第237話 手法は理論に宿るのか
今回はささやかな驚きから始まる、創作理論がいかに僕と縁遠いかという嘆き。
カクヨムを適当に漂っていたら、「小説の書き方」みたいな作品があって(まぁ、無数にあるのですが)、その中で村上春樹さんが取り上げられていたので、流し見たのですが、少し驚いてしまった。
作品のタイトルの付け方に関して触れている部分で、「ノルウェイの森」というタイトルに対して、「ノルウェイ」に「森」をつけたのは何故か、みたいな文章があり、???となってしまった。後の章で触れられますが、この視点は「何故「読売」「ジャイアンツ」なのか?」と問うなようなものです。
この方は「村上春樹は嫌い」と書いてあるけど、さて、読んだのだろうか? とは少し思ったりもした。
これは僕が村上春樹ウォッチャーだから知ってるだけなのか、それとも読書家の間だけの常識なのか、世代によっては常識なのか、すぐには見当がつかないのですが、「ノルウェイの森」は、ビートルズの楽曲のタイトルをそのまま借用しているんですよね。そして作中で登場するわけで、うーん、「ノルウェイ」と「森」に分割して分析するのか、やや見当外れかな、となるわけです。
村上春樹さんは比較的、こういう引用をするけど「ダンス・ダンス・ダンス」もそんな感じだったはず。だからなんだ、というのが僕の姿勢で、むしろこういう引用の方が何かを象徴しているようで好きかな、と思ってしまう。
僕の書いたものもそういう引用が多用されているけれど、それで読む気をなくす方もいるかと思うと、この問題の難しさが身に染みる。僕自身の引用タイトルでしっくりくるのは「銀河に咲く花」ですが、これはアニソンシンガーの亜咲花さんが「亜細亜に咲く花」というキャッチコピーでやっているのを、ごっそり引用しました。こっそり、ではなく、ゴッソリ。
この手の引用はどこまでが許されるのか、悩ましい。しかし一流の書き手は自然と良いタイトルを思いついているようなので、それが出来ない僕はやはり二流なんでしょう。何かその辺りのテクニックがありそうだけど、その辺も個人的に受け入れるのが難しい。
ここのところ、出来るだけ見ないようにしているのが「文章のルール」という感じの主張で、これは少し前に書いた「文章をどうやって学んだか」と似たような匂いがする。僕自身が、世にある本を適当にただ読んで、適当な文章をただ書いて、言ってみれば教本も読まずコーチがいないままに格闘技を志し、狙い定めた相手に組みついていったようなもので、はっきり言って一蹴されたし、され続けた。そのうちになんらかの技か力がかすかに身についたような気がするけど、その技にも力の使い方にも、規則もないし、論理立った系統もない。直感、本能しか存在しないような。そうなると、「これこれという構成の文章は座りが悪い」というような指摘をされても、そんなことは感覚でわかるのでは? となってしまうので、どうやら僕は理屈とか手法が根本から身についておらず、そのいい加減さが、タイトルをつけられない、という部分で恥ずかしいほど露出する。赤面です。キャッチコピーも下手だしなぁ……。
ちなみに村上春樹さんの小説で一番好きなのは「1973年のピンボール」で、村上春樹さんについてラフに知りたい人におすすめの本は「村上春樹いじり」という本です。この本はびっくりするほど、笑えます。絶版なのかな。買っておいてよかった、としみじみ感じる。面白い本ほど絶版になるのが出版社の謎。
余談として、ビートルズの「ノルウェイの森」は僕の感想としては、目立つところのない地味な曲、です。映画「ノルウェイの森」にはしっくり来るんですが、これは映画の方が寄せたのかな? これも謎だ。
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