第505話 「柔道≠JUDO」議論とライトノベル議論の類似性

 今回は「これって同じ発想かな?」と思った話。

 もはやあっという間に沸騰した後に忘れ去られたので、どこでも話題にもなりませんが、パリオリンピックの柔道において、「柔道」と「JUDO」が違う、という意見がSNSで散見された。同じ文脈で「綺麗な柔道」というような発言もあった。

 さて、素人の僕にわかることは、柔道は相手の背中を畳に触れさせる、ということが勝つために必要なことです。では、それに至る過程はどれくらい意味があるだろう。

 例えばものすごい極論を言えば、ルール違反にならない限り、どんな姿勢、どんなやり方になろうと、相手をひっくり返せばそれで良いことになる。漏れ聞いたところでは、レスリングにならないようにルールの調整はなされているらしい。

 で、今回の「柔道≠JUDO」論は、フランスだかでの人気スポーツの柔道と日本の柔道は違う、という意見なんですが、これってライトノベル、特に「なろう系」というような表現をされる作品群に対する評価とかなり近いような、と僕は思った。

 ライトノベル批判をするとなると、従来のライトノベルと「なろう系」は違う、というような趣旨になる。もしくは「なろう系」はライトノベルとは全くの別物、とか。「ライトノベル≠なろう系」という形になるのでは。

 では、この柔道とライトノベルに関する二つの全く違うジャンルの議論が類似していると思う理由を挙げると、勝負を重要視するか、様式を重要視するか、という議論だろうと思える部分です。

 柔道において、柔道らしさを求める意見、柔道とJUDOは違うという意見は、明らかに様式に重きを置いています。一方、ルールの範囲でならなんでもして良いという意見は、勝負に重きを置いています。

 そこをライトノベルに当てはめてみると、なろう系を否定してその様式を否定するのは、逆説的に様式にこだわっている。なろう系を肯定したり、その手法を取り込むやり方は、読まれること、評価されることに重点を置いているように見える。流行りに乗ることは明らかに読まれることを意識していて、流行を否定するのは自分が好む様式に重点を置いているわけですね。

 僕はなろう系が好きか嫌いか以前に、ほとんど読まないので勝手なことを言いますが、似たような切り口や似たような設定の作品が乱立しているように見える。それが様式の強さを物語っているし、様式が強くなり過ぎたせいで反発が生じている。

 僕自身がどういう方針かといえば、なろう系の流れに乗るつもりはないけど、PVや評価はある程度欲しい、という感じです。そういう中途半端さが評価されない理由だと気づいていても、自分の好きな様式はなかなか捨てられない。

 この様式にこだわる部分が柔道の議論にあれば、と思いますが、おそらく「柔道≠JUDO」議論は、日本選手が負けたから生じた、という側面があるのは否めない。つまりこの様式について議論している人は、同時に勝負にこだわって様式を咎めていて、ほとんど両立しない二つの要素を都合よく使っている。例えば、美しい柔道で勝て! と主張する人はあまりいないようだった。金メダルを取った日本人選手に向かって「お前の柔道は美しくない!」と指摘する謎の過激派もいない。

 どれだけ主張を展開しても、勝つこと(あるいは読まれて評価されること)が前提になるので、変な負け惜しみみたいになるな、と思った。競争というものは全て、勝ち負けがこそが全てになってしまうので、様式に固執するのは、あまり意味がないのかもな。

 と言って、僕がなろう系を真剣に勉強してPVを取りにいくかといえば、いかないのですが。もっと勝ち負けにこだわれよ、と自分に言いたい。



 2024/8/7

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