第287話 前回の続きとして、作家の性別の話

 今回も性別の話。

 さて、僕の中では作家の性別は全く気になりません。面白いものを書く人が正義です。

 何度か書きましたが、僕はライトノベルに沈むような形で読書を始めたのですが、桜庭一樹さんの「砂糖菓子の弾丸はうち抜けない」が契機になって、一般文芸に進むことになります。それから桜庭一樹さんは好きな作家の一人です。

 いろんな本を読んできましたが、これは表現が難しいですが、男性作家と女性作家の作品は「同列に面白い」ですが、内容に性別による差が無いのか、と言われると、ある、と答えるしかない。変な表現ですが、男性らしい文章、女性らしい文章が確かにある。これは文体かもしれないし、あるいは行間かもしれないし、よく分からないんですが、とにかく存在する。これは本を読む人なら無条件にわかるはず。

 この一点で、「男性作家」と「女性作家」という括り、分類が生じてしまう気がする。ただどちらが優れているとか、劣っているとかではなくて、雰囲気のようなものです。間違いなくこれまでは男性作家が主流だったから、そこからあるいは一部の人は女性の文章は馴染まない、と主張するかもしれない。それは暴論というか、極端に思えるけど、まったくわからない、というわけではない。これはカクヨムでも色んな人が強い言葉で指摘したりする「ライトノベル批判」に近い要素がある。今のライトノベルはつまらない、は、女性作家はつまらない、と近いように僕には見える。そんなことはないはずだけど、もうそこは個人の領域、好き嫌いだし、趣味嗜好なので、踏み込んではいけない。損してるよ、とは思うけど、当人がそれで良いと思っているなら、放っておこう、というのが僕の考えになります。

 ここからはすごく私的な内容ですが、僕は女性作家の小説が好きだ。桜庭一樹さんとか、森茉莉さん、尾崎翠さん、倉橋由美子さん、皆川博子さん、有川浩さん、三浦しをんさん、という辺りが浮かびますが、性別なんて関係なくて、どなたも個性的で、独自の世界を作っている。結局、性別と小説の面白さには関係はない。性別と小説の構造、諸要素とは関係があるけど、その良し悪しは女性だけではなくて、男性にも強い影響を与えていると思う。

 女性の作家は既に認められているし、評価もされるし、「女性作家」という表現は、ただの言葉に過ぎないように僕には見える。性別がなくならない限り、これは消えないのでは。性別が消えることがおそらくあり得ない以上、女性の作家は「女性作家」と呼ばれ続ける気がする。呼ばれ方がそこまで気にならないのは、僕が男だから悲観的ではないだけだろうか。

「作家」の作品も「女性作家」の作品も、「作品」には変わりないのでは。

 これは重要ですが、僕は女性の作家の作品を読んで「女性だからこんなものだろう」というようなことを思ったことはないし、「女性だから仕方ないか」と思ったこともない。つまらないものはつまらないし、つまらなければその作家は僕の中ではそれまでになる。そこにおける「評価」に、性別はまったく関係ないと断言できます。


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