下曽我への報告

しゅう

第1話

 

 下曽我駅は、小田原のJR御殿場線、始まりの国府津駅から一つ目の駅に当たる。下曽我は梅林が有名で、駅から六百メートル登った場所には、宗我神社がある。神社の数十メートル下には、ぼくが尊敬する小説家の尾崎一雄の自宅があった。

 今年、思いがけなく同人誌仲間で出している文芸賞を頂き、良い機会だから、二十数年ぶりに下曽我を訪ねてみようと思った。

ネットで尾崎情報を久しぶりに検索してみると、小田原の文学館に、尾崎さんの書斎が移築させていることを知り、こりゃなんとしても小田原へ行かなきゃ、と強く思うようになった。

 ところが折り悪く、その時はコロナ禍の影響で文学館が閉館中で、一ヶ月くらいして、人数制限に配慮しながら開館された。 

 そうなると、直ぐにでも下曽我に行ってみたいとは思った。だが、六月の下旬に文芸関係の総会が予定されていた。それを済ませてから、折を見て小田原行きを実行した方が、家族からの風当たりが緩いだろうと思った。そのため当初は尾崎さんの書斎へは、七月になって行こうと計画していた。

しかし同人誌の例会で、総会が延期となったことを知り、こりゃ小田原行きを先に出来ると、例会のあった夜に、よく利用する高速バスのサイトで、朝一番の新宿行きを予約した。                  

バスは予約できたものの、家族に断らないわけにはいかず、どう切り出したら良いかと悩みはしたが、バスを予約して料金は払い込んだので、反応は予想しないまま言うしかないと思い、小田原行きを告げると、連れ合いは、

「えっ、なんで今コロナで心配なときに、そんな所まで行かなきゃいけないの」

「受賞して良い機会だから、久しぶりに行ってみたくなったんだ」

「ふーん、でもコロナがもう少し落ち着いてから行っても良いんじゃないの」

 連れ合いは、納得できかねる心持ちを隠そうとはしない。

「でももう、行きのバスは申し込んで金まで支払ったんだ。駄目かな」

「そうなんだ。切符買っちゃったんだ。――じゃあしょうがないか、とにかくばあちゃんには言っておいてね。でも、なんでこの時期に行かなきゃいけないの。今イチわかんない」

と、なんとか了解してくれた。婆さんには寝室でテレビを見ていたところに行き、あす小田原に日帰りで行ってくると告げた。すると案の定、行っちゃあいけない、と言われた。婆さんは、コロナ禍の影響を非常に怖がっていて、家族が遠くに行くことを、必要以上に嫌っているのだ。だが、婆さんの言うことは、初めから無視するつもりでいた。

 連れ合いに言われた、なんでこの時期に、と聞かれたのには、自分でも上手く説明できなかったが、思いつきの小旅行には、きっかけと熱意が重要なんだと思うのであった。

 日程としては、朝イチの高速バスで新宿まで行き、そこから小田急線で新松田駅まで乗り、隣接しているJR松田駅から乗車し下曽我駅に行く。宗我神社を参詣し、尾崎さんの住宅があった場所が、現在どうなっているのか確かめるのと、近くにあった尾崎家の墓も行けたら良いなと考えていたのだ。

下曽我からは、JRで小田原まで行き、「だるま」という食堂で、川崎長太郎が好んで食べていた、ちらし寿司を食べてから、小田原文学館へ向かおうと計画した。

翌朝、四時半頃家を出て、途中でおにぎりと飲み物を買いバス停を確かめて、近くの公園に、時間つぶしに立ち寄ってみた。

駅前デパートの裏にあるその公園は、二・三の遊具とちょっとしたステージがある、こぢんまりとしたものなのだが、落ち着ける場所だ。

 そこで、日帰り旅行というのは、始まってしまえば、あっという間に終わってしまうので、計画したり出発を待つ間も楽しいもんだなぁ、と改めて思ったりした。 

 バスはバスタ新宿に、予定通り十一時前に着いた。大通りをはさんで目の前にあった、小田急線の改札を早足で過ぎて、ホームに新松田行きの快速が停まっていたので、とりあえずそれに乗り込み一息ついた。

 自分では、ここまでは上出来と思っていたが、新松田駅に近づいて、JR線の松田駅から下曽我駅の時刻表をネットで調べたら、今からは一時間位列車がないとこを知った。

 ここで当初の予定通り、このまま下曽我行きを実行すれば、だいぶ時間のロスになると思った。しかし今乗っている列車は、新松田止まりなので、動きようがないなと焦った。小田原文学館は入場締め切りが、午後三時半なので、下曾我へ行ってからでは文学館へ入れないと、かなり動揺した。 

 すると車内案内で、新松田にこの列車が着いてすぐに小田原行きがあることを知った。

 そこで計画を変更し、とりあえず小田原に行こうと決め、胸をなで下ろした。

 小田原駅を出ると、タブレットを取り出し、道案内のアプリを立ち上げ、それに従い、だるま食堂を目指して歩き出した。あいにくの小雨交じりの天気だったが、傘をさすまでもなく、持って行った傘は開かずに歩いた。徒歩で十分位でだるま食堂に着いた。ネットであらかじめ見ていたとおりの重厚でレトロな建物だった。

 川崎長太郎は、この食堂のちらし寿司がお気に入りで、よく食べていたそうである。

 川崎長太郎について不案内な読者がいると思うので、ちょっと彼のプロフィールを簡単に触れてく。 

長太郎さんは明治三十四年に生まれ、昭和六十年に亡くなっている。尾崎さんは、明治三十二年生まれ昭和五十八年に亡くなっている。長太郎さんは、尾崎さんより二つ若いことになる。共に小田原出身(尾崎さんは三重県生まれ)で、私小説系の作家として分類されている。

しかし、普通に家庭を持ち調和を大事にする尾崎さんとは違い、長太郎さんは、長く独身で過ごし、物置小屋に住み体験した事を書き、風俗店を利用したことを公表したりしている。

尾崎さんとはだいぶ趣は違うが、川崎長太郎は、ぼくが尊敬する作家の一人である。

ついでに書くと、下曽我は梅林のあるのどかな住宅街の印象だが、長太郎さんの住んでいた地区は、小田原城に近い市街地だ。

ぼくは、だるま食堂に着くと、迷わずちらし寿司を注文した。店内は昭和レトロというべき雰囲気がある。

写真を撮っておいて、ここに載せれば良かったかも知れないが、写真を撮る趣味はなく、また撮影許可を取るのが面倒臭く、一枚の写真も撮らなかった。

ぼくが、座ったテーブルの前の壁に掛けてある大判の鏡には、清涼飲料名があるのだが、その文字が右側から始まっていて、戦争前からその場所にあるのかな、と思ったりもした。するとこの鏡を見ながら長太郎さんが、ちらし寿司を食べる姿が想像出来て、腹で笑った。

ちらし寿司は、十五センチ位の正方形の木の器に、ご飯が敷き詰められ、その上に刺身などが大量にのっていた。これが税別一千三百円。汁物や漬け物は付いてなかったと記憶している。メニューには、特ちらしや海鮮ちらしも書いてあるので、ちらし寿司はちらし寿司類としては、最も安価なのだろう。

店内では、多くの人が天丼を食べているようだった。この天丼、エビ天ぷらの尻尾が丼からはみ出ていて、人気があるのも分かる気がした。次にこの店に来るときは、天丼を食してみたいと思った。

ちらし寿司の評価としては、可もなく不可もなく値段相応と感じた。でかい急須からセルフで注ぐお茶を飲みながら、ぼくは、一食、一千三百円もするちらし寿司をたびたび食べた長太郎さんって、かなりリッチだったのだろうと思えた。

 当然、長太郎さんがだるま食堂に通った時代と現代では、ちらし寿司の値段が違うだろう。

ただ、時代に沿って物価も高くなるから、現代のぼくが、一千三百円のちらし寿司をたびたび食べるのは、かなりのリッチな生活だと推測するのも、あながち見当外れではない気がする。 

物置小屋に住み、小説を書いて生活するのは、貧しいイメージがあるが、経済的には裕福だったんじゃないだろか、そんなように思えてきた。

会計するとき、レジのおばちゃんに、

「この食堂には、小説家の川崎長太郎が良く通ったそうですね」

と、話を向けると、

「そうみたいですねえ」

「ちらし寿司をよく食べたとか」

「そうそう、ちらし寿司。よく来てたみたいね」

 もっと、長太郎さんにまつわる話をいろいろ聞いてみたかったが、仕事中なので遠慮しておいたのだった。

 その時のレシートに、十三時三十六分とあるので、予定より行動が遅れていたんだと、今思う。

 店を出て、またタブレットを見ながら十分位歩くと、小田原文学館に着いた。

 中に入ると靴箱があり、コロナ禍の影響で密になるのを避けるためか、半分くらいが使えないようにテープを貼られていた。そこにいた職員に額で検温され、どこから来たのか地名だけ書いてくれと言われたので、それに従った。

小雨降る平日に、一人で来るだけでも十分変わっている奴と思われているだろうから、氏名や詳しい住所や電話番号を書くのは、我慢しておいた。

展示室に入ると、誰もいなかった。尾崎さんや長太郎さんをはじめ、小田原ゆかりの文人達の愛用品や自筆原稿、本などが展示されていた。数多くの文人を扱っているせいか、一人ひとりの展示は、わざわざ見に来る分量まではないかと感じた。

文学館の本館には、三十分以上いただろうか。その間、新たな見学者は入ってこなかった。ぼくは、尾崎さんの書斎が敷地内に移築されているから、わざわざイノシシや熊がいる山奥から、コロナ禍でもここまで来たが、文芸にさほど興味のない人が、二百五十円の入場料を払い、見学するのだろうかと感じた。

玄関で検温をしてくれた女性職員とは別に、受付で券売をしていた女性職員がいたので、帰り際にいろいろ質問したら、

「詳しいことをお知りになりたければ、図書館の職員に聞いて頂くのが良いかもしれません」

と言われてしまい、こっちは山出しの暇なオヤジなので、黙り込むしかなかった。

文学館の本館を出た。ちょっと離れた場所に移築された尾崎さんの書斎があった。

何度かネットで確認した建物を間近に見て、感慨深い気持ちがあった。八畳間らしき部屋に、座り机と本棚、ついたてや掛け軸、酒類のビンなどがあった。その部屋の続きに四畳半があり、中央に碁盤を配置してあった。

いかにも小説家の書斎という趣ではあったが、縁側にFFヒーターが置いてあり、電気コードを床に這わせているのが目立ち(十月二日、ネットの映像で確認)なんだか複雑な思いがした。

だるま食堂でちらし寿司を食べた時も思ったのだが、ドラマや映画のロケ地を訪ねたり、小説の舞台を見学する人がいるが、実際、その場に行ってみると、イメージとは違い興ざめする事が、ままあるように想像する。

あこがれはモデルをより美しく、哀愁深くする。決して実像を求めてはいけない。そんな感じがした。

しかし、ネットで見ていた感じでは、書斎内に展示もあり、建物の中に入って見学できるような気がした。もし入室出来る機会があれば、必ず行かなくてはと決心するのだった。

 余談だが、書斎内の写真がネットで公開されていて、ネットの環境さえあれば好きに見られるのは、便利というか面白いもんだと思った。

帰り道は、受付で貰った小田原市街地図を見ながら、小田原城址公園の敷地内を、突っ切ることにした。

幸い公園は解放されていて、市街地地図の裏にあった小田原城址公園案内図を見ながら、割とスムーズに公園を抜けられて、小田原駅に着いた。本来なら、ここでお土産を買うのがベストだとは思ったが、荷物になるし下曽我へ行きたかったので、買わずに先を急いだ。

JRで国府津駅まで行き、御殿場線の発車を待った。下曾我に行くのは、文学散歩などに参加した二十数年ぶりで、無事に宗我神社に参詣できるか、尾崎宅跡を特定できるか、ちょっと不安だったが、時間の制約がないので気が楽だった。

列車が下曾我駅に近づくと、なんだか背筋が伸びる思いがした。

駅から出て、記憶を頼りに山手に登っていくと、ぼくより少し若そうな男がいたので、

「宗我神社へは、この道を登っていけばいいんですか」と聞いた。

「そうだよ、ちょっと距離はあるけどね」

 そう言われたので、そんなに遠かったかなぁと思いつつ歩いていると、広い道路に出て、大きな鳥居をくぐって、さらに登っていく道が見えた。鳥居脇には尾崎一雄文学碑があり、「虫のいろいろ」からの一節が刻まれている。

石碑は綺麗に整備されていて、地元の方や愛好家が、手入れしているんだろうな、と思ったのである。 

 坂道を数分登っていくともう一つの鳥居が見え、その奥に神社の本殿があった。するとそのちょっと手前に、住宅が並んでいる一角があり、畑を柵で囲っている場所が存在した。何となくここが尾崎宅のあった地籍だと分かった。

 遺族の方が、ここには住まないものの、先祖からの土地であり、手放すには躊躇われるので、家庭菜園をして管理しているんだと納得した。

 振り返ると、草に覆われた細道を見つけた。文学散歩の折に尾崎家の墓に行った時の記憶をたどりながら、私有地の看板が見えないので、草をかき分けて進むと、急に開けて墓地に出た。墓石に尾崎とあったのでそうだとは思ったが、敷地内に入るのは遠慮して道ばたで軽く手を合わせた。そして地元の人に会わないうちに急いで帰ってきた。細道で地元の人に見られると、紛れもなくこそ泥か不審者に勘違いされてしまう。

 無事、広い通りに戻ると、宗我神社に参詣した。小雨が続いている境内は、誰も居らずゆっくり出来た。ケチなぼくには珍しく、百円を賽銭箱に入れ無心で自己流の二礼二拍手一礼をして、心でまた来るね、と言った。

 宗我神社では、文芸の賞を貰えた事を報告するつもりでいたが、不思議とそんな気持ちは起こらなかった。

 賽銭箱の横にあった、宗我神社のしおりを一枚頂き、もと来た道を下り始めた。

 次回は自分の車に乗り、山梨経由で来るのも面白いかと想像した。また小田原の市街地の海沿いに、川崎長太郎小屋跡碑があるので、今度はそこも訪ねてみたいと思った。。 

 予定していた所には全て行かれて、今日中に帰れそうなせいか、疲れているのにもかかわらず、ぼくの足取りは軽かった。 



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下曽我への報告 しゅう @paosyuuu

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