第三幕 089話 姉神たちの泉



『姉神との約定。其方ら清廊族はその恩寵を受ける代わりに、他を呪うことは出来ぬ』


「……」

『たとえ呪いの言葉を吐こうとも、どれだけ怨嗟の想いを募らせても、其方ら清廊族は他に呪いをかけることは出来ぬ』


 呪えない。

 呪う力を持たない種族。だから呪術は使えない。


『其方らの魂には呪術を扱う経絡がない。呪術を修めたというのは、知識や呪具を得たということではなかったか』


「魂……」


 ふと、それまで黙っていたアヴィが呟いた。

 手を胸に当て、軽く握りしめて。それ以上の言葉はない。


 魔物との話し合いは基本的にルゥナに任せている。

 エシュメノはいつの間にか湖の淵まで行って、近くでレジッサを観察していた。



「ですが……ダァバは使いました」

『そうか、其方らは清廊族なのだから呪術に明るいはずもない』


 失念していたというように、レジッサが仕切り直す。



『呪術は人間に与えられた恩寵』


 青白い目が細くなったのは、目を閉じているのだろうか。

 姉神の知識の源泉。思い起こしているのだと見えた。


『慙愧の念、欲望、希望。感情に力を与える手法』

「……」

『常ならば、相応の手順を踏み、必要な物を揃えて用いる術。魔法とは異なる』


 隷従の呪術であれば呪枷と呼ばれる道具などを。

 手順というのはわからないが、詠唱だけではないのだというように理解する。



『先触れとは、使う呪術の手順を飛ばし先んじて効果を現わすもの。その力は半分に遠く及ばず、また使う者はその間は他のことなど出来ぬだろう』


 手順を端折って効果を発揮することも出来るのか。

 けれど、それはさすがに万全な状態ではなく、その先触れとやらをやっている間は使用者は他のことが出来ない。



『姉神が、人間に残した恩寵』

「……なん、じゃと?」


 思わずメメトハの口から声が漏れた。


「姉神と、そう言ったか? なぜ姉神が……」

『ああ、すまぬな。この場合は女神と言うが其方らの理解に近かった』


 レジッサが謝罪の言葉を紡ぐ。



『姉神と姉神。女神と魔神はどちらもが姉であったという』


 なぜ清廊族の守護者たる魔神が、と。そう思ったが違ったらしい。ややこしい。


「姉神の知恵の源泉とは、双方の……」


 ルゥナが思い至ったかのように呟くと、レジッサの頭が僅かに縦に揺れた。


『然り。女神と魔神、どちらの知識も混ざり合ったもの。それゆえか、おいそれと覗くことも出来ぬ。特に彼女らの心情のような部分にはな』



 二つの神の知識が混ざり合ったもの。

 だから人間側に関しての知識もある。


 相争ったと言われる女神と魔神の想いが混じり合ったもので、不用意に覗こうとすればどうなるのか。

 飲み込まれるか、掻き回されるか。千年級の魔物でも無用に踏み入ることはないらしい。


「……わかったのじゃ。しかし、呪術は人間にしか使えぬというのなら」

「ダァバは間違いなく使っていました。魔法を唱えるように」


 手順や材料を用いた様子はなく、詠唱をして。




『そのような呪術師がいるとは思えぬが』

「……いえ、他にもいました」


 ルゥナが一度俯き、それから顔を上げる。


「アヴィは、過去にも別の人間の呪術師に呪いを受けています。力を半分に損なうような呪術を、詠唱によって」


 メメトハは知らない。

 そういった経緯があったのだとは聞いたし、その呪いを解く方法も聞かれたがクジャでは誰も知らなかった。


 今の話であれば当然だ。清廊族には呪術が使えないのだから、対抗する術もない。



『詠唱だけで、とは』


 姉神の知識の源泉をさらっても思い当たらないと、レジッサが言葉に詰まる。


「あ、いえ。そういえばダァバは手にしていました」


 ルゥナとアヴィが顔を会わせて頷く。



操空環くりからのわ……女神の軸椎、とか」

『軸椎……オエスアクシスか。それならば……』


 納得したと。


『女神の声による詠唱であらば、声の届く限りに力を及ぼすであろう。そうか、そのような物を』


 声。

 軸椎骨だというのなら首の骨だ。発声に強く影響するのかもしれない。



『あの男が呪術を使える理由はわからぬが、詠唱についてはそれが理由と見て良い』

「アヴィはダァバの呪術を打ち払い、慌てたダァバはエシュメノにも呪術を仕掛けました」

「ん?」


 名前を上げられたエシュメノが顔を上げる。


「こちらも失敗したようでしたが」

『……それについては、其方の考えで間違いはない』


 レジッサの声音が少し和らいだ気がする。


『三角鬼馬だな。よほどこの娘を愛していると見える』



 ソーシャの魔石がエシュメノを守ってくれた。忌まわしい呪術から。


『よほど慌てていたのだろう。万全であれば三角鬼馬といえど抗えなかったと見るが』

「ええ、それに失敗してその……オエスアクシス? あれは砕けましたし」



『なんと!?』


 湖面が激しく波打つ。


 びくぅっと、全員の体が震えた。突然のレジッサの大声に。

 特に一番近くにいたエシュメノは跳び上がり、慌てて離れていく。



『すまぬ……いや、すまぬ。なんと……?』


 大声を上げてしまったことを詫びながら、レゼッサが聞き直した。かなり驚いている様子だが。


「あ……いえ、その、砕けました。ラッケルタの火閃やネネランの攻撃もありましたけれど」

『神話の時代から残る女神の遺物が……有り得ぬが、そうか。事実であればそれはよい。それがよい』



 ずいぶんと親切に教えてくれるな、と。

 メメトハはそう思っていたが、少し違うようだ。


 レジッサにしても、今のダァバは脅威度が高い敵。

 だから情報を交換している。ダァバの手札を知る為に。

 お互いにとって有益だから話している。味方だとは言えないが、同じ敵を見ている。



「では、あの牧場の呪術師は……」


 ルゥナはまた思い悩む。


『……なるほど、そういうことか』



 レジッサはアヴィをじっと見つめ、その長い体を伸ばしてアヴィに近付いた。


 匂いを嗅ぐように、触れそうなほど近く。

 アヴィは身じろぎせずにその目を見つめている。食べられてしまいそうで怖くないのか。



『なるほど、これが呪いか』

「わかるのですか?」

『随分と奇妙なことになっているようだが、魂に妙なものが絡みついているように感じる』


 レジッサとて呪術を目にするのは過去にないこと。

 アヴィの様子をじっくりと観察して、もう一度頷く。



『……これは、ププラルーガというわけか』

「ププラルーガ?」

『女神の眼と呼ばれるもの。オエスアクシスが声の届く限りとなれば、ププラルーガは女神の目が届く限りと』


 世界に、女神の目が届かぬ場所があるのか。

 真なる清廊の魔法が失われた今なら、この大陸も隅々まで女神の目が届くのでは。

 だから、アヴィの呪いは解けない。本来の力が失われたままに。



『幸い、と言っては其方らは不愉快かもしれぬが』


 前置きをする程度の気遣いは見せる。

 話しているうちに打ち解けてきたということだとすれば、喜ばしい。



『その呪いが先にあったゆえ、ダァバの呪いが滑ったのだろう。妙に歪にこびりついているようでもある』

「あ……」

『滑った自らの力が還され、オエスアクシスを砕いた。最後の一押しは其方らの力だったとしても、そういうことか』


「……そう、でしたか」


 若干の沈黙の後、ルゥナは頷き、アヴィに向けてもう一度頷く。



 先の呪いのことも、全く面白くはない。

 だけど、それがあったおかげでダァバの致命的な呪いを回避できたのだとすれば、幸いと言っても差し支えないのか。


 全てがうまくはいかない。

 過去の苦渋の記憶でも無駄にならなかったのだとすれば、今はそれを良かったと思ってもいいだろう。




 一通りの話は終わったと見たのか、すっとレジッサの体が岸から遠のいた。


『……私は其方らの戦いは手伝わぬ』

「はい」

『ダァバを見事打ち倒したなら、その時は私が其方らを敬意を持って迎えよう』


 魔物と清廊族が慣れ合うものではない。だが、ダァバを倒したならば別に扱おうと。



「もう一つ、聞かせて下さい」


 湖に沈みかけたレジッサにルゥナが呼びかける。


「アヴィの……彼女の呪いを解く方法は、なにかわかりませんか?」

『うぬ?』


 レジッサは沈むのをやめて、わずかに首を傾げた。


「アヴィの力が戻れば、私たちは……」

『それならば』


 レジッサは、つまらないことをと言うように沈みかけたまま答える。



『既に解けかけているではないか』

「……え?」


 ルゥナの喉から、間の抜けた音が漏れた。



『聖者の生き血と強大な力を持つ命石。その三つを捧げよ』

「……」


 その話は既に聞いた。ような気がする。

 ティアッテが過去に呪術師を拷問して聞いたのだとか。



『どういう経緯かは知らぬが、力ある処女童貞の純血と強大な命石を捧げたのではないか』


 力ある、処女か童貞。


『半分までではないにしろ、既に解けかけているようだが』



 思い返す。

 思い返す中で、ルゥナの頬が朱に染まるのを見る。


『……後は、其方らで解決すること。私の命石が必要と言うなら挑んでくることは止めぬ』


 千年級の魔物の魔石。命石。

 それが必要なら挑んでこいと。


「いえ……あ、あの……ありがとう、ございます。レジッサ」

『……次に会うことがあるのなら、命の取り合いにならぬことを祈ろう』


 その言葉は、レジッサなりの親愛を示してくれたのだと思う。

 メメトハやルゥナたちと争いたくはない。

 また会える日が、友好的な形で訪れることを望む。


 そう残して、静かに湖面に白い巨体を沈めていった。




「……無駄ではなかった、ということかの」


 ヌカサジュの主レジッサの怒りを買い、難しい局面での戦いをすることになった。

 メメトハを見捨てられぬ為にユウラが死んだ。


 必要な犠牲だったなどとは、断じて言えない。

 けれど、その命を無駄に散らしたわけではない。無駄になどしない。



「……得難い邂逅でした」


 ルゥナは頷き、周りを見回す。


 メメトハを見つめるルゥナの視線が、妙な色をしている。

 躊躇いがちに、また恋する女のような熱を感じさせながら全身を行き来した。



「……なん、じゃ?」


 泳ぐ視線が、メメトハの下腹あたりで止まる。


「いえ……いえ、なんでも……」


 目を逸らしたルゥナは、次はレジッサが沈んだ湖を覗き込むエシュメノに目を向けた。

 覗き込み、尻を突き出した姿勢の。


「……」


 凝視されているエシュメノは、湖の中の魚に夢中な様子で気が付いていない。

 ネネランがその視線を遮るように間に立つと、はっと俯いた。



「……」


 何を、考えているのだろう。

 わかる。わかりたくない。


 レジッサも言っていた。姉神の心中を覗くようなことはするべきではない。

 メメトハも同意だ。



「戻る、かの」


 余計なことを言い出す前に。

 振り向いたメメトハの視界にセサーカが映る。


 そっと頷くセサーカ。

 どういう意味だ。メメトハに対して、それでいいんですよと言うように。どれでいいのか全くわからない。わからんのじゃ。




 気が付けばだいぶ太陽が進んでいた。

 かなり長く話し込んだ。内容も濃く、思った以上に時間を経過している。


 ルゥナやセサーカから目線を外したからなのだろう。

 最初に気が付いたのはメメトハだ。



「……なぜ……じゃ」


 東からこちらに向かってくる姿に。


 ルゥナも、ミアデやセサーカも。歩いてくる三つの姿を見て、戸惑いの声を漏らした。

 アヴィは何も言わない。



「おぬしはいったい……」


 小柄なのに、その印象は今まで話していたレジッサにも重なる。

 気のせいだとはわかっているが、それほど目を離せない存在感。重すぎる。



 二柱の氷乙女を左右に従え、歩いてくる銀色の娘。


「トワ……」


 堂々と。

 大楯を持つオルガーラと、大斧を持つティアッテ。


 姫を祀る双戦士のように、昂然と。



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