第三幕 036話 恨み、つらみ_1



 混乱の最中に逃げ出そうと、そういう算段だったはず。


 勝機はない。

 既にトゴールトの町は出たが、マルセナがもう少し見ていきたいと言った。イリアにも似たような気持ちはある。


 数万人が暮らす街で、イリア達がいるのはその東側を出たところ。

 戦いは西門を中心していて、ノエミやピュロケスもそちらにいるはずだ。さすがにこの場所からは何も聞こえない。


 はずなのだが。



「……何の、声?」

「雄叫びと……金属音ですわね」


 聞こえるはずがないのだが、地鳴りのように響く音が聞こえてくる。

 夜半だったから余計に音がよく響いたのかもしれない。イリアは探索時には斥候を務めるので耳も良い。


 イリアの言葉に耳を澄ませたマルセナも、遠くから聞こえてくる音に首を傾げた。

 雄叫びだけならば、敵側のものなのかもしれない。


 押し寄せているのはエトセン騎士団の精鋭部隊。魔物相手に威嚇にもならない気勢を上げることもないように思う。

 大声を出すのは体力を使う。注意力も散るので魔物との戦いに有効だとは言えない。


 状況がわからず迷うイリアの気持ちを察したように、騎乗するディニが大きく揺れた。



「っと、ディニ?」


 ディニは呪枷をつけているわけではないがよく懐いている。イリアやマルセナの意思を無視するようなことは今までなかった。

 指示もないのに急に上下に揺れて、何かを訴えるように首を回す。


「なにを?」

「ダロスと共感しているようですわね」


 戸惑うイリアにマルセナが答える。純白の翔翼馬が見ているのは遠くの篝火の方角だ。

 同じ壱角の翔翼馬のダロスもそちらにいるはず。何か状況が変化して、それを伝えようと。



「わたくしたちも行きましょう」

「危険よ」


 状況がどうであれ危険なことに違いはない。マルセナを危険から守る為に町を捨てようと画策してきたのに。

 ここまでの時間をまるで無為にするようなマルセナの言葉を即座に否定する。


 マルセナは気まぐれだ。


 イリアが出会った頃からそうだった。移り気で珍しい物好きの、世間からやや外れた危なっかしい少女。

 それを疎ましく思っていた時期もある。今思えば本当に当時の自分を恨めしく思うイリアだが。


 黒涎山から逃れた後その気質はより顕著になり、常軌を逸するほどに。

 予定外の事態を感じて当初の目的を変更してしまいそうだ。



「駄目よマルセナ。貴女を危険な場所には連れて行かない」


 ディニの手綱を強く握り、自分の腕の間にいる小柄なマルセナをどこにも離さないように掴まえた。

 マルセナが移り気に戦場に向かうなどと言っても許すわけにはいかない。



 何がどうだろうと、マルセナを危険には晒さない。

 幸いなことに手綱を握っているのはイリアで、マルセナはイリアの腕の中。

 世界の全てよりも大切なものがここにある。


「マルセナ、戦況のことなら後で確認すればいいんだから」


 小さくて柔らかい。

 温かい。愛おしい。


 他にも似たようなものもあるし、多少なり執着を覚える者もいる。

 けれどそれらは切り捨てたって構わない。全てを守れなくても、たった一つこの幸せを守れるのなら。


「ノエミやクロエのことなら……」


 もしマルセナが彼女らを気にして戻ると言っているのなら、それも彼女らの覚悟に対する侮りだ。

 そう思って言葉を掛けようとした。



「――っ!」


 息が止まる。

 言い聞かせようとマルセナの瞳を覗き込んで、臓腑が凍り付くように固まった。


 冷たい。

 かなり遠くの篝火を見つめるマルセナの瞳は、煌々とした明りを映しながらひどく冷たい。

 熱がない。


 先ほどまで温もりを感じていた小さな体が、まるで温度を感じない氷像に置き換わってしまったよう。



「あ……」


 息を飲み、言葉を失った。

 言葉を紡ごうとする口が渇き、かくかくと下顎が震える。



「イリア」


 マルセナの瞳がイリアを映した。

 映してくれた。

 嫣然と微笑んで名を呼ぶ。



「行きましょう、イリア」


 心が戻ってくる。

 マルセナに名を呼ばれて、飛びかけていた意識が帰ってきた。


「なに、を……マル……セナ?」


 なぜそんな目をしていたのだろう。

 なぜ、危険な戦場に向かおうと言うのだろうか。

 飲み込まれそうになる気持ちを必死で堪えて、イリアは弱々しく首を振った。



「だめ……だめよ、マルセナ」


 マルセナを守ることだけが今のイリアにすべきことだ。

 何を言われても、どれほどの苦痛に苛まれたとしても、曲げない。


 曲げない。変えない。

 その意思だけで首を振る。



「ぜったいに……」

「仕方がありませんわ、イリア」


 ふっと、マルセナが息を吐いた。

 仕方がないというように。いや、実際に言葉にしていたか。



 マルセナも帰ってきてくれた。温かくやわらかなマルセナがイリアの腕の中に。

 安堵に思わず涙が浮かぶほど。

 ぎゅうっとマルセナを抱きしめて、手綱を握り直す。



「西に向かいなさい、イリア」

「あ……」



 イリアの意思など関係がなかった。

 最初からマルセナには、そんなものは何も関係がなかったのか。


 目尻に浮かんだ涙は、ディニの羽ばたきを受けて宙に残り、散っていった。



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