第六幕 091話 手順のないあやとり



 生きようとしない。

 死のうとする。


 死ぬ必要などないのに、どうして。



「死ぬのは駄目」

「は」


 言葉は届かない。

 アヴィの言葉では届かない。


「トワが決めたことをお前なんかに」

「決めてない。諦めているだけよ」

「そう、トワにはもう何にもないんですから」


 聞こうとしない。

 耳を塞ぎ、世を儚んで命を捨てようとする。



 生きていればいいことがあるなんて、そんな無責任なことは言えない。

 戦いが終わっても、誰もが望みのまま生きるなんてことはない。


 つらいこともあるだろう。

 戦争とは無関係に、堪えられない痛みも悲しみも存在する。


 けれど、トワはまだ一度も生きていない。

 奴隷として従わされるのではなく、戦いに明け暮れるわけでもない日々。

 本来なら当たり前の毎日を生きたことがない。


 なのになぜ諦める。

 どうして、自分が生きる世界を捨ててしまえるのか。



(私も……)


 思い出した。

 初めて母さんと会った時を。


 死のうとした。

 そこまで積極的ではなかったけれど、生きるのを諦めていた。

 こんな世界に生きる意味なんてないと。



 母さんと会うより前にも。

 ずっと前にも諦めた。生きるのをやめた記憶がある。別の世界で。


 世界は全て無価値だと思い、生きる気力をなくした。

 その時の自分にとっては目に入る範囲、手の届く範囲だけが世界の全てで、それらの全てが枯れ腐ったものにしか見えなかった。


 生きることを諦めて死んだ記憶が残っている。



 別の方向に目を向ければよかったのかもしれない。

 違う道を進めばよかったのかもしれない。

 けれど、その時の自分には出来なかった。そして流れ着いた先でまた絶望の日々を。



 トワは同じだ。

 あの時、救えなかった自分自身。




「生きて……」


 諦めさせたくない。

 あの日の自分に伝えたいことがある。


 母さんに救われた。母さんと出会って幸せを知った。

 諦めていたら今の自分はなかった。

 暖かな思い出の一つもないまま、ルゥナ達を守ることも出来なかった。



「私には、なんて言えばいいかわからない」


 言葉にするのは苦手。

 母さんと一緒。


「確かなことなんてない」


 この先に何があるのか。

 決まっていることなんて何もない。


「約束なんてできない」


 異物の自分が、トワの未来に約束できることもない。

 けれど。



「でも、終わらないで。惨めなまま終わらせないで」

「……」

「貴女の命を惨めなものだって決めつけないで」


 命が薄れていく。

 どんどん冷たくなっていく。

 薄っすらと開いた目は、アヴィの声を聞かないことが抗いだとでも言うように。


 時間がない。

 もう間に合わない。

 トワには死ぬことがせめてもの復讐だと言うように。


「そんなの、何にもならない」


 この場はそれで満足だと思うかもしれないけれど。

 それは、トワの生きた証にはならない。



「は……」

「っ」


 命が消えてしまう。

 トワから溢れ出ていく力は、もうトワにも止められない。

 どうしたらいい。どうすれば時間を……



 ――母さん、助けて。



 アヴィの命を存えさせ、アヴィの心を救ってくれた母さんなら。

 トワのことも救えたかもしれない。

 けれどもう母さんはいなくて、この場にはアヴィだけ。



「母さん、は……」


 どうしたのだったか。

 初めて会った時、死のうとしたアヴィを母さんはどうしたのだったか。



「――っ」


 口づけを交わす。

 生きる糧を注ぎ込む。


 零れていく力を全身で拾い集めて、トワの中に注いだ。

 母さんは命のエネルギーを集められる魔物だった。母さんの力を受け継いだアヴィになら出来る。


 初めて会った時、食べて生きろと母さんが言ってくれたように。

 トワが捨てようとするものを、もう一度彼女の中に戻す。



「ん……」

「む、ぁ」


 トワはアヴィを嫌っている。

 アヴィだって、そんなトワのことを好きだとは言えない。

 きっと、似ているのだ。彼女と自分は。



「んぅ」

「……死なせない」


 熱が戻る。

 薄れかけていた瞳の色が強く戻ってくる。

 時間が作れた。もう一度。


「か、ってな……ことを」

「貴女の方こそ勝手すぎる」


 だからアヴィも勝手にする。

 身勝手で傲慢。命を奪うことをしてきた。今はその逆に向かうだけ。



「自分のことしか考えていない」

「誰だって、おんなじ」

「幼稚なのよ、その考え方は」


 子供扱いするななんて言うくせに、ひどく子供じみた見識。狭い了見。



「貴女が思っている世界なんて、まだほんの一部でしかない。一部でさえない」

「知った、ような……」

「知っている」


 自分が間違えた道だから知っている。

 何度も絶望して、諦めて、間違えてきた。

 悲しみと嘆きと自分の不幸だけが世界の全てだと思い込み、自棄になって。


 自棄になって、死んだ。一度目。

 自棄になって、死のうとした。二度目。

 自棄になって、殺し尽くした。三度目。



「私は何度も間違えた。何度も諦めてきた。世界を」

「……」

「だけど違う。そうじゃない」


 救いはあった。

 母さんとの出会い。

 ルゥナと出会い、もう一度母さんときちんと話せた。

 共に苦しい時を過ごした彼女らに、これからは安心して眠れる時間を作れる。


 生きていてよかった。

 命があってよかった。

 今はそう思える。



「何度でもやり直せる。生きていれば」

「……」


 世界に救いなんてないと、そう思い込んでいた。

 母さんやルゥナのことばかりじゃない。


 アヴィは見ようともしていなかったけれど、あの少年は、アヴィを救おうとしてくれたのだ。


 陰惨な日々の中のアヴィを、どういう理由にしても彼は助けようと手を伸ばした。届かなかったけれど、確かに。

 彼自身にも自覚はなかったのかもしれないが、黒涎山に来た理由もアヴィのことを覚えていたからか。だから戦った時にも手加減をした。


 荒くれものの冒険者ども、不滅の戦神に連れられたアヴィが黒涎山でどうなったのか。気になって。

 アヴィのその後など知る由もない元少年は、魔物と共に生きる清廊族を助け出そうと無意識に考えたのかもしれない。


 彼の手は届かなかった。

 だけど、その手は救いの手だった。

 世界にはきっとある。信じるに足る優しいものが。



「何度だって」


 トワが命を捨てようとするのなら、何度だって続ける。

 死なせない。


「やめ、て……んんぅ」

「ん……トワがやめたら、やめる」


 まだ流れ出そうとするトワの命。

 ぬめるように流れ出すそれらを肌で感じながら、また注ぐ。

 何度でも、何度でも。


「やり直せる。生きていれば、また」

「……でも、トワの望みは」

「ここで死んだら絶対に手に入らない」


 それだけは間違いがない。

 どうしようもなく死ぬのではなくて、諦めて死んでしまうなんて駄目。



「誰も約束なんてしてくれない。貴女の未来に決まった確かなことなんてない」


 自分が諦めた未来もそうだった。

 そのせいで悲しんだ誰かもいただろう。苦しみ、自責した誰かが。


 もう取り戻せない。今まで考えようとしなかったけれど、心から悔む。謝ることさえできない間違い。


 自分の身に降りかかってみて改めて思い知る。死んでほしくない誰かが命を捨てようとするのを見て、胸が締め付けられた。


 どんな形でもいい。生きられるのなら生きてほしい。

 アヴィが諦めた後に、こう思った人がいたに違いないと。



「本当に悔しいなら。見返してやりたいなら。手に入れたいものがあるなら、生きるのよ」

「……」

「這いずってでも、泥を啜ってでも」


 母さんが教えてくれた。

 どんな形でもどんな場所でも、生きようとした先にしかないものがあるって。


「綺麗に生きられたりしない。見苦しくても生きるの」

「それ、で……?」


 それでどうなるのか。

 頑張ったらどうなるのか、なんて。答えを求める。

 だから子供じみている。



「どうなるのかわかっていたら、私だってもっと上手に生きているわ」

「……は」


 アヴィの口から漏れた言葉にトワが笑った。

 弱々しい声で、さもおかしそうに。


「それで説得しているつもり、ですか?」

「苦手なのよ」

「馬鹿みたい……馬鹿ですね」


 トワの腕から力が抜ける。

 命の力が、ではない。

 アヴィに抗い、世界を捨てようとする力が。



「今日は、貴女の負けよ」

「……本当に、言い方とかないんですか」


 既にこの場の勝敗はついている。トワに打つ手などない。

 トワが命を捨てると言うのなら、何度でも拾い集めて吹き込む。

 この火は決して途絶えさせない。


 けれど、この場だけやり過ごしても意味がない。

 トワとは一度、きちんと話さなければならなかった。



「話すのは得意じゃないの」

「……でしょうね」

「でも、私は知っている」


 言葉にするのは難解で、話すのが苦手な自分にはさらに困難だけれど。

 まして明確な答えなんてないものを、嫌い合っているトワに伝えるのはどんな戦いよりも厳しい。



「死んだ方がいいって思ったこともあった。だけど今は、生きていてよかったって思う」

「それはお前が強いから……」

「私は、私の不幸な過去よりも大切なものを得られたから」


 どんな惨めな記憶より、苦渋の過去よりも暖かなものを知った。

 誰かの為に何かが出来る。そんな自分を誇りたい。

 優しい気持ちをもらって、優しい気持ちを誰かに残せるのなら。生きた意味があると信じられる。



「貴女がルゥナの一番になりたいのなら」

「……」

「誰よりもルゥナに優しくするべきよ。自分の我が侭だけで傷つけるなんて、子供のやり方なの」


 自分のことを見て、と。自分を傷つける。

 そんなやり方しか思い当たらなかったのはトワの生い立ちの問題なのだろうけれど。

 なら、違うやり方を教えてあげればいい。



「ルゥナは甘えたがりだから、優しくて暖かいものに寄せられるはずよ」

「……そうですね」


 トワが笑った。

 空に浮かぶ月を見上げて、気が抜けたように。



「なぁんだ」


 透き通った月明かりがトワを照らし、灰色の瞳が星々を映した。


「トワはまだ、負けてなかったんですね」

「……そうね」



 この子は、悲観的な割に自信家なのだと思う。

 もう終わりと決めつけて発作的に癇癪を起こしたけれど、次は勝てると思える程度には自意識が強い。


 アヴィと似ているところもあれば、似ていない部分もある。

 誰もがそんなものなのだろう。




「私……」


 白み始めた空。

 夜が明ける。次の日がすぐに来る。

 誰にも止めることは出来ない。


「誰かと喧嘩したのは、初めて」

「……トワは、さっきニーレとしました」

「初めて同士なら仲良くなれたのかしら?」

「冗談」



 下の方、森と岩山との境から姿を現す仲間たち。

 ルゥナとセサーカ、続いてミアデたちとメメトハも。


「トワはお前が大嫌いです」

「何度も接吻キスしたけれど」



 さんざん鼻で笑われて、汚い言葉をもらって。

 我が侭放題で無茶苦茶な妹のようなトワ。


「もう二度としないと思う」

「させません」


 なんとも締まらない、解決にもなっているのかどうかわからないまま。

 でもそれでいい。

 今日で終わりではなくて、明日も明後日もこの先も続くのなら、未来は何も決まっていない。



(私、救えたかな。母さん)


 生きていくことに明確な答えなどない。

 けれど今日は、一つの未来を救えたのかもしれない。

 アヴィのことを好きとは言ってくれない、生意気な妹の未来を。


(母さんも、私を拾った時はこんな感じだったのかも)


 困ったものだと。

 どうなるのかもわからない。

 母さんにも誰にもわからない未来。

 生きた先に少しでも暖かなものが生まれるよう願うくらい。



 仲間がいて、家族がいれば。

 手を取り合い、声を掛け合っていけば、きっとより良い場所に辿り着けるはず。


 母さんにアヴィがいたように。

 ソーシャにエシュメノがいたように。

 失望のまま独りで死なせたりしない。


 手を繋ぎ、指を搦めて互いの熱と想いを伝えながら生きていく。

 生きることが物語になるのなら、独りでは紡げない。

 たくさんの想いが紡がれていけば、それはきっと他にない美しい姿を描いてくれるのだろう。



 途切れなかった糸。

 アヴィの両腕に巻いている千切れた黒布。残っている思い出。

 抱きしめて、感謝の言葉を口の中で囁いた。



  ※   ※   ※ 

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