第三幕 053話 緩んだ鍵_2
「っ!」
外に漂う冷気よりもまだ冷たい、絡みつくような悪寒。
咄嗟に螺旋階段から離れて横に飛んだのは、本当にただの直感だ。
ライムンドの中にほんの少しだけ残っていた恐怖心がそうさせた。この美しすぎる少女が怖い、と。
「んおぉああぁぁっ!」
「うぼ、へ……」
「惜しかったですね」
先ほどとは違う、強烈な血の臭い。
部下の血と、その命のお陰でライムンドは助かった。
少女の両隣に立っていたはずの二人が、片方は下腹を切り裂かれ倒れ、もう一方は胸に深々と包丁を突き立てられて膝から崩れた。
先に彼らを攻撃した為に、ライムンドへの攻撃が一呼吸遅かった。その為に。
「お、お前ぇ!」
「あら、怖いですよ」
ライムンドとて幾度も死地を潜って来た。
確かに今ほどは気が緩んでいたが、危険な敵と認識すれば躊躇うことはない。
部下たちの様を確認すると同時に、少女へと飛びかかった。
武器を抜く間を惜しんだので掴みかかる形だったが、ライムンドが本気で握れば少女の頭など簡単に潰せる。
ひらりと躱されてしまったが、そこで反転して剣を抜いた。
屋内戦闘の為のショートソード。ライムンドの槍は部下の一人が持っていたので床に転がっているが、今は必要ない。
「敵だったか!」
「元よりそうですよね」
何を当たり前のことを、と。本当にその通りだが。
少女の手には一本の包丁。
もう一本は部下の胸に刺さったまま。
包丁は短い。
ショートソードなどの武器よりも遥かに小さく、その身の内に隠していたのだろう。
先に香った血の臭いは、既に他の兵士を刺した時の残り香だったか。
「そんな獲物で相手など!」
撃ち込む。
隠すのには便利だったかもしれないが、正面から斬り合うような武器ではない。
そもそも武器ではないが。
「っく!」
「舐めるな!」
ライムンドは確かに勇者英雄と呼ばれるまでの実力者ではないが、それに次ぐだけの力はある。
そして、既に戦地に立って三十年。熟練の技もあるのだ。
連撃、強撃。フェイントを織り交ぜて打ち込むライムンドの剣を、少女は何とかその包丁一本で捌く。
しかし実力ではライムンドが上回っていた。
防戦一方になりながら、何とか凌ぐだけで精一杯といった風に。
「おおぉ!」
「う、くぅ」
美しい顔が歪む。
哀れには思う。正直に言えば勿体ないとも思う。
だが容赦はしない。目先の欲求に負けて道を踏み外す者のなんと多いことか。
戦場でも日常でも、政治の場でも。
ライムンドはそういった他人を多く見て来た。
可愛い女だからと気を許せば、死ぬのは自分だ。
「地獄で後悔するんだな!」
影陋族用の地獄があるのならな、と。
頭をかすめた考えもライムンドの剣を緩めさせることはなかった。
「これで!」
次の一撃、ではない。
そう思わせた強撃は偽装で、そこから速さだけを重視して包丁を持つ手を掠めさせる。
強撃からの変化。薄く刃が肌を走り、焦ったところに向けてとどめを刺す。
既に少女の動きを読み切ったライムンドの組み立ては、少女の対応力を完璧に上回っていた。
「くぁ」
声を上げて、膝から崩れる。
いや、膝から力が抜け、床に転がる。それから声を上げた。
ライムンドの視界が、転がった。
「え……あ?」
ぼぐんと、鈍い音を立てた。
ライムンドの眉間にめり込んだ少女の足。それが視認できた最後の映像。
「ぶぁっ」
目を、蹴り潰された。
美しい足の甲だった。
「な……なぶ、なんで……」
「思ったより部屋が広かったですね」
やれやれ、と。
少女の声はまだ耳に届く。
止めの一撃のタイミングでライムンドの足が崩れた。
くにゃりと力を失い、体が言うことを利かなくなる。
「本当に危なかったですけど、間に合いました」
間に合った。何が。
「ま、ほう……つか……」
使えるはずがない。
使えないはずなのだ。魔法を使う条件に、刃物を手にしていてはいけないというものがある。
魔法は物語だと言う。
物語は紡ぐもの。刃物は断つもの。
魔術杖は刃を持たず、出来るだけ丸いものが好まれる。うねる木の根のような形状や、絡み合う蛇のような。
今の今までこの少女は包丁を手に戦っていたではないか。
少なくとも魔法を使えるようなタイミングはなかった。
「じゅ、じゅじゅ……つ、し……?」
「何でも構いませんが、持っていらっしゃるんですよね?」
痛みすら感じなくなってきた頭の中に、鈴を転がすような声が響く。
「牢の鍵、みたいなものを」
ちょうど良かったです、などと。
「それ、くださいますか?」
ライムンドは準備をしてきていた。
もし影陋族が何か反抗を企てるようであれば、氷乙女を前面に出してそれらを制圧すると。
そうコロンバたちにも言ってあった。了解があった。
だから準備している。氷乙女を従わせる為の呪枷と、その拘束具の鍵を。
外に攻め寄せているのも影陋族だと言うのなら、この氷乙女をぶつけてやればいい。
敵の数も削れるし、心も削り殺せるだろう。
だから。なのに。
「本当に、ちょうど良かったですね。あなたは」
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