第二幕 009話 鮮明な遠景_1
里の者たちにたいそう驚かれたのは仕方がない。
逆の立場であれば、ルゥナとて大いに驚いただろう。
人間の手を逃れ、アウロワルリスを越えて来た。
そんなルゥナ達に、ウヤルカの集落の人々は戸惑いつつも労わりの言葉をかけてくれた。
よく生きてここまで、と。
集落の長は、ルゥナたちのことを前向きに受け入れるつもりであると言ったが、この村も決して大きなものではない。
近隣の村にも声を掛けるから、しばらくの滞在をするようにと。
五日後には近くの村の代表者も現れ、明日には話をまとめるということになった。
その朝のこと。
はっと目を覚ませば、、手の中にあったはずの何かが失われている。
何より大切で、何よりもルゥナを勇気づけてくれるものが。
「アヴィ……?」
気が抜けていた。
清廊族の村で寝泊まりして数日で、油断して深く寝入ってしまったのか。
一緒にいたはずのアヴィの姿がない。
これまでなら近くで動く気配があればすぐ気が付いたはずなのに。
「アヴィ?」
初夏とはいえ、標高の高いこの辺りの朝はまだ涼しい。
まだ日が登る時間ではないが、空は白み始めている。
ルゥナ達が寝泊まりしているのは、村はずれの空き家だった。広いので、集会所のように使われているのだとか。
まだ寝ている他の仲間を起こさないように、静かに外にでた。
「おはよ、ルゥナ」
外に出ると、体を伸ばしていたエシュメノが声をかけてくる。
「エシュメノ、おはようございます。アヴィを見ましたか?」
「ん、森の方に行った」
「ありがとう」
礼を言ってエシュメノの差した方に歩こうとしたところで、手を取られる。
「なに、か?」
「……まだ何か困ってる?」
勘の鋭い子だ。
一時の自失した状態ではなくなったルゥナだが、まだ悩み事を抱えているのではないかと。
言い繕おうかと思ったが、エシュメノの瞳には曇りがない。
嘘をつくのは、気が咎めた。
「……ええ、色々と考えることは多いものですから」
「エシュメノ、何か出来る?」
出来ることはない。
目下のルゥナの悩み事はトワのことになる、エシュメノに相談するには不向きな内容だ。
「今は……私が、どうすればいいかわからないので」
エシュメノだけではない。誰に対しても相談できることではない。
直接、ルゥナがトワと話さなければならない。
「ですが、何かお願いすることがあれば、エシュメノ。その時は聞いて下さい」
「ん、わかった」
彼女の気持ちは有難い。
これまでの道程も、皆の助けがなければ乗り越えられなかった。
頼ってもいいのだ。必要な時には。
エシュメノと別れ、村と隣接する森の中を進む。
初夏の早朝の森だ。虫や鳥の声が響き、若葉の香りが心地よい。
アヴィも散歩をしたかったのだろうか。
独りで。
ルゥナはアヴィに依存している。
そんなルゥナを煩わしく思ったのかもしれない。
だとしても、ルゥナはアヴィがいなければもう生きていけない。
生きる理由であり、希望。
(アヴィが、私を捨てるなんてない)
そう信じているけれど、最近の情けない姿を考えたら愛想を尽かされても仕方がないとも思う。
――っ!
空から、強い風の音が聞こえた気がした。
見上げるが、周囲の様子からは突風などの気配はない。
音が聞こえた方角に進んでいくと、その正体はすぐに知れた。
木々が少し開けた所で、アヴィが剣を振っている。
周囲に被害が出ないように、空に向けて。
彼女の剣速は風よりも早く、その力強さは岩をも断ち切るほど。
そんなアヴィの素振りは烈風を生じて、高い空を抜けていく。
「……アヴィ」
「よく寝ていたから。ごめんなさい」
黙って出て来たことを詫びる彼女に首を振る。
「いえ、構いません」
責められるとすれば、眠り込んでしまっていたルゥナの方だ。
剣を下ろしたアヴィは肩で息をしていた。
どれほどの時間、振り続けていたのだろうか。
失った力を取り戻そうという気持ちもあるのかもしれない。
呪術師により力を奪われてから、アヴィが倒した魔物や人間の分だけの力は増しているように見えた。
単純な力は損なわれたが、その特性は失くしていない。
時間はかかるかもしれないが、当初の力を取り戻し、それを超えることも可能なはず。
「ミアデ達は、とても強くなりました。少し前には考えられないくらいに」
「うん」
一緒に見てきた仲間の成長について、アヴィも認めている。
力だけではない。精神的にも支えてくれた。
「でも、私が強くないと……」
ぎゅっと剣を握り締めて俯く。
アヴィには、アヴィの悩みがある。
噛み締めた唇は、どんな想いを秘めているのか。
「すみません、シフィークを……殺したかった、ですね」
「シフィ……? あぁ、あれ」
名前を聞いても思い当たらなかったのか、少し気が抜けたような声を返すアヴィ。
「?」
母さんの、一番の仇のはずなのに。
顔を上げたアヴィの表情は穏やかだった。
「アヴィ?」
「あれは死ぬわ」
願望や予想ではなく、断定。
確信とも違う。決まっている未来として。
「人間を滅ぼすのだから、必ず死ぬことになる。違うかしら?」
「……はい、もちろん」
「嘘じゃない、のね?」
すっと目が細められる。
紅玉のような瞳がルゥナに刺さった。
嘘をついていないかと。
嘘だと言ったら、どうなるのだろう。
ふと思う。
全部、逃げ延びる為の方便で、アヴィを騙していたのだと言ったら?
裏切られたとルゥナを激しく責めるだろうか。
怒り狂い、ルゥナを殺すこともあるかもしれない。
(それは……幸せ、かもしれない)
「……嘘でした」
「……」
「死にたくなくて、アヴィと一緒にいたいだけで、嘘を吐きました」
「……」
「アヴィ……私を、どうしますか?」
言葉にしてしまった。
心にもない嘘を。
アヴィの紅い瞳がルゥナを映して、揺れない。
瞬きすらなく。
「……馬鹿に、してる?」
「……」
「私は、貴女みたいに賢くない。だけど」
ゆっくりと歩み寄るアヴィの姿を映すルゥナの瞳は、揺らぐ。
不安と期待で。
剣を握っていない左の手が、ルゥナの首に伸びた。
指先が、喉をなぞる。
「そんな顔をしていたら、わかる」
指が顎を撫でて、唇に触れた。
「おしおき、ほしいの?」
「……はい」
嘘を吐いた罰を与えてほしい。
隠れてトワと睦んだことを責めてほしい。
「仕方ない子ね」
そう言ってアヴィがルゥナに与えてくれるのは、優しい口づけだ。
罰ではなくて。
(……)
罪悪感を抱えるルゥナにとっては、その優しさが重くて、やはりこれはおしおきなのかもしれない。
「……必ず、人間を滅ぼします」
見え見えの嘘を取り下げて、あらためて誓う。
その気持ちに嘘偽りはない。
「なら、いいの。あれは私の手で殺したいから、もっと強くならないと」
剣を鞘に納めて吐き出すように言うと、首筋に流れる汗を拭った。
ここ数日、安穏とした日々が続いたので体を動かしたかったのだろう。
やっているうちに力が入り過ぎたというところか。
少し意外にも思う。
アヴィは、個人的な復讐心を中心に戦っているのかと思っていた。
だとすれば、優先すべき殺害対象は母を殺したシフィーク達になるはずだと。
妄執に囚われ、他が目に入らないのではないかと思っていたのだが。
少なくとも、清廊族という種族全体の幸福の為に、という気持ちが原動力になっているようには思えない。
(全ての人間を滅ぼす理由が、アヴィにはあるんでしょうか)
最初は、やはり母さんの仇討の為だったはず。
戦ってきた中で、何かが変化したのか。アヴィの中で。
きっかけとなったとしたら、おそらく力を失った時だ。
あの時、ルゥナは人間に勝利する為に氷乙女と連携する道を話した。
ただ人間を滅ぼしたいと言葉にするだけではない。
アヴィに近い戦う力を有した仲間を得て、本当に人間に勝利するのだと。
氷乙女は強い。
彼女らがアヴィの恩寵を授かり、人間を殺すことで更に力を増していくとなれば、その先には勝利がある。
それを理解して、個人的な復讐心よりも全体としての勝利を優先してほしい。
ルゥナの気持ちはそうだったが、アヴィがそれを納得するかどうかは半々――いや、あまり期待していなかった。
(母さんの仇討というだけではない、とすれば……)
他の理由があるということになる。
それはきっと、ルゥナの知らないアヴィの過去に。
奴隷として暮らしていた頃のことなのかもしれない。
聞けない。
聞いてはいけない。
人間という種族全てに絶望と憎悪を抱くような過去があるのだとすれば、勇者シフィークを殺す以上に優先するのも納得できる。
根絶やしに。
邪悪な生き物を根絶やしにする。
この世界から消し去り、優しく静かな日々を取り戻す。
ルゥナの願いは、そこに向かうことだ。
「人間を滅ぼして母さんの所に行く。一緒に行きましょう、アヴィ」
「……」
僅かに、アヴィの瞳が揺れた。
「……そう、ね」
逸らした瞳が何を見ていたのか、ルゥナは聞けなかった。
※ ※ ※
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます