旅は道連れ -血を求めし者-
ルサナの家は僧侶ながら『シャリーゼ』という商業国家に染まっていた為、無駄に美麗な細工のセイラム像などを高額で販売するなどを経てそれなりに豪勢な暮らしをしていた。
ただ彼女自身はまだ幼かった為そのような事情もよくわからず、引っ込み思案だったせいもあり学問所に通い始めても目立つような事はなかった。
しかし初めて出来た友達のサーマという少女と仲良くなり始めた頃に自身の家業に疑問を持つようになる。
友人の家は『シャリーゼ』を代表する大実業家から土地を借り受けて、そこで育てた作物を売って生計を立てているという。
食物というのは生きていく上で欠かせないものであり、実らせるまでかなりの労力が必要なのにも拘らずその商品は安値で取り引きされている。比べて自分の家は食べれもしない像や玉を高値で売りつけている。
価値観というものが存在する以上彼らも心底有り難いと納得してはいるのだろうが、今まで何度も神に祈りを捧げてきたのに救われた経験がないルサナは自身の家で奉っていたセイラムという存在をあまり好きではなかったのだ。
その為明るく元気なサーマが時々土の香りを漂わせている事に憧れを感じていた。自分もいつかは実のある生活が出来たらいいなと・・・。
学問所に通い始めて2年が経った頃、ショウという赤毛の少年が王城からやってきて講師を勤め始める。それからしばらくするとサーマの様子がおかしくなった。
今までさばさばとしていた彼女が恋愛の話に耳を傾けるようになったのだ。馴れ初めなどは聞いていないが彼女らしくわかりやすい行動だった為、ルサナもいくつか質問をして以降はずっと見守る姿勢を貫いてきた。
「ルサナはその、今好きな人とかいないの?」
彼女は自分ばかり質問されているように感じていたらしい。ある日サーマがもじもじしながら尋ねてくるのでこの時ルサナも真剣に考えてみたのだが、
「・・・ない・・・わね。私もいつか誰かを好きになれるのかな・・・」
内向的な思考からつい後ろ向きな発言をしてしまうもサーマが笑って励ましてくれる。友人がそう言ってくれるのならとルサナも明るい笑顔を返す。
そんな彼女達の明るい未来を突然現れたあの悪魔が奪い去ったのだ。
クンシェオルトの遺体を操っていたユリアンは巨大な王城や城壁はもちろん、周囲の建造物をあっけなく崩して回る。
内気な少女は最初その光景を見た時、自身がセイラムを蔑ろにした罰が落ちたのだと思い込むとその場に跪いてすぐに神に祈った。
(どうか私達を助けて下さい。今までの不敬を謝ります。どうか・・・神様・・・)
あまりにも都合が良すぎる祈りにセイラムから白い目で睨まれそうだがこの時のルサナはまだ8歳だ。少女だという点を考慮すれば神も慈悲を与えてくれるかもしれない。
しかしそんな少女の儚い祈りも空しく、この日は緊急避難を促す大鐘がそこら中で鳴り響いていた。歩き慣れていたはずの城下は人でごった返しており破壊されていく景観も含めて方向感覚を失っていたルサナと両親は大きく逃げ遅れていた。
気が付けば近場にあった建物は尽く吹き飛ばされて瓦礫が雨のように降り注いでくる。父は娘を守ろうと咄嗟に抱き着いてきたが人間1人がどうこう出来るはずもなく、2人は生き埋めの状態となっていった。
後から知ったのだがこの時母は瓦礫の被害に会う事は無かったものの近くまで来ていたあの悪魔に消し飛ばされたらしい。しかし痛みや恐怖を味わう事なくこの世を去れたと考えると母が一番ましな死に方だったのかもしれない。
恐怖と悲哀が入り混じる中、瓦礫の下で静かに泣く事しか出来なかったルサナ。
どうせ殺されるなら家族皆で・・・思考は既に最悪の状況しか考えられず、その短い人生を諦めかけていた時。
《・・・血だ。もっと血を寄越せ。さすればお前を助けてやろう。》
初めて聞く女性の低い声に一瞬だけ我に返ったルサナは父の下敷きになりながらも慌てて声の主を探し始めた。
彼女は迷わなかった。何故なら祈りが神に通じたのだから。
セイラムというのは男神のはずだがそれでもこの窮地に助け舟を出してくれる存在は間違いなくセイラムの加護だと信じて疑わない。
自身もうつ伏せの体勢だった為満足に周囲を見渡す事は出来なかったが女性の声は自ら位置を教えてくれたので夢中になってそこに手を伸ばす。
指示された場所は父の腰あたりで、そこには銀製の短剣が巻き付けられていた。ルサナはよくわからないまま柄を握ってそれを自身の胸元に引き寄せてからよく目を凝らして見てみる。
・・・・・父の所有物だろうか?初めて見るその短剣は鍔の中央にはめ込まれている大きな赤い石が目立ちすぎていて他の造形部分に目がいかない。
ずしゃっ。
不意に瓦礫が軽々と取り除かれ、掛け布団のようになっていた父も持ち上げられると肌の黒い死んだ目のような男がこちらを覗きこんできた。
「ほう?中々に器量が良いじゃないか。私の体さえ健在なら喜んで持ち帰りたい所だが・・・」
今まで受けたことの無い欲望の眼差しに身も心も凍りつく。ルサナもまだ少女ではあったがこういった場合自分がどういう扱いを受けるのかくらいは教えられてきている。
(・・・どうしよう・・・慰み者になるくらいならいっそのこと・・・)
一瞬そういった方法が脳裏によぎるもそれを実行に移すには相当な覚悟がいる。そしてルサナはそれが出来るほど強くなかった。ならばせめて・・・
「・・・お、お父さんとお母さんの命だけは・・・た、助けて・・・くだ・・・」
悪魔も自分を手にかけると考えているのならせめて自身が大人しく従うかわりにそれくらいささやかな要求をしてもいいはずだ。
正確にはこれが彼女の性格を考慮した結果唯一出来る小さな抵抗だったのだが、まるで舐め回されているような視線を無遠慮に向けていた悪魔はその小さ過ぎる声に気がつけなかったらしい。
望みと意識を失いそうになったルサナはゆっくりと体を起こして座りなおすと自然と神に祈る形を取る。
結局の所彼女は宗教の家で生まれ育ったのだ。普段は色々と小難しく考えていたものの最後の最後にすがれるのは神しか知らないのだ。
もはやセイラムの名すら出てこないが静かに震えながら一心不乱に祈りを捧げる。傍から見れば悪魔を崇拝していると思われるかもしれないが彼から目を離せないのもまた事実だった。
こんな恐ろしい存在に背を向ければルサナは一瞬で好きなようにやられてしまうだろう。蛇に睨まれた蛙というのもこういった心境なのかもしれない。
《何をしているの?私を抜いて。そしてその刃を自分の脚に突き立てるの。そうすれば貴女を助けてあげる。》
だが忘れていた声の主が恐怖で真っ白になっていたルサナの意識を呼び戻す。言われて自身の右手にあった短剣を思い出すと眼前にいた悪魔を気にする事なくそれを鞘から引き抜いた。
すると刀身が現れる・・・はずだったがそこには何も無い。小さな鍔の先には何も無いのだ。突き立てるも何も刃が無い短剣でどうしろというのか・・・
一連の行動を静かに眺めていた悪魔もこちらの驚きように声を殺して笑いを堪えている。それくらいルサナは驚愕を隠せずにいたのだ。
《さぁ早く。そのままでいいの。貴女達には見えるはずも無いのだから。それを自分の脚に突き立てて。》
しかしルサナは藁をも縋る気持ちでいっぱいだった。今の彼女にはこの声の主に頼るしかなかったのだ。幸い悪魔はこちらの行動に危険なものは何も感じていないらしく続きを興味深そうに待ちわびている様子だ。
恐怖と絶望はすぐ背中に迫っている。このまま再びそれに飲み込まれるくらいなら・・・もはやこれに賭けるしかないのか。
彼女はその声に言われるがまま刃のついていない短剣を思いっきり自分の太腿に突き立てるように叩き付けた。
ずむっ!!
「あうっ?!?!」
想像すらしていなかった初めての痛みに思わず大きな声を上げる。見れば衣服はゆっくりと血に染まり、刀身が無かったはずの短剣が自分の脚に深く突き刺さっているではないか。
今度はその光景に恐怖を感じるもルサナは与えられた使命を全うした達成感に浸っていた。更にこれで何かが変わるのかもしれないという希望が芽生え始めていく。
しかしこの声に従った結果、彼女の人生は大きく狂い始める事となる。
《よくやったわ。》
謎の声は喜色を交えてそう囁くと急激に自身の体が熱を帯びてくる。あまりの熱さに耐え切れず体を捻らせて悶えるも気が付けばその右手は自身の太腿に突き刺さっていた短剣を引き抜いていた。
痛みに体が反応したはずだが彼女が思ったような声は出ず、自分の意思とは関係なくゆっくりと立ち上がって静かに悪魔を見据えるのだから驚きで言葉に詰まる。
(あ、あれ・・・痛みが・・・それに私ってこんなに背が高かったかな・・・?)
のぞき込まれていた時にはルサナと2尺以上の差があったように思えたが今は頭一つ分くらいの差にしか見えない。色々と理解が追い付かない出来事が身の回りで起きている。
そう気が付いたのは次の瞬間だった。
《貴方は・・・人間ではなさそうね?その体はとうに死んでいるのに動いているという事は天族あたりかしら?》
自分の体と声で自分の意思とは無関係な言葉を話し始めるルサナ。その意味不明な内容に目を白黒させながら口元を手で押さえようとするも体が彼女の意思に従うことはなかった。
「何だ貴様は?」
下心から優しく接してきていた悪魔は表情を一変させてこちらに厳しい視線を向けてくる。命乞いをしていたルサナは再度彼の許しを請う為に跪きたかったが今となっては叶わぬ願いのようだ。
《私は血を求めし者と呼ばれているわ。たった今契約を交わした所で現在の状況はよくわかっていないのだけれど、見逃してもらえないかしら?》
しかしその言葉を聞いて内心とても安心した。この窮地を脱する事さえできればどんな形でもいいのだ。幸いなことに自分の体は自分と違って随分肝の据わった人格が取り仕切っているらしく言動も堂々としており相手に意図が伝わっている。
あとはこれだけ国を破壊尽くした悪魔がこちらの要望に応えてくれるのかどうか・・・
「駄目だな。私の正体を見抜ける者を見過ごす訳にはいかん。」
何の事だかさっぱりわからかったが即答された内容は決してよいものではなかった。短剣を突き立ててしまったせいで自身の体はおかしくなるし悪魔の機嫌は損ねてしまうしで散々だ。
こんな事ならもっとはっきり自分の体を差し出す意思を伝えて許しを請うべきだった。内気なルサナはいつもその表現力の乏しさにこういった後悔を幾度と繰り返して生きてきた。
そして今日、命が脅かされている場面に遭遇しても普段通りの自分だった。本当に嫌になる。
《うるさい。ぐちぐちと悩むな。頭が痛くなる。》
(え?!)
先程短剣を突き立てろと命令してきた女性の声がぶっきらぼうな口調で暴言を吐いてきたのでまた大きく驚かされたルサナ。だがそれは悪魔には聞こえていないらしい。本当に自分の体で何が起こっているのだろう?
ぎゃりりっ!!!
しかしそれを尋ねようとする前に眼前の悪魔が動き出した。
手にした細身の剣を力一杯に叩きつけてきたのを自分の体が受け止める。見れば短剣だと思われていたそれは長く赤い刀身と化しておりルサナは初めて見る猛者同士の戦いに唖然とするしかなかった。
目の前には厳しい表情をした悪魔が細い剣を押し付けてくるが、自分ではない誰かがルサナの体を使ってそれを凌いでいる。
その認識も本当に正しいのかはわからない。だが神から授かった力が自分達を護ってくれているという事実は疑いようがなかった。
やがてどちらから動いたのか、お互いがぶつけ合っていた刀身を一気に押し返すと双方が大きく後方に下がって距離を取る。
すると悪魔の方がその細い剣を見えない速度で振ったらしい。かなり離れた場所から何かが飛んできたのでルサナの体は大きく動いてそれを躱す。
同時に2人が遠距離からの攻防を開始すると自分の体が地面という鎖から解き放たれて戦場を大空へと替えていったのだから嫌が応にも廃墟と化した『シャリーゼ』が視界に入ってくる。
(ま、まさか・・・そ、そん・・・な・・・)
王城が立っていた場所は文字通り瓦礫の山と化しており城下に残る建物も数えられるくらいしか残っていない。
こんな状態の中よく自分と父は無事でいられたなと変な感心をするがこうなると一番の友人であるサーマの安否も気になる。きっと今頃は家族で実業家の領内へ逃げ込んでいる。そう信じたい。
ルサナが他人の心配をする余裕が出てくる中、自分の体は地上にいる悪魔を見下ろしながら飛んでくる剣閃を躱していた。
自分の事のはずなのに関与出来ない歯がゆさはあるものの、あの悪魔を前にこんな動きは到底出来ないのでこの場面はあの声の主に任せるしかない。
見た感じ苦戦をしている訳ではないがこちらからの攻撃はほぼしていないように見える。ならばどうやって相手を倒すのだろうか?
期待と不安に胸を膨らませながら戦いの行方を見守っていたルサナだったが、突然自分の体が動きを止めて真っ直ぐに真下を見下ろし始めた。
悪魔は空を飛べないのか追いかけてくる事なく地上で剣を振るっていたがちょこまかと動いていた敵が止まったのだ。ここぞとばかりに剣を振るって無数の斬撃を飛ばしてくる。
(あ、あれ?!)
やっと繋ぎ止めた命がここで散ってしまうのか?自分の体の事なのに現状が何一つ理解出来ないルサナは慌ててその場から逃げ出そうとするもやはり指先一つ動かない。
(い、嫌・・・し、死にたくない・・・せっかく助かったと思ったのに・・・)
救われたと確信していた為生への執着が芽生えていたルサナは何とか体を動かそうともがき続けるがそれが反応することはなかった。それどころか、
《やめてよ鬱陶しいわね。》
と、体を動かしているであろう女性にまた強く罵られてすっかり怯えてしまった。こうなれば彼女に任せるしかないのか・・・不安だがここまで彼女のおかげで生きながらえたのも事実だ。
心の中で手を合わせて神に祈るルサナをよそに無数の斬撃がいよいよ彼女の体を斬り刻もうとしたその瞬間。
ずぅぉぉおおっ!!
それら全ての攻撃を躱しながら急降下していくルサナの体。その速過ぎる動きを目で追う事は出来なかったが恐らくその勢いを活かしてあの悪魔を葬ろうとしているはずだ。
これでやっと訳の分からない状況の説明もしてもらえるだろうし、本当に命も助かるのだと安心したらほぅっと心の中で静かな溜息が出た。
だがこれまでも彼女が予想出来なかった事象が起こり続けてきたのだ。最後もそれは予期せぬ方向へと進む。
ばきゃんっ!!
悪魔の近くにあった形の残っている建物に急接近した自分の体はそれを激しく叩きつけて瓦礫を飛ばす。と同時に自身は倒れている父と手首らしきものを拾うとそのまま南の森へと飛んで逃げていった。
王都からかなり離れた場所でやっと地上に降りたルサナはその瞬間体の感覚が戻って来た事を感じる。
「う、うわっ!!」
同時に片手で抱きかかえていた父の重さに思わず声を上げるとそのままつんのめって倒れ込み、左手で握っていた手首の感触に小さな悲鳴を上げて手を離した。
《それは貴女の母親だったものよ。折角拾ってあげたんだからもう少し丁寧に扱ってよね。》
命の危険はなくなったみたいだがその後に突き付けられた事実に心が、胸が苦しくて呼吸が浅くなっていく。
「こ、これが・・・お母さん?」
いくら実母といえど手首だけでそれが本当に母の物なのかを判断するのは難しい。しかしルサナは冷たくなったその手首をそっと拾い上げると静かに顔に近づけてみた。
すると僅かだが確かに懐かしい匂いがする。脳裏に刻まれた記憶が瞬く間に蘇り、その手の主によってここまで育てられてきたのだと訴えてくるのだ。
母は亡くなった。そう確信したルサナは未だ気を失っている父の隣でその手を強く抱きしめると静かに泣き出していた。
どれくらいの時が経ったのか。
彼女の涙が枯れて少しずつ落ち着きを見せ始めた頃、今まで傍にいたらしい例の存在がゆっくりと語りかけてきた。
《さてルサナ。貴女は私と血の契約を交わした。これからは私に従って生きてもらうわよ?》
母を失った悲しみでその意味がすぐに理解できなかったルサナは虚ろな目で姿の見えない女性を探し始める。
思えばこの声の主はまだ一回も彼女の前に姿を現していない。言われたままに短剣を太腿に突き刺せば体の自由は利かなくなるし一体何なのだろう?
「あ、あの・・・あなたは、誰ですか?」
《私は『血を求めし者』と呼ばれているわ。今回貴女の血と強く結びついた事で再びこの世に意思を下ろす事が出来たの。》
答えてはくれたものの、やっぱりその内容は理解に苦しむ。『血を求めし者』というのも名前というより二つ名といった感じだ。
「あ、あ、あの・・・その、助けてくれてありがとうございます。」
未だに頭がぼーっとしているのでとりあえず御礼だけはと姿の見えぬ女性にその場で頭を垂れてしっかりと謝意を伝えると、相手は楽しそうな声でくすくすと笑い出す。
・・・・・何だろう。姿が見えないのにその声はまるですぐ隣にいるかのように聞こえる。命の恩人に変わりは無いがそれでも少し不気味に感じたルサナは未だ気を失っている父の傍に移動しながら母を胸に押し当てて周囲を伺う。
《ふふふ。貴女が困る姿と思考は中々面白いけどそろそろ教えてあげる。私は貴女の血となった。だから姿は見えなくても声が聞こえるの。》
「え?私の血??・・・え???」
勿体ぶって教えてもらった答えのはずがルサナが理解するのは不可能な話だった。そしてそれを悟った『血を求めし者』はゆっくりとルサナの右手を動かして真上に上げてみせた。
「あ、あれ・・・ま、また体が勝手に・・・あれ?今度は声が出る?」
《私は貴女の体内に存在して、それを自由に扱えるようになったっていえばわかる?》
「・・・えええ?!そ、そんな・・・何でそんな事に?!」
《だってあの時貴女は私が封印されていた短剣を自分の体に突き立てたじゃない。その時私の力と貴女の血が結びついたのよ。だから今後はこの体を私が自由に使えるって事。いい?》
(・・・あ!そういえば刃がついていなかった短剣を・・・)
思い出してすぐに自分の右太腿に手をやるが衣服に大きな血痕こそ残っていたものの痛みや違和感はすでになくなっていた。
あの時は刀身のない短剣が太腿に突き刺さるとは思ってもいなかったし力と血が結びつく?なんて言われた今でも理解出来ていないのに予期するなんて更に不可能だ。
「え、っと・・・その、私はこれからどうすれば・・・?」
《そんなに怖がらないで。私が力を振るうために時々協力してくれるだけでいいの。それが私との契約。わかった?》
「は、はぁ・・・」
姿の見えない相手と話の見えない内容にただ生返事をするしかなかったルサナ。
とにかく生き長らえる事が出来たのは間違いない。ただ『血を求めし者』曰く、あの悪魔を倒すには少し血が足りなかったらしく今は剣を交えたくないから逃げてきたそうだ。
《貴女の母親の仇は必ず取ってあげる。でも今はその時じゃないわ。》
それから目を覚ました父にこれまでの経緯を打ち明けると3人は皆が逃げ込んでいるであろう大実業家ジェローラの領内へ避難するのだった。
母を亡くしたルサナは喪失感が未だ癒えておらず、仲の良かった友人がこの場に居ない事も気になって落ち着かない。
そんな様子の娘が心配で仕方なかった父はつきっきりで面倒を見てくれていた。といっても彼も最愛の伴侶を亡くしたのだ。残った家族同士、今まで以上に助け合って生きていかねばならない。
ただどうしても気になっていた事があったらしく、沈んでいた娘の前で軽く咳払いをしてから落ち着き払った声で父が問いかけてきた。
「ルサナ。その右足はどうしたんだ?かなりの出血があったみたいだけど。服も破けているし。傷は大丈夫なのか?」
伴侶を失い家族はもはや娘一人しか残っていない、そんな大切な存在が怪我を負っている可能性があったのだ。気落ちしてはいたものの父からすればこれ以上大切な家族を失いたくない気持ちが勝った故の問いかけだ。
しかしこれにどう答えればいいのか。そもそもどこから説明すればいいのか。
悲しい気持ちから目を逸らせるくらいには厄介な質問に頭を悩ませるルサナ。だが相手は父親だ。それに短剣の事もある。
「うん、大丈夫。それよりお父さん、この短剣って何なの?」
自分で刺したなどと言えば余計な心配をさせかねないので傷は全く問題ないと伝えてからこちらも気になっていた事を尋ねてみた。
「ああ。それは我が家に代々伝わる短剣を模した装飾品さ。刃が付いていないから鞘を小物入れとして使っているんだけど、お前いつの間に抜き取ったんだ?」
父が自分の腰に手を当てて不思議そうに首を傾げる。2人で瓦礫の下敷きとなっていた時、『血を求めし者』に言われるがまま手にしたのだがそれなりに大事な物だったらしい。
(代々伝わる・・・)
もうすぐ9歳になるルサナが今まで一度も目にしたことがなかったのはどこかに仕舞われていたからだろうか?少しひっかかる部分はあったがそれよりもっと気になっていた事も尋ねてみる。
「じゃ、じゃあ『血を求めし者』って、お父さん知ってる?」
未だに信じられないがこの短剣を自分の太腿に突き刺した事で彼女の力を使って命拾いしたのだ。短剣が家宝のように伝わっているのなら彼女についても何か口伝のようなものがあるのでは?と考えたのだが。
「『血を求めし者』?なんだそれは?」
父は初めて聞く言葉にきょとんとしている。彼も聖職者だ。更に実の娘へ嘘をつくような男ではない為、本当に何も知らないのだと納得する。
ほんの少しのやり取りだったが久しぶりに父と会話らしい会話が生まれた事で悲しみが拭えた気がしたルサナは内向的ながらも父と2人で生きていこうと心に誓いを立てた。
それから2週間後には『ネ=ウィン』の精鋭達があの悪魔を討伐したという報を聞いて生き残った国民達は大いに喜んでいた。
だがルサナだけは空から見た王都の惨状を知っている。悪魔が退治されたとはいえあの光景が目に焼き付いていた彼女だけは祝宴の中、歌い踊る彼らを寂しそうに眺めていた。
避難していた国民達が意気揚々と王都へ帰還した時、皆がその景色を見て愕然としていた。
商業都市としてあれだけ栄えていた街は面影を残す事無く廃墟と瓦礫の荒野へと変貌していたのだから当然と言えば当然か。
「・・・これは立て直すのが大変だな。」
しかし父を含めて彼らが前向きに作業を始めようと決心していたのには驚いた。その理由が宰相であるモレストだ。彼が周辺国や同盟国に働きかけて援助物資を確保出来た事により皆の心配を取り除いたのだという。
悪魔の襲撃によって王女も亡くなったようなので尚更彼が先頭に立って国を立て直そうとする姿は国民達も大いに感化される所があるのだろう。
更に初めて聞く名の国から派遣されてきた大将軍とやらの力が凄まじく、国民達の士気を急上昇させたのだ。
いきなり現れた蒼い髪の少年が王都の奥へと入っていくとしばらくしてから巨大な瓦礫が次々に飛来してきたのだから皆が腰を抜かしていた。驚くべきことにそれらはほぼ同じ場所へと落ちてきたのであっという間に小さな山が出来上がる。
お陰で骨の折れる巨大な瓦礫の処理は半日ほどで終わり、その後少年は『ネ=ウィン』の大きな軍人と腕相撲などをして過ごしていた。
(・・・世の中には凄い人がいるんだな・・・)
ルサナは感心しながらふと『血を求めし者』の力を借りれば私もあれくらい出来るのでは?という疑問が湧いてきた。
別に強い力を須らく戦いに使う必要はないのだ。今は国の立て直しが第一、ならば自分ももし協力出来るのなら・・・そうぼんやりと考えてみたのだが。
《ちょっと?私の事を小間使いみたいに考えるのはやめてもらえるかしら?》
しかしルサナの思考は全て読まれているらしい。全く声を聞かなかった彼女がいきなり話しかけてきたので体が跳ね上がるほど驚く。
「い、いえ。そんなつもりは・・・」
彼女の声はルサナにしか届いておらず、独り言のように弁明する少女を周囲が訝し気な視線で見守ってくれる。
《私の力は戦う為のものなの。貴女達人間の雑用に用いようなんて二度と考えないで。》
『血を求めし者』は言いたい事だけ言い放つとまた無言に戻っていく。自分の中にいるらしい彼女だが1ヶ月以上経った今もろくな交流が出来ておらず未だにその正体がよくわからない。
そんな中ある日父が珍しくしかめっ面で仮住まいに戻ってきた。
「ルサナ、少し話がある。」
向かい合って座るとしばらく沈黙が続いた。彼も僧侶という職についてはいるものの口はそれほど達者ではない。
やがて話の内容がまとまったのか静かに口を開くと現在の『シャリーゼ』について説明し始めた。
何でも王都にいた4割以上の人間が亡くなり、国を陰から支えていた大実業家も4人が他国へと移住を決め込んだらしい。
それにより商業国家の体を保てなくなった『シャリーゼ』はその指針を大きく転換せねばならず、周辺国からの援助にも限度が来ている事から早急に自立を成立させねばならないという。
結果唯一この国に残った大実業家ジェローラの下で働ける者を中心に王都を再構築して行き、他事業の職に就いていた者は辺境への移住をという方向で話が決まったそうだ。
「母さんとの思い出の地を離れても祖国を離れる訳じゃない。だから新たな場所で住居を構えてもいいんじゃないかな。」
ルサナの家は宗教家でどの事業にも属していなかったがここにいても足手まといにしかならない。そう考えての決断だったようだ。
「えっと、お父さん。だったら私達もジェロ・・・わかりました。お父さんの意見に従います。」
(?!)
自身ではジェローラ様にお願いして農業をやってみては?という提案をしたかったのに口が勝手に話を終わらせてしまった。
(な、何で・・・って、『血を求めし者』しかいない!)
内心あこがれていた実のある生活、この際それに転向出来ればと思ったのに発言すら許されず、父もルサナが了承してくれた事に安堵を浮かべているので話は蒸し返しにくい。
《言ったでしょ?私は小間使いじゃないの。そんな考えに賛同出来る訳じゃいじゃない?》
3か月ぶりに声を発したと思ったらこれだ。確かに彼女には父共々命を救われたが以降『血を求めし者』の態度が少しずつ変わってきているような気がして少し嫌な感じがした。
だが一度彼女が体を操り始めるとルサナは手も足も口も出ない。
(まだサーマの事も探せていないのに・・・)
彼女の両親が亡くなっている報せは耳に入ってきていたもののサーマの亡骸は未だに見つかっていないらしい。
それも含めてルサナはこの地を離れたくなかったのだが彼女の望みは『血を求めし者』によって潰されてしまう。
何も抵抗出来ないまま一週間が経った後、自分達の移住先が決定したと父から聞かされると心の折れたルサナは今まで以上にふさぎ込んでいくことになる。
余計な事を言い出さないようにするためか、あれから村への移住が完了するまでルサナはずっと自分の意思で体を使う事が出来なかった。
あまりの傍若無人っぷりに流石のルサナも頭の中で愚痴を並べていたのだが、
《本当に五月蝿いわね。私との契約を忘れたの?》
『血を求めし者』に強く言われると内気な彼女はその威圧感に黙り込んでしまう。
やがて『シャリーゼ』国内では比較的余裕があるといわれていた最北の村で新たな生活が始まったのだがそれでも彼女は体を返してはくれなかった。
ここまでくるとルサナもどうこう騒ぐ気が失せており、いつの間にか『血を求めし者』が完璧に演じるようになっていくのを見守るしか出来なくなっていた。
(・・・お父さんは気づいてくれてるのかな?)
相手が命の恩人であり怒らせると怖いという理由から少しずつ自分の立場が、体が乗っ取られていっている事から目を背けていたルサナは呑気にそんな事を考える。
その結果、移住してきた人間達が村に馴染み始めた頃から『血を求めし者』がその本性を明るみにし始めたのだ。
最初は何一つ理解出来なかった。
特定の村人に何度か会いに行っては甘えるような声で媚びを売る。学友達とそういった話はしていたので女が男にする理由も多少はわかってはいたつもりだ。
しかし相手は全て妻子持ちの中年男性であり、必ず2人きりの場所を選んでいた事から何やら後ろめたい雰囲気だけは感じるもその真意はさっぱり理解できない。
(・・・私はまだ小さいから相手にもされないだろうし・・・一体何を考えているの?)
《ふふふ。そうね。貴女の小さな体のままならそうかもね?》
(???)
自分の機嫌を損ねるような内容でなければこうして優しく答えてくれるようになっていたのだがそれにも違和感を覚えていたルサナ。更にこの時自分の事をチヲと呼ばせていたのが気になった。
『シャリーゼ』からこの村にやってきてもう1か月以上は経っている。住民も少ないためルサナ程度の顔と名前は皆が覚えてくれてもよいはずなのに一体どういうことだ?
やがて違和感が当たっていたのだと後悔する日がやって来る。
それは夜中に家から抜け出した時の事だ。
顔を合わせていた中年男性の1人が待ちわびていたらしく家屋の影からひょいっと顔を出して手招きしている。
やがて2人は物音を立てないように息をひそめて木々の麓にやってくると熱い口づけを交わし始めたのでルサナは心の中で絶叫する。
《五月蠅いわね!いい所なんだから黙ってなさい!!》
『血を求めし者』が強く言い放つも体中には様々な部位を触れれている感覚も走っておりとても冷静ではいられない。
(ちょ、ちょっと?!何がどうなっているの?!こ、怖い・・・!怖いよ!!)
自分の意思とは関係なく舌を絡めてお互いを求め合おうとする様に嫌悪感がみるみる膨れ上がる。それに比例して心の声が大きくなっていくから『血を求めし者』も大声で黙るように怒鳴ってくる。
気が付けばルサナの体が反応したのか、その双眸から大粒の涙が溢れ出してきたのだが男はそれを悦びから来ていると勘違いしたらしくより激しく求め始めた。
(やめて!!!やめてーー!!!!)
声は出ずとも必死で抗うルサナにいよいよ業を煮やした『血を求めし者』が動き出す。
《五月蠅いって・・・言ってるでしょぉぉおおお?!》
今まで聞いたことがない程の大声が体を奪われたはずの彼女の鼓膜に突き刺さると一瞬で我に返る。それからすぐに恐怖だけが心を満たしていくのだ。
完全に抵抗する気を失ったルサナの意識は心の更に奥へと閉じ込められていくが『血を求めし者』はこちらに興味を向けることなく逢瀬の続きに戻っていった。
操だけじゃない。体の全てを奪われたんだ。
もう外の事はどうでもいい・・・自分の体が弄ばれるのを眺めるくらいなら目を強く閉じて耳をぎゅっと押さえつけよう。そうやって耐え続けていればいつかはこの閉じ込められた心から解放される日がくるかもしれない。
この夜以降ルサナが意識を取り戻すことは無く、この瞬間から村人達の命運が尽きていくことになる。
体だけでなく心まで縛り付けられたルサナが目を覚ましたのは10歳の年になったある2月の事だった。
耳と目をふさいでいた為村で何が起こっているかなど全く知らなかった彼女だがふと懐かしい気配を感じたので無意識に自我を覗かせたのが始まりだ。
すると目の前には見たことのない中性的な少年と眩しいくらいに輝きを放つ金髪の少女が父や村長と対面していた。
(・・・何だろう。あの人、見たことは無い筈なのに・・・)
初対面の少年に何故か心がくすぐられる。自身の体を支配していた『血を求めし者』の存在を忘れて思わず声を掛けに行こうとするも彼女の体はおどおどとした様子で自室へと帰っていく。
久しぶりに外界と触れた事と突如現れた少年に一瞬で心を動かされた事、そして未だに悪夢が目覚める事なく『血を求めし者』が自分の体を自由に使っている事などルサナの心は情報で溢れかえる。
《まさか天族がこんな僻地に・・・私の知らない間に人間界では何が起こっているの・・・?》
だが彼女のつぶやきが聞こえてきた事でそれらの悩みは彼方へと消え去り、『血を求めし者』が警戒色を露にした『天族』という言葉だけを心にしっかりと刻むとルサナは再び『血を求めし者』への反抗を模索し始めた。
それから毎日のように金髪の少女イルフォシアが我が家に来て父の手伝いをしてくれる事となり、少年クレイスも村の見回りをしてからここに来るようになった。
何故彼らがそんな事をしているのかを誰かに尋ねたかったが今のルサナは『血を求めし者』にその全てを握られている。
しかしずっと心の殻に引きこもっていたのが功を奏しているらしく、彼女がこちらに意識を向ける事がなかったのだ。ここはばれないようにじっくりと彼らの言動を見定めて、現在の状況を打破出切るだけの糸口を探す必要がある。
「大丈夫だとは思うけどルサナも夜は出歩かないようにしてね。」
そして少しずつ村で起こっている出来事を理解し始めたルサナはそれ以上にクレイスの事が気になって仕方がなかった。
何故この人はこんなにも自分に親切なのだろう?『血を求めし者』が完璧にルサナを演じている為こちらから話を振る事はほとんどなかったがそれでも彼は村の見回りが終わった後必ず自分の前で楽しく談笑してくれるのだ。
何故自分はこの人の事がこんなにも気になるのだろう?話からすると彼はショウ様の友人でもあるらしいがルサナとは初対面のはずだ。
なのにその雰囲気には覚えがある。サーマだ。性別も歳も容姿も全く違うのに何故か彼女と接しているような錯覚に思わず涙ぐみそうになる。彼の魅力とは一体何なのだ?
(・・・もしかしてこれが恋?)
などと考えてすぐにそれを振り払う。自分は命の恩人だと思っていた存在にその全てを奪われているのだ。それを取り戻す為の行動が全てであり最優先なのに何を考えているのだと自分を戒める。
それにクレイスがこちらに優しく接してくれる後ろでは彼は気が付いていないのか、イルフォシアが表情をころころと替えてこちらの様子を伺っていた。
間違いなく彼女はクレイスに好意を寄せている。そして自分以外の異性に優しくしているのを歯がゆく見守っているといったところか。
(そうよね・・・あれが恋する女の子なのよね。)
もし立場が逆だとしてクレイスがイルフォシアに構っていたとしてもああはならないだろうなと思う。
自身の気持ちに答えを出したルサナはそれ以降彼の事を深く考えずにただ聞こえてくる会話に耳を澄まして解決策を探そうと試みる。
「ウラーヘヴ様。この短剣・・・いえ、小物入れはどこで手に入れられたのですか?」
そしてある日、熱を出したという親子が薬を求めてやってきた時にイルフォシアの放った言葉でルサナの思考に閃きが下りた。
(そうだわ!あの短剣・・・あれを壊せればもしかして・・・!)
「どこでしょうね?物心付いた時から我が家にありましたからね。」
以前と同じく父はそう言って笑っている。何故あんな禍々しい呪物が代々我が家にあったのかはさておき、『天族』にこの意思を伝える事が出来れば・・・
《うふふ。そんな事が出来ると思っているの?》
久しぶりに声を掛けられてルサナの心は激しく動揺した。もう『血を求めし者』の興味は外界にしかなくこちらの存在など忘れているのだと思っていたのだが。
《残念♪貴女と私はほぼ1つに成りかけているの。心の奥底を全て見通せる自信はないけど軽率な思考くらいはお見通しよ?》
彼女は軽く言いのけたがその事実がルサナの心に重く突き刺さった。だとすればもう本当に望みがない・・・最初こそ命の恩人だという認識だったは今では彼女の方が悪魔だったのだと断言出来る。
自分の体を自由に使われ続ける中、誰にも相談出来ないでいた苦しさと悔しさ、そしてそれ以上の憎しみが心を満たし始めた時。
「・・・た、たすけ、て・・・」
ルサナは半年振りに自分の声を外に漏らす事が出来たのだが、それは誰の耳にも届く事はなかった。
一瞬でも自分の体を取り戻せた。この事実にはルサナの心も大いに弾み、『血を求めし者』は信じられないといった様子を包み隠さず声に出して漏らしていた。
《まさか・・・貴女、私が思っている以上に強いのね。》
(強い?私が?)
どういった意味でそんな言葉を選んだのだろう。ルサナは戦いなどの経験もないし内向的な性格も強いと言われるようなものではない。
だが僅かに手繰り寄せた希望から自分もこの悪魔に対抗出来るかもしれない、追い払えるかもしれないという高揚感が心を満たしていく。
今までと違って『血を求めし者』に怒鳴られても構わない。ほんの少し耳がきーんとするだけだ。いや、体を乗っ取られている以上これもただの幻聴に過ぎない。
言いたい事を言って動きたいように動こう。それこそがルサナの出来る唯一の抵抗なのだから。
そんな少女の小さな決断を黙認していた『血を求めし者』が次に動き始めた時、その余裕と謎が一気に明かされる。
クレイス達がこの村に来てから1か月、見回りをしっかりと行っていた御蔭で変死体が生み出される事はなかった。
代わりにといっては何だが重厚な外套を身に纏った根暗そうな男がやってくるとクレイスに戦いを挑み、彼はそれに敗れていた。
命に別状はないものの力量差は相当あるらしく、『血を求めし者』が屋内から2人の戦いを覗き見ていたのでルサナもこの時だけは黙って見守っていた。
《バルバロッサか・・・あれは少し厄介ね。》
彼女がまたも呟いているので新たな希望を得られた喜びを隠しつつ、同時にルサナはその言葉を疑い始めた。
『天族』といいバルバロッサといい、『血を求めし者』からすればあまり良い情報には思えないし、それをこちらに教えても不味いだけなのに何故わざわざ口に出しているのだろう?と。
(・・・知られても問題ないと思われている?どうせ私には何も出来ないって思われてる?)
そう考えると非常に合点がいく。と同時にまたも慣れない怒りに頭が沸騰しそうになる。
自分の事を騙して、契約だとか言い張ってルサナの体を乗っ取った挙句村の男と淫行などやりたい放題な『血を求めし者』。これを何としてでも退治せねば。
《うふふ。貴女本当に可愛いわね。》
しかし彼女の怒りと憎しみはそんな一言で一蹴される。相手がサーマやクレイスなら気恥ずかしさも覚えるだろうが今はより憎悪が膨れ上がるだけだ。
《もう少し利用したかったんだけどこのままじゃ私のお腹が減っていく一方だし、そろそろクレイスには去ってもらいましょうか。》
だがこちらの心情などお構いなしに『血を求めし者』が物騒な事を口走ったのでルサナの心は焦りに溺れる。
(ま、まさか・・・)
駄目だ。クレイスはあれ程こちらを気遣ってくれる心優しい少年だ。彼に危害を加えるのだけは絶対に駄目だ!
彼女は必死に体を止めようとするも『血を求めし者』は平然とこちらに余裕のある薄い笑い声を向けてくるのだった。
いつ問題を起こそうとしているのか。気が気ではないルサナは日夜自分の体を動かそうともがき続けていた。
しかし『血を求めし者』はそんな彼女の行動を嘲笑うかのように耳元でクスクスと声を漏らしている。非常に耳障りで頭に来るが時間は一刻を争うのだ。
そして遂に運命の日が訪れる。
珍しく村長が顔を出すとイルフォシア、そして父が食卓を囲んで座る。話題は先日クレイスと戦ったバルバロッサに村の事件を頼めないかという内容だったのでこれにはルサナも別の怒りが沸き上がった。
(そんな!!今までクレイス様のご厚意に甘えていてそれは・・・!!)
《あら?そんなにおかしな事じゃないわよ?だって彼の方が強いし強国の将軍なんでしょ?》
蔭から覗き見していたルサナの体内では激高と冷静が言葉を交わしていた。見れば隣に座っていたイルフォシアも声を荒げている。大切な人がぞんざいに扱われたのだ。その感情は痛い程理解出来た。
《でもまさか村長がきっかけを作ってくれるなんて・・・私って本当に幸運だわ。》
(きっかけ?幸運??)
言っている意味はわからないが何かしら悪巧みを企てているのは間違いなさそうだ。ならば今こそ体を。自分の体を取り戻さねばと奮闘する。
といっても何をどうすればいいのかはさっぱりわからないのであの時のように、一瞬でも言葉を発せた時のように心が張り裂けんばかりに祈り、そして力み続ける。
「も、もう駄目か・・・・・」
すると突然父の情けない声が漏れたかと思えば彼はふらふらと立ち上がって戸棚に手を突っ込むと『血を求めし者』と契約を交わした時の短剣を抜いて2人に襲い掛かろうとした。
同時にこの家へ入って来たクレイスが危険を察知してすぐ2人を護るように前に立つ。
(え?!えっ?!お父さん?!何やってるの?!)
何故父がそんな行動に出たのか微塵もわからないルサナはただただ口を開けて眺めるだけだった。更に彼が手にする短剣にはしっかりと刃が付いていたのにも驚く。
(何で?・・・何でなの?)
今までの流れでこうなるとは全く予期出来なかったし出来る訳もない。一体何故?頭の中が混乱して言葉を失うルサナに『血を求めし者』が相変わらず耳障りな薄い笑い声を聞かせてくるので心は一瞬で憎悪に染まる。
《何故?それは私があの男を操っているからに決まっているでしょ?》
(・・・父を操る?まさかそれって・・・)
つまり父も『血を求めし者』に乗っ取られていたのか?いつの間に?今までそんな素振りも見せなかったし気が付けなかった。
嘘だと思いたいが今の自分がまさにそうなのだ。これを否定するのは難しく、そして納得し難い。
《うふふ。あの短剣、代々家に伝わるっていう話を聞いて貴女もおかしいって何度も気になってたじゃない?》
(・・・・・)
《あれは私がそう言わせていただけ。貴女の家に来たのってごく最近なのよ?》
(あっ?!)
言われて違和感と自分の記憶が正しかったのだと痛感して思わず声を上げる。やっぱりそうだった。
宗教家の家に生まれて10年近く、あれだけ派手な赤い石がはめ込んである儀式用の短剣を見た覚えがない事が不思議で仕方なかった。それにこんな邪悪な力があるのを知らないというのも可笑しな話だった。
(な、何で・・・どうして私の家族の所に来ちゃったの?!)
他の家に行ってくれれば自分達が犠牲になる事はなかったのに。何故自分の家族だけがこんな目に・・・
他人の犠牲を喜ぶつもりはなかったがそれでも考えずにはいられない。これが運命だというのなら、これが神の御業だというのならあまりにもひどい仕打ちだ。
悲しみと苦しみで泣きじゃくるルサナをよそに父が殺人鬼だと断定されたこの日、村人達は宴でその喜びと開放感を夜通し発散し続ける。
翌朝クレイス達が北へ旅立った後、サヴィロイの村は文字通り血を求めし者が蹂躙する事で誰一人生き残る事無く滅びへの道を辿っていった。
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