く踏切りの音が私を現実に引き戻した。億劫に足を止めて、また視界を閉じる。眉間にぼんやりとなにかを浮かせて、苦しくなる感情を胸の中から引き出していく。

「すぐ戻るよ。連休で親に顔見せにきただけだから」

 きっと別れ際に私がいつまでいるの、なんて言葉をかけたんだろう。連絡先すら知らないくせに。

 妄想の私は衝き動く。

「……たこ焼き」

「たこ焼き?」

「あーその、私、そう明日。バイトだからさ。良かったら、食べにこない?」

 そこまで言い終えてメーコの言葉を待たずに、ぱちんと弾けた。

 視界は開けて、隣に止まっていた気がする自転車に乗ったジャージ姿は線路を抜けて随分と先を走っている。耳を澄ますと、遠くではしゃぐ子供の声が聴こえた。

「……馬鹿みたい」

 暗がりに慣れすぎた視界には虹色の膜が張られたみたいな翡翠色が浮いている。逃げるようにどこかに浮いていくそれを私は視線で追っていく。でも、掴んで捕まえてしまおうとは思えなかった。

 この翡翠色は一体なんなのだろう。いつの間にか私の心にあって、思い出す度共鳴するように響いて、真っ赤な血さえ染め上げてくるのだ。そよ風ひとつで揺れてしまう葉っぱみたいに簡単にざわつく、臆病な色で。

 それでも私はそのざわつきの中毒になったようにこうして、思い出を巡らせてしまう。

 本当に、どうしようもない。


        ◇


 買い物を事務的に終えて、私の足は再び踏切の前にあった。今度は騒がしい警告音なくのんびりと通り抜けることが出来て、あっという間に私は岐路に立つ。

 ちらりとメーコの家の方へ目を向けるけれど、それだけだった。また寂しさを埋めるように髪を鋤こうとした手はエコバックとレジ袋で塞がってしまっている。私は仕方がなく、諦めた。そうすると無性に肌寒さを感じるのだから不思議だ。まだ季節は秋にだってなっちゃいないのに。

 受け手を待ち望んでいた髪は風に揺れて、痺れを伝えてくる。その痺れはなぜか嬉しげに流れて、輝き散った。

 ああ、多分これは片想いだ。

 たとえ違っても、想っているから片想いなんだ。

 でもそれは答えじゃない。

 進めたい関係ならば、それこそ数年前にどうにかしようはあったわけで。膨れ上がった感情ならば、今すぐメーコの元へ駆けているに違いないから。

 このままでいいのだ。

 私はこの、少し思い出しただけで苦しくなってしまう感情が愛しい。もちろん理想通りに、妄想通りに進むのならば抗う理由はないけれど――これに自分の意志で折り合いや決着を着けるのはひどく寂しいと思う。

 好きな本に挟んだままの栞。

 化粧箱にしまったきりで、でもたまに確認してしまう、元カレからもらった若いアクセサリ。

 海岸で拾ったきれいな貝殻。

 高校時代の制服の、可愛いリボン。

 それを捨ててしまうのは簡単で、ひどく呼吸がしやすかろう。

 でも私は苦しいままがいい。これは変態的な感情だろうか。誰に言ったって理解されようもないかもしれない。それでも私の中に間違いなくあるもやもやとした生の瞬き。これを感情と括るなら、手垢や砂まみれの汚い感情だ。今は平気でも年を重ねたら見るのも嫌になりそうな真っ黒な、光る泥団子。

 でも。たとえそうだとしても、私はたまに引き出して羞恥心や後悔、都合のいい嬉しさで身体を焦がしたい。この想いはそういう、一方的な、自分勝手な詩集の一編だ。

 私は栞を挟んで、身体を家へと向けた。

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