第三幕 054話 割れ氷
とん、とん、と。
近付いてくる足音。
自由を奪われ、目も塞がれている。だからその音が余計によく聞こえた。
先ほどまで下で何やら騒いでいたが、何があったのだろうか。朦朧とする意識の中で、怒声のようなものも聞いた気がする。
誰か清廊族がひどい目にあったのかもしれない。
本当なら自分が守らなければならないもの。
清廊族の守り手。それこそが自分の使命で、生きる意味。
だけど。
だけどもう、そんなことどうでもいい。
何もかもどうでもいい。何も見たくない。聞きたくない。
近付いてくる音が、途切れかけていた意識を現実に引き戻す。
また始まる。
やっと終わったのに、また地獄が。
ものすごく嫌なのに、ただどうしようもなく体が別の反応もしてしまうようなことを。
甘い酒のようなものも飲まされたかもしれない。思考がぐじゃぐじゃになっていて。
きい、と。
音を立てて戸が開くのがわかった。
「もう、やだぁ……」
「……」
震えた。
「お願い……お願いですから、もう……やめて」
満足に首すら動かせないままで、必死で訴える。
「……」
「ボクもう……もうやだぁ! 痛いのもそうじゃないのももういやだよぉ! もうやめて、お願いだからやめてください! もう、もぉ……」
懇願する。
誰もいなくなり少しだけ眠ったことで、どこかに残っていた理性に似たものが戻ってくる。
それが、壊す。
異常な記憶を呼び覚まして、それを認められない自分が自分を壊す。
「いやだ、いやぁ……ボクが悪かったです! ボクが、もう……お願いだから許して……許して、ください……」
敵に、哀願した。
強がることも出来ず、ただ涙を零して。
拘束されていなければ這いつくばっていたかもしれない。
見栄も体裁もなく、ただもう自分がこれ以上壊されるのが嫌で。
休ませてほしい。眠らせてほしい。そっとしておいてほしい。
みっともなくてもいいから、どうかお願いを聞いてほしい。
「何でもする……他は、なんでもしますから……許して」
「ええ、わかりました。オルガーラ」
優しい声と、やや冷たい手が頬を撫でた。
「ひ……っ」
「私の言うことを聞いて下さるのなら、もう酷いことなんてありませんから」
「ぅあ……うん……はい、聞くから……」
もう酷いことしないで。
不意に、唇に触れられた。
「んぅ! ん……あ……?」
何かが、違う。
今までの何かとはまるで違う。
上辺だけの言葉かと思ったのに。
その感触は、本当に優しくて、優しくて。
オルガーラの傷を癒そうとするかのように、優しく触れていく。
「あぁ……」
もうだめだ。本当に。
氷乙女としての誇りも矜持も、この責め苦から解放されるなら。許してもらえるなら、もう捨ててもいい。
「私の言うことを聞いて下さいますか?」
これが、人間の言う女神なのだろうか。
糞尿に集る虫よりも哀れなオルガーラに、果てない慈しみをもって響く声。
「うん……本当に、許してくれる……?」
「もちろん、貴女の全てを許して差し上げますよ」
冷たい手が触れるのは、もう不快ではなかった。
「トワは、貴女の全てを許します。オルガーラ」
ああ。
女神はそういう名だったのか。
※ ※ ※
もちろん、きちんと説明した。
少し時間はかかったけれど、オルガーラの傷をじっくりと癒してから、彼女をさらに言い含めて、それから拘束を解いて説明した。
ひどく消耗していたらしく、安堵と共に眠ってしまったけれど。
「……トワさまぁ……っく……」
懐いた小動物のように膝で眠るオルガーラ。まだしゃくり上げている。
人間の兵士が巡回に来たりするだろうか。
下の死体は隅っこに隠しておいたけれど、血の跡は残っている。
あれはどうやら高位の軍人だったようなので、死体が見つかりにくい方がいいかと思って一応隠してみただけ。
鍵のついでに、治癒の魔法薬など持っていたものは拝借している。
魔法薬は希少で高価なものなので、軍人でも皆が持っているわけでもない。剣なども立派なものだったので持ってきたが、トワに良し悪しはわからない。
「さて、どうしましょう」
仮に人間が来るようなら、オルガーラに起きてもらえば問題ないだろう。
よほどの敵でない限り、自由になったオルガーラに勝てるわけもない。
そのよほどの敵とやらは、今のところ町の外で戦っているはず。
町の中でも騒がしい音が聞こえている。
おそらくサジュの住民と人間の兵士どもが争っている音。
どちらが優勢か見えるわけではないが、声の印象からは人間の方がかなり慌てている。
清廊族が一般的に非力だとはいえ、普通に生活するだけの力はある。
木を伐り、穀物や酒類を運搬する。そういうのは人間と大きな差があるわけではない。
訓練された兵士ほどの力はなくとも、自分たちの町を守るという気持ちは本来の力以上のものを引き出すだろう。
数でも、おそらく町の中に残っている兵士と比べて極端に違うわけではない。
むしろ多いくらいではないか。
凍った足場で、住み慣れた町。そこで団結した戦う住民と、慣れぬ足場で土地勘もなくバラバラな人間の兵士。
不利な条件ではない。被害は出るにしても。
セサーカはどうしているだろうか。
死ぬなら死ぬで仕方がないと思ってはいるが、死んでほしいと思っているわけでもないのだ。
手伝いに向かうことも不可能ではない。けれど。
「……まあ平気でしょう」
どちらでも。
今は、オルガーラを助けられたことで良しとする。
手中に収められたことは、望外の喜び。
人間どもめ、なんて酷いことを。
「なんて酷いことを……」
言ってみて、薄く嗤う。
あまり感情は湧いてこないのだなと思ったら、つい。
トワだって人間は嫌いだ。
見れば吐き気がする程度には嫌悪しているし、地上から絶滅させたいと思っている。
清廊族に対しては、もっと優しい気持ちを抱けるものかと思ったが、そうでもなかった。悪意まではないにしても。
この町の誰が不幸になったところで、勝利の為なら仕方がない犠牲だ。
人間に勝利するのは彼らの為になるのだから。
オルガーラの不幸は哀れに思うけれど、これも別に自分のことではない。
大事なのはトワのこと。トワが幸せを得ること。
他のことは全くいらないとまでは言わないが、そんなのは二の次でいい。
むしろ誰が不幸に塗れようと、トワの幸せの為なら仕方がないのではないか。
ちょうどいい。
ちょうどいい。
なんてちょうどいいのだろう。
きっと魔神様がトワの為に膳を運んでくれているのだ。
好きなモノをお食べなさい、と。
「呪術師、とは」
ふと思い出した。
人間が死ぬ間際に言っていった。トワを呪術師かと。
呪術師は女神の力を用いると言う。
魔神のことを浮かべて、そこから思い出してしまった。
「別に呪術ではないんですが」
敵から拝借した魔法薬の瓶を振り、独り言ちる。
クジャで修行中に治癒魔法の勉強をした。
先の砦の時にも使った黒い虫の治癒魔法のこともそう。
魔法ばかりではなく、当然文献には色々な植物などの薬効の記載もあった。
そんな中、体の動きや感覚を鈍くするような
清廊族と人間は寿命が違う。
元は同じ種族だというが、今ではその体質は大きく異なる。
だが、摂取する食事は似たようなものだし、薬だって同じものが似たような効果を得られた。
少し違うのは、摂取量と影響。
人間の方が少ない薬の量で短時間に効果が見える。
清廊族の方が薬効は効きにくいというか、緩やかというか。
本来、痛む箇所を鈍くして治療に役立てるという薬を、微細な粉末状にして撒いていたらどうなるのか。
既に先の砦でも確認していた。捕えた人間を殺す前に。
相手はトワの振り撒いた匂いを嗅いだはず。
トワは良い香りがするのだと、奴隷時代に言われていた。こんな形で役立てるとは思わなかったけれど。
トワのそうした手法を、呪術の類かと勘違いされたのだ。
ただ、直接大量に嗅がせるのとは違い、少し時間がかかってしまった。
屋内でも時間がかかるようでは、屋外の戦闘ではほとんど使えない。
今回、こうして役に立ったのだからそれでいいか。
「女神の術なんて清廊族が使えるはずないのに」
馬鹿な人間。
死ぬ間際で混乱していたのなら無理もないか。
トワの香りに酔っていたのかも。
呪術なんて使えるはずがない。
使えたら……便利だけれど。残念だけど。
「ん、ぁ……」
膝の上でオルガーラが呻く。
そっと頭を撫でると、安堵したように再び寝入ってしまった。
「私、は……」
少し体が重い。
戦いの中に敵と同じ薬を吸い込んでしまっていた。よく考えたら気分が悪くなりそうで、考えるのはやめる。
トワにも疲労はある。疲れた体に、眠りを誘うような粉を吸入してしまった。
効果を打ち消すような薬も口にしていたのだが、やはり完全に影響がないわけではない。
「いかなくても、大丈夫……ですよね」
完全に日が顔を出した東の空。嵌められた木窓の隙間から洩れる日差しが時間を教えてくれる。
「ルゥナ様」
この世界でたった一つ、トワの命よりも大切な誰かを思い浮かべ、けれど体を起こすことは出来なかった。
※ ※ ※
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます