第一幕 22話 戦いの前_1
黒涎山という山がある。――あった。
魔境と呼ばれる魔物の巣窟で、神話の時代に女神と魔神が戦ったと清廊族に伝わる場所。
カナンラダ大陸中央からやや東南に位置し、その北のニアミカルム山脈麓から続く森林の中に聳え立っていた。
その黒涎山が崩れ去ったのは二十日ほど前のことになる。
大陸西部で名を上げたシフィークという若者がいた。
二十代半ばという年齢で、英雄に届くのではないかと言われる実力を囁かれた彼は、カナンラダ大陸の若き勇者と呼ばれるトップクラスの冒険者である。
そんな彼が、西部から南部に移動したのは、季節が冬だったからなのかもしれない。
西部よりは南部の方が暖かい。
彼は南部を渡り歩き、春先にレカンの町の近くの村から黒涎山に向かったという。
闘僧侶ラザム。強襲斥候イリア。天才魔法使いマルセナ。
勇者シフィークを含めた四人の冒険者パーティで。
そこに人として数えられない奴隷もいたという話は、特に誰も気に留めなかった。
その直後に崩れた山と彼らが無関係だったと考えるのも難しいが、さすがの勇者も山を一つ壊すなどという力はない。
彼らが黒涎山に向かったと知る者も、その後に周辺で発生した災厄により命を落としたり、それどころではなくなっていたりと。
勇者一行の消息は、人々の記憶から消えていくことになりつつあった。
「……う、ぼふっがはっ」
天高く槍のように突き出していた峰や内部の空洞が崩れただけなので、黒涎山を形作っていた岩塊がなくなったわけではない。
崩れた土砂と瓦礫の積み上がるそこから這い出す者があった。
泥まみれであちこちに傷を負い、服もぼろぼろの状態で地の底から這い出てくる者。
その瞳は血走り、怒りに濁ったまま。
「あ、の……クソ女……」
ぎりりと歯軋りしながら絞り出した後に、口の中の砂利をべっと吐き出す。
血も混じった唾を吐き捨て、日の光を仰ぐ。
何日かわからないほどの間、地中を這いずり、這い出してきた。
地上に降った雨が染み込んできた水を、泥と共に飲み命を繋いで。
当然、排泄物もそのまま垂れ流しだ。泥水のせいで腹も下して悲惨な状態だった。
その表情が負の感情に歪んでいなければ、額から鼻筋にかけて抉ったような傷痕がなければ、気の良い好青年という印象だっただろう。
「絶対に……絶対、殺す……」
恨む相手が誰であるのか、それが生きているのかどうか。
そういった状況を彼が理解していたのかどうかわからない。
ただとにかく、許さないという意志だけを言葉に詰め込んで吐き捨てた。
「必ず、僕が殺す……」
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