第511話 言論の自由とは
今回は、ちょっと考えてみた表現の自由、言論の自由の話。
ブラジルだかの話だと思いますが、Xが締め出しを喰らっていて、イーロン・マスク氏が何やら主張している。
この問題は、表現の自由や言論の自由がXにおいてどう解釈されているか、をまず考えないといけない。僕が立ち入る範囲では、かなりの数の人が、Xの上で非常に自由に振る舞っている。というか、自由すぎる。自由すぎて、無法地帯になっている。
自由に関する問題はおそらくある種の逆行が起こりかねない事態なのかな、と思ったりする。現代に至るまでの段階で、言論や表現の自由がない時代があり、そこからいろんな人が努力したりして、自由が到来したと思われる。今はその自由が行き過ぎてしまい、少し規制というか、制限があった方がいい、というような意見が出てきてしまう。
僕の個人的な意見では、自由を規制したり制限したりするのはよろしくないけど、誰もがある程度の自制心というか、分別を持たないといけないのでは。僕のこの記事もきっとほとんど誰の目にも触れないけど、しかしネット上にアップされた以上は公の場に出ていることになる。本名を伏せたり、素性を伏せても、ある種の責任が必ずある。なのであまり迂闊なことは言えないのが、難しいところ。
この問題がカクヨムにも当てはまるのは、僕にはよく違いがわからないけど、「批評」と「批判」がどうこう、みたいな話です。誰かの作品を「批評」するのは「批判」とは違う、みたいな論法があるようですが、これはやや言葉遊びで、この問題の核心もまた「自由」の問題に繋がるわけです。誰かの作品に自由な内容の感想をつける権利は誰にでもあるけど、さて、そこでその作品を貶すことは許されるのか。「貶していませんよ、批評です」となった時に、これは自由へのある種の挑戦になる。僕の中での正解は、わざわざ相手を貶すくらいなら黙ってる、という感じです。良いな、と思えば褒めて、良くないな、と思えば放置すれば良い。
誰かを否定したり、批判する自由は、ちょっと解釈が難しいけど、僕の中では、誰かを否定したり批判しても良い、というか、そういう発言をすることは出来るというか、しても良い。それが出来なくなってしまった時に、本当に表現や言論の自由が失われているわけですね。そこで、表現の自由や言論の自由を保証されていても、否定や批判は許されない、という形になるのがおそらく一番良い。かなり複雑になるけど、発言しても良いけど全体からは受け入れられない、という形になるわけです。
ただ、現状を見る限り、これは不可能に近いですね。例えばXでも酷い言論があっても、それが否定されながらも同時にかなりの共感を呼んでしまう。それと、仮に全否定される言論があると、それがネット上での私刑みたいになってしまうのも難しい。
結局、最大の課題は、誰もが自由に発言できる、という形になるのか、とも思う。名前も顔も身分も何も明かさずに自由に発言できるとなると、無制限に自由になってしまうのが最大の課題です。Xが悪いわけではなく、利用者のモラルが問題なのでは。
では、利用者のモラルはどうやったら維持されたり、正しく形成されるのか、となると、そんな手法はない気もする。素朴にも、利用者自身に委ねられる。これは教育や躾でも難しい。もはや人間性の問題なのかも。
まぁ、Xなんて使わないのが一番楽に過ごせる気もするな。
2024/9/1
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