真焉外伝 霧の航路 前編
「黙りなさい。オルガーラ」
ぴしゃりと。
長く共に過ごしてきたオルガーラでさえ言葉を失うほど強く、冷たく。
「お前に聞いていません。イザットのルゥナと話しています」
「……」
それとも、と。
目だけを横に流してオルガーラを捉えると、さらに底冷えするような声音で、
「お前も、清廊族を裏切りますか?」
「ティア……ボクは、そんな……」
「怨敵の人間と手を結ぶ。私でなくとも誰がそのようなことを許すと?」
サジュの中央広場に集まる戦士たちの中心で、見定めるかのように右に、左に、ゆっくりと首を回した。
息を呑む音がルゥナの耳にも届く。
清廊族最強の戦士。
越えてきた死地の場数が違う。
絶望的な戦いその全てを乗り切ってきた確かな実績は誰も疑いようがない。
「……」
サジュの戦士たちの多くはティアッテの意思に反するつもりなどないだろうが、それでも背筋を正すほどの圧を発した。
静かな中に凄まじい怒気。
ティアッテがこれほど強く意思を示したのは、ルゥナと相対しているからではない。そうではなくて――
「ティアッテよ。姉神たりえぬ我らに、命の是非を許す許さぬなど――」
「あえて礼を欠きますがメメトハ様。あなたに戦場の何をわかっておられるとお思いですか?」
「……」
メメトハだ。
ティアッテがサジュの戦士たちの心を締め直したのは、イザットのルゥナなどという存在のためではない。メメトハがルゥナの側に立つから。
この場で唯一、サジュの戦士団の団結を揺らがせる可能性を持つ娘。
大長老パニケヤの孫にして、ティアッテの師メディザの子。メディザもまたサジュを守り戦った戦士だった。
メメトハの言葉になら耳を傾けてしまう者もいる。
「私は許しません。無残に殺されてきた清廊族の子らも、共に戦った戦士たちも。そのうちどれほどがその女に殺されたのか、考えもしないなどとは言わないでしょう。イザットのルゥナ」
「……わかっています」
あらためて言葉にされれば苦いものが胸にあふれる。
ルゥナの住んでいたイザットの村だって、この女――女傑コロンバの率いるイスフィロセの軍により壊滅させられたのだから。
斜め後ろに立つコロンバの相棒グリゼルダが、わずかに足の重心を置き換えた。
「やめときな、グリゼルダ」
「……」
「大戦斧のティアッテと大盾のオルガーラが揃ってんだ。逃げるのでいっぱいさ」
「逃げられると思ってんの? ボク、なめられてる?」
先ほどティアッテに叱られた苛立ちをコロンバに向けるオルガーラだが、コロンバの方はさして気にした様子もない。
肩をすくめてオルガーラの威嚇をいなす。
生きた年月ならコロンバよりオルガーラが多いはずだが、人間と清廊族では寿命が違う。直情的で幼さの残るオルガーラは子供扱い。
ティアッテの怒りはもっともだ。
今までさんざん刃を交え、お互いの同胞の命を奪い合ってきた仇敵の力を借りるなど簡単に受け入れられるわけがない。
そもそも信用できるはずもなく、今ここで理性を失い襲い掛かる可能性だって少なくなかった。
そうなればコロンバも抵抗し、少なくない死傷者を出しただろうが。
「老飛竜の嘆願がなければ、先の虜囚の人間どもも即刻殺しているところですが」
冬の前に溜腑峠で捕らえた飛竜騎士たち。
あれも薄氷を踏む勝利だった。
溜腑峠の殻蝲蛄の命と引き替えに、豪傑ムストーグを撃退し飛竜たちを呪いから解放することができた。
飛竜を失い、部下の命のために虜囚となった飛竜騎士ジスラン。
冬の間、仕方なくとはいえ彼らを生かしていたから、人間を見て衝動的な行動に出なかったのだろう。
「ルゥナ、私が……」
「……いえ、大丈夫です。アヴィ」
押し黙るルゥナを気遣うアヴィの声色に、ふと息を吐く。
無益な殺し合いはアヴィを苦しめる。
黒涎山で出会ってからまだ一年程度だけれど、アヴィの心の痛みはわかっている。
殺したくて戦っているのではない。
それは、ルゥナが目を逸らしてきたルゥナ自身の痛みでもあるのだ。
「ティアッテ、私は……私たちは、この戦いを終わらせたいと思っています」
「私が違うとでも? イザットのルゥナ」
「私は、どんな手段を選んででも終わらせる。この覚悟においては貴女にすら勝ります」
「――」
静けさで空気が凍る音がした。
怖い。
今まで直面してきた事態の中で一番怖い。
ティアッテに対して――清廊族最強の戦士で誰よりも厚い信頼を受けるあのティアッテに、ルゥナだって心から敬愛する彼女に対して、自分の方が上だと宣言するのだから。
「ひゅぅ」
「コロンバ……」
「わるかったって」
ティアッテが大地に着いた戦斧の先からぎりぎりと地割れが広がり、ルゥナが揺れるより先にコロンバが口笛を吹く。
ぎろりと、ティアッテの戦意がコロンバに向けられ、かろうじてルゥナは後ずさりしたい気持ちを抑えられた。
「覚悟、とは?」
「ティアッテ、貴女はどうやってこの戦いを終わらせると?」
「知れたことです」
ルゥナの問いに、戦斧を握り直して掲げながら、
「この大地から全ての人間どもを消し去る。カナンラダの正しい在りように帰す道です」
「幼子も母も殺して?」
「全てです」
「悔い改め命乞いする者まで」
「くどい!」
「情けない!」
怒声に負けない怒声を返す。
「なに……情け? 情けなど、人間どもにかける情けなどありません」
「人間に対してではありません。氷乙女ともあろう貴女の在りようが情けないと言っています」
「おい、ルゥナよ」
「メメトハ、言わせて下さいメメトハ」
ぶるぶると震えそうな拳を握りしめて、一歩、ティアッテに詰め寄る。
ここで下がってしまってはもう言葉が出てこない。
「ずっと敵だったから! 今まで歩み寄る道がなかったから! だから皆殺しだなんて!」
「お前に何がわかると言うのですか!」
「貴女が臆病者だということはわかります!」
「っ」
ティアッテの頬にわずかに朱が差し、続けて掲げられていた戦斧の先端が近づいたルゥナに向けられた。
「溜腑峠での働きで驕りましたか、イザットのルゥナ」
「あんなの、貴女が今まで数十年守ってきた戦いの中のひとつにすぎないとわかっています。話を逸らさないで下さい」
ルゥナがこうしてティアッテに意見できるのは、溜腑峠で豪傑を撃退した戦果があるから。
積み上げてきた実績ならティアッテの方がはるかに上だとはわかっている。
「私が……この私を、臆病だと?」
「ティア、それは駄目だ、って……」
オルガーラが弱々しくティアッテの戦斧を諫めると、ぎりと唇をかみしめてから下ろした。
オルガーラとて激昂するティアッテは怖いだろうに。
それでも、仲間を傷つけることはいけないと愚直に口を挟んだ。
「丸腰で話に来た相手も、命乞いする幼子でも殺す。そんなものが誇りある氷乙女の姿と思いたくありません」
「飛竜使いの人間どもとは違う。その女は! ここにいる多くの者の家族を、友を! 殺してきたのです!」
「わかっています。戦場で相まみえればそうでしょう!」
「何もわかっていないお前が――」
「イザットは彼女に滅ぼされた! 私が知らないはずがないでしょう!」
「だっ……それ、なら……っ」
ティアッテが言葉に詰まり、その後ろのサジュの戦士たちの口からもかすかに息が漏れた。
彼らにとってコロンバは憎い仇敵だろうが、それはルゥナの立場でも変わらない。
なんなら、ここの誰より憎んでもいい境遇だ。
「……ち」
後ろのコロンバもかすかに声を漏らした。
ルゥナの気持ちに整理がつくことなどないけれど、少しだけ救われる。
「憎んでも憎みきれない敵! 許せない、わかっています。そんなこと私だってわかってる」
「……」
「だから皆殺しに? 人間を根絶やしにしないと安心できないから……でも、それができなくてずっと戦ってきたんでしょう」
「いつか、必ず」
「できもしない希望を口にする、それこそ裏切りです! 死んだ戦士たちやここにいる皆に!」
ティアッテにそれができるのなら、イザットが滅びることはなかった。
多くの清廊族が苦しみ、死んでいくこともなかった。
「私たちは本当の意味で清廊族を救う。その為には人間との協力も必要だと……彼女らは船乗りです。いずれ全ての人間をロッザロンドに送り返す」
「そんな絵空事を信じろと?」
「戦場で相対するのなら殺す。清廊族を虐げ苦しめる人間に容赦などしません。ですが、戦うこともできない者を皆殺しにして得られる幸せなんてない。あってはいけない」
「それをしてきた人間どもに報いを受けさせます」
「今日生まれた赤子が清廊族に何をしたと言いますか!」
「人間という種族全てが、この大地の敵なのです」
「この大地に生きるのは清廊族だけじゃない。驕っているのは貴女です、ティアッテ」
ヌカサジュのレジッサに言われた。
先の襲撃で襲ってきた飛行船との戦いの中で、彼女の力を借りようとして。
飛行船を操りサジュを襲った首魁も清廊族なのだと。
考えもしなかったルゥナ達に、清廊族こそがこの大地に生きる正しい存在などと思いあがるなと叱責された。
「私はなんとしてもこの戦いを終わらせます。できもしない貴女のやり方ではなく、私の信じる道で」
◆ ◇ ◆
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