第三幕 003話 望み絶ち_1



 最悪な目覚めだ。

 今まで生きてきた中で、これより悪いものはない。


 両手両足を捕える冷たい感触。身じろぎしても僅かにも弛まぬのは、当然と言えば当然か。

 普通の拘束具などで自由を奪えると思うほど敵も馬鹿ではない。おそらく煌銀製の、分厚い手枷と足枷。繋いでいる先もそれに応じた強度のもの。



「目ぇ覚めたかい?」

「……」


 最低だ。最悪で最低だ。

 目の前には、涎でも垂らしそうな勢いでこちらを見ている仇敵の顔がある。

 極上の料理を前にした飢えた獣のような、人間の雌。



「もう一匹の方も欲しかったんだけど、まあいいさ」


 ぎりと噛み締めて睨む。それしか出来ることはないけれど、それだけは出来る。

 この雌が言ったもう一匹とは、何よりも大切に思う相手。自由を奪われても、彼女に対する汚い言葉に視線だけでも抵抗を示す。


「あたしは最初っからあんたに目ぇつけてたからね。オルガーラっつったか?」

「……」


 名を呼ばれて吐き気がするなどというのも初めてのことだ。


「うっかり殺しちまったかと思ったけど、やっぱりあんたは頑丈だ。よかったよ」


 こちらとすれば、最悪だ。死んでいた方が良かった。



「コロンバ、呪枷は本当にいらないの?」

「そいつはつまらないね、グリゼルダ。生意気な女が泣いて謝るから楽しいんだからさ」

「ただの女なら別にいいのだけど、そいつは危険だわ」


 薄暗い部屋の中、拘束されたオルガーラを前に勝手なことを言い合う人間ども。

 奴らが使う奴隷の呪術道具は、今のところはつけられていない。それを幸いと思うべきかどうなのか。



 不覚を取った。

 強襲され、挟撃されて。

 南西から迫ってきたこのコロンバを中心とした連中を迎え撃ったオルガーラだったが、思わぬ攻撃を受けて崩れた。

 気が付けばこの状態。


 予想外の攻撃というのなら、南東からの敵のことも。

 溜腑峠を越えて来た人間の軍勢に焦り、判断を誤った。

 ただでさえ少ない戦力を、西と東に分けてしまう。

 オルガーラを西に、ティアッテを東の対応にしてしまったことが間違い。



(ティア……)


 無事だろうか。今の会話を聞く限りはここにティアッテは囚われていない。

 逃げ延びてくれているといいのだが。オルガーラがどうなろうと、せめて彼女だけは。


「あんたがここにいれば、もう一匹も助けに来たりしてね」

「な……」


 そうだ。もしティアッテが無事なら、きっとオルガーラを助けようとするはず。

 無謀なことでも、自分の危険を厭わずに助けに来てしまうかもしれない。

 氷乙女とは言っても、このコロンバなどのようにそれに匹敵する敵もいる中を、単独で。


 思わず声を漏らしたオルガーラに、コロンバが笑みを深くする。



「いい顔するじゃあないのさ」

「……うるさい、黙りなよ」

「いやだね。命令できる立場だと思ってんの、かいっ!」


 深々と、拳が腹に突き刺さった。


「ぶっ……ぼふ……」

「っと、こういう躾も必要だろうけど、さ。違うんだよねえ」


 抵抗できないオルガーラに振るった拳を、ぺろりと舐める。


「男だったら死ぬまで痛めつけるくらいしか使い道はないんだけど」


 女で良かったよ、と。


「するの?」

「グリゼルダも好きだろ、こういうのさ」

「嫌いではないわね」


 殴られて涎が漏れたオルガーラの口元を、グリゼルダの指が拭う。

 噛みついてやろうとしたが、頬を叩かれた。


「男なら触れたくもないのだけど」

「もう、グリゼルダに誰も触らせやしないさ。男なんざ」


 苦く吐き棄てるコロンバに頷くグリゼルダの表情は、敵なのに少しばかりの悲哀を感じさせる。



「……綺麗ね。いい毛並みだわ」


 過去のことを振り払うように、オルガーラの赤い髪を指で梳いて、馬の毛並みのような感想を漏らすグリゼルダ。


「何を……」

「負けた奴の末路なんて、どこでも大差ないだろ。若い女なら特に、さあ」


 コロンバの言い様に、わかってはいたけれど心がざわめく。


「舌を噛んでもすぐに死ねるわけじゃあない。グリゼルダは治癒魔法も結構な腕だから安心しなよ」


 最悪だ。

 憎い敵の、人間の手が、指が。芋虫のような動きでオルガーラに迫る。


「ぼ、ボクは……お前らなんかに」

「ああ、それでいい。そうやって強情にしててほしいんだよ。出来るだけ長いことね」


 それこそが楽しみなのだと。

 長く楽しむ為に頑張れと、この忌まわしい敵はそう言う。


「苦痛と、屈辱と、強制的な快楽を。寝る間もなく続けますから」


 グリゼルダの瞳に浮かぶのは、コロンバの愉悦の色とは違う。

 妄執的な、復讐心のような炎が垣間見えた。



「私たちが休む間は、影陋族の奴隷に続けさせます。こちらは呪枷をつけてありますので、残念ながら」


 本気なのか。

 本当に、寝る間もなく責め続けるつもりで準備をしているのか。

 人間というものが、陰惨な行いを考え付くことに際限がないとは聞いていたけれど。

 清廊族の奴隷だというのでは、それらを人質などにして逃げ出すことも適わない。



「女だからわかることを、いつまででも続けます。三日も持てば頑張った方だと思いますよ」


 助けて、と。

 言うわけにはいかなかった。

 敵に言うわけにはいかなかった。

 味方に、ティアッテに。求めるわけにもいかなかった。


 唇を噛み締めるオルガーラに、いつ終わるとも知れぬ凌辱の手が伸ばされようとするのを、ただ命尽きるまで耐えようと。


(ティア……来ちゃだめだ)


 自分が死ぬよりも辛いことが起きぬよう、ただそれだけが今のオルガーラの願いだった。



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