44
八塚克哉は考えていた。
坂水のアパートの現場で少し休んだ後、警視庁に戻る捜査車両の運転席。
今は、信号待ちだ。
疲労困憊しており、今日の出来事をまだ頭が整理できていない。
<フランス人だけじゃ飽き足らず、大量の外国人を誘拐、ってか。
一体、岡嵜親子は何を考えているんだ。
正気の沙汰とは思えない。
いくら人類を滅亡させるったって、世界中の人間を全員拉致して拷問するなんて無理なことくらい、考えなくてもわかるだろう。
特に、有馬って娘は、きゃぴきゃぴしてはいたが、一流大学の学生だ、それくらいの常識はあるはず。
今思えば、あれは演技か?
一癖ありそうだな…
それにしても、拷問した様子の動画を投稿することに、なんの意味があるんだ。
今のところ、何かを要求する訳でもないし、ゾンビにしてみたってふざけたタイトルだし…
世界中の人間にそれをアピールしたって、返って警戒させるだけで、人類絶滅になんて繋がらないだろう…
うん?待てよ。
世界中の人間?人類?
ああ、くそっ、なんかひっかかるな。
そうだ、池田は、佐藤家は、どうなったんだろう…>
ビー!
突如、後ろからクラクションの音が響いた。
信号を見ると、いつの間にか青になっている。
<刑事にクラクション鳴らすなんて、いい度胸してるな、捕まえんぞ、こら>
八塚はルームミラーで後ろの車を見てそう思いながら、アクセルをゆっくりと踏んだ時だった。
交差点の向こうの歩道に人だかりが見えた。
何か様子がおかしい。
八塚は交差点を超えると、ハザードランプを付けて車を路肩に停め、降りてそこに近付く。
人だかりから喧騒が聞こえる。
<ん?喧嘩になっているのか?>
さらに歩を進める。
「がああああ!」
異様な叫び声と、それを取り囲む女四人と男一人。
誰も学生のように見える。
「おい、やめろって!」
「もう、警察も呼びましょうよ!」
「なんなの!?あの娘!」
「いいから早く止めてよ!」
などと口々に喚いている。
その輪の中心には、その五人とは別にまた、五人の塊があった。
叫び声の主、上半身が肌蹴け、スカートをたくし上げた若い女が、仰向けに倒れた男に跨り、歯を剥き出している。
どう見ても、噛み付こうとしているようだ。
それを後ろから、がたいのいい男二人がそれぞれ両腕、そして一人が背中にから羽交い絞めにして必死に引き離そうとしている。
女の体重は軽そうなのに、男三人でも持ち上がらないのは、跨いだ足で男を強く挟んでいるからだろうか。
時々、引き摺られ、男の身体ごと持ち上がりそうになっている。
男は顔に血がべっとり付いていて、意識がないようだ。
背中にも、血だまりができている。
<またか…!?>
八塚は重い足で輪の中に小走りに入る。
「警察だ!一体何があったんだ!」
傍観している五人にいらついて、八塚は声を荒げた。
「え、警察、もう来てくれたの?」
引っ張っている三人よりは小柄で、ニット帽を被った男が腰をさすりながら答えた。
「たまたま通りかかっただけだ!
それより何してる、君も手伝って、彼女を引き離そう!」
「無理ですよ!さっき止めようとしたら俺も引っかかれて…」
そう言って、男は右手を上げて掌を見せてきた。
引っ掻き傷が大小三本あり、僅かだが血が出ている。
顔色も悪い。
<まずいな…>
八塚は思うが、口には出さない。
「俺たちアメフト部なんですけど、本気でいったのに、あのマネージャーに俺、吹っ飛ばされて…
正直手が出ないんです」
「今、引き離そうとしている奴らなんて、全員百キロ前後ある奴らですよ。
それなのに、あれですから」
「キャッ」
女たちから小さな悲鳴が上がった。
暴れていた女が事切れたかのように急に力が抜け、叫ぶのをやめたのだ。
その拍子に、引っ張っていた男たちが縺れ合うように後ろに倒れ込んだ。
八塚は仰向けに倒れたままの女の元に駆け寄った。
男たちは立ち上がり、おろおろと後ろに下がる。
いずれも、上背は百八十センチを下らないだろう。
女の方は死んだように動かない。
男たちに引っ張られたせいだろう、服はところどころが破け、スカートは捲り上がって、太ももが露わになっている。
八塚は座り込んで、女の手首を取った。
脈がない。
男の一人が羽交い絞めにしていた腕は女の首を絞めていた。
頚部圧迫による心肺停止だろう。
「救急車はもう呼んであるのか!」
「さっき、私が…」
四人の女の中の一番背の低い一人が、ゆっくりと右手を半分挙げた。
「よし、じゃあ次は警察にも連絡して。
それから、誰かどっかからAEDを探してきてくれ。
その辺の店を周ればたいていある。なくてもスマホで検索すればどこにあるかわかるから」
「じゃあ、私が」
一人の女がそう言って走り去った。
「あとは残りで、その男子の容態を診てくれ。
俺はこの子を蘇生…」
八塚は両手を伸ばして、掌を女の胸の真ん中に当てながら、そう言いかけて、動きを止めた。
たった今、脳に酸素が行かず、心臓が止まったばかりだ。
すぐに心肺蘇生をすれば、助かる可能性がある。
<だが…>
先ほどの坂辻のことを思い出さずにはいられない。
<くそ、どうすればいいんだ…!どっちが正解…
って俺はバカか!人命救助に正解も何もあるか!
どうにでもなれ!>
「君たち、この娘の手足を押さえていてくれ!」
八塚は呆然としている周りの三人の男たちに声をかけ、止めた手をまた動かし始めた。
<一分百回…しかし、一日に二人も心肺蘇生することになるとは…>
女の胸の真ん中に両の掌を組んで当て、肘を伸ばして体重を垂直にかける。
三人の男たちは恐る恐る近付いて来る。
無理もない、さっきまで、この女は暴れていたのだ。
「押さえてろっていうのは、やっぱり、その、また暴れるかもしれない、からですか」
女の左腕の方に回った坊主の男が言った声は少し怯えていた。
「ああ、そうだ、念の、ため、な。
ひっか、かれ、ない、ように、注意、しろ。
ところ、で、この娘、は、どして、こんな、風に、なったん、だ?」
八塚はリズムをとりながら、三人に訊いた。
「俺たちもよくわかんないんですけど、そこの居酒屋でコンパしてたのが終わって、外に出てたんですよ。
それで、尾本が酔っぱらったこの娘、俺らのアメフト部のマネージャーで、与川って言うんですけど、おんぶしてやるよって、背中に担いだと思ったら、急に大声がして…
見たら、与川さんが尾本の首元を噛んでいたんです」
一番がっちりとした大きな男が八塚の側に座り、与川と呼んだ女の右腕を取りながら言った。
「君ら、の、学校、って、帝都、薬科、大学、じゃない、よな?」
「あ、おしいっすね。
他の女子は全員そうだけど、俺らは昭正大学っす。
与川通じて今回のコンパ、セッティングできたんで。
てか、なんでわかったんすか?」
両脚を押さえた軽薄そうな男が言った。
<ニアピンか、やはりあの帝都薬科大学が何か関係しているのか。
が、逆に、あの大学でないこの娘が発症するとはどういうことだ?
有馬が無差別にウィルスをばら撒いているのか、次から次に発症している感じだ。
一体、どうやって感染させているのか>
ふと周りを見回すと、野次馬が増えて、遠巻きにこちらを見ている。
「やっぱ、あの動画のせいじゃない?」
「んな訳ねえだろ」
坊主男が言った言葉に、軽薄男が答えた。
「動画、って、なんだ?」
八塚が訊いた。
「あ、飲みの最中に、なんか怖い動画があるって誰か言い出して。
ゾンビにしてみたとかってタイトルで、今、トイッテーとかでバズってるらしいんっすよ」
「ニュースにもなったってあったよな。
マッドサイエンティストが外人拐ったあげく、拷問にかけてゾンビにするっていう動画ってんだろ」
大男が得意そうに言った。
「ああ、知って、るよ。で?」
八塚は冷静に、想像通りの答えの次を促す。
「で、今その動画、どうも続きの奴とか違う外人のバージョンとか次々アップされまくってるらしくって。
その最新版がまたアップされたって、与川はコンパそっちのけで、なんかそれずっと見てたんすよ。
だからって、自分がゾンビみたいになるって、意味わかんねーでしょ」
<あの動画を見ていて発症した?たまたまなのか…>
八塚は疑問に思う。
「そういや、最初の奴、帝薬大の学祭でやってた映画にそっくりだって、女子の誰かが言ってたよな。
そしたら与川も、自分も行って見た、って喰いついたんだよ。
俺、行ってないから知らんけど、コンパなんかより、よっぽどそっちの映画の方がおもしろかったんだろ」
坊主男がぼやいた。
「そりゃ、今回、与川は仲介だったから、男はいつも一緒の俺たちだけだもんな。
特に、お前ら与川ほったらかしだし、会話盛り上げないんだから、そりゃスマホでもいじりたくなるでしょ。
こんな普段履かないようなスカートまで履いてきてんのに」
軽薄男が責めるように言った。
「そんなこと言ったって、与川さんとはいつも部活で一緒だし、俺はそういうグロ系の動画、駄目だし…なあ?」
坊主男が、大男に助けを求めた。
「ああ、俺は当然、与川以外の娘、狙ってたから…」
大男が本音かどうか言い訳をした。
「ずっと、その娘、一人、で、見てた?」
八塚はだんだん疲れてきていたが、それでもリズムを変えずに訊いた。
「いや、動画のこと言い出した、ああ、あそこの電話してる女子、えっと、襟野さんだったっけ、彼女は最初の方だけ…
それから、そこに突っ立てる木本は途中から一緒に見てましたよ」
大男が襟野と呼んだ女と木本と呼ばれたニット帽の男それぞれに顎を向けた。
「ああ、木本は与川に気がありそうだし」
「え、そうなの?そりゃあ、駄目でしょ。
与川は尾本が好きなの見え見えじゃん」
「さっきも、酔っぱらったふりして、尾本に持たれかかってたっけ?」
「木本、それ見てすねてたもんな。
でも、与川マジ体調悪そうだっただろ?
動画見て、気分が悪くなったとか、変に怖がってたよな」
八塚は心臓マッサージを続けながら顔を上げて、木本を見た。
<本当にこの与川が好きなら、心配してこっちに来ても良さそうなものだが>
木本は噛まれて倒れている尾本という男の方にも行かず、何かぶつぶつ言って引っ掻かれた左手を気にしている様子だ。
嫉妬して介抱しないのか、それとも、よほど、手が痛いのか。
「あっち、は、どうだ?彼は、だいじょう、ぶか?」
八塚が尾本を気にかけた時だった。
「そんな、いやあ」
女の内の長身の一人が泣き始めた。
見ると、容体を見ていた眼鏡をかけた女が俯いて、首を振っている。
「誰か、心肺蘇生法を知っている奴はいないのか!?」
八塚は一旦手を止め、取り囲む連中を見回す。
「私、講習受けたことありますが…」
同じく側で容体を見ていた、先ほど襟野と呼ばれ、警察に電話をするように言った女が、恐る恐る手を挙げた。
心なしか顔色が悪い。
「警察への連絡は済んだんだね?
じゃあ、知っているなら、すぐにやってくれ!」
「警察には繋がらなくて…」
「え?繋がらない?おかしいな。
とにかく、先に彼を頼む」
「じ、自信なくて…で、でも、やってみます」
八塚の声に気圧された襟野は、慌てた様子で尾本の側に駆け寄った。
眼鏡の女と入れ替わると、
「尾本君?尾本君、ねえ、しっかり…」
と呼びかけ、意識確認をした。
当然のように、尾本から返事はない。
襟野はおろおろしながらも、尾本の首の下に手をやって気道を確保し、胸に両手を乗せて、心肺蘇生を施し始める。
ここまでは手順通りだった。
が…
襟野は心臓マッサージの後、人工呼吸をし始めた。
「ばか!やめろ!血が付いているだろう、血が!」
八塚が慌てて戒めた。
「え、そうなの…ぺっ」
襟野がそう言って吐き出した唾には、少し血が混じっていた。
「それより、心臓マッサージだけでいい!一分百回!」
<教科書通りかよ。
というか、血が付いていたらやるな、ってのも習ったろ。確認しろよ>
折角やってくれているのだから、八塚はそれを口には出さず、思うに留めた。
<それより、こっちを…にしても、警察に繋がらないって…>
八塚が心臓マッサージを再開してすぐだった。
「ううっ、うっ」
与川が息を吹き返した。
「佳代!」
「待て!」
蘇生の様子を見ていた眼鏡の女が近付こうとするのを、八塚は手を横にして制した。
「ちょっと、手を離してくれるか」
八塚は腕を抑えていた二人にはトーンを抑えてそう言うと、懐から手錠を取り出した。
「あ?そういうことですか…」
男二人が手を離すと、八塚は女を一旦横にして、後ろ手に手錠をかける。
「これでいい。じゃあもう一度、しっかり、押さえてて」
女をまた仰向けに戻した八塚は、意を決したように与川を見つめ、一息付いてから
「大丈夫ですか?」
と問いかけた。
「げほっ!げほっ!」
与川は咳き込み、充血した目でしばらく瞬きを繰り返す。
そして、二、三度頭をゆっくりと横に振り、最後に正面を向いた。
八塚と目が合う。
「があ!」
与川は突然、唸り声を上げ、また暴れ始めた。
<くそ、やはり駄目か…!>
八塚は思った。
「うお!またかよ!」
男たちは全体重をかけて、佳代を押さえようとする。
が、両足を押さえていた軽薄男が、蹴りの力で後ろに吹き飛ばされた。
「ぐっうぅ…」
軽薄男は腹を押さえてうずくまった。
<脚は腕より五倍力が強いとは聞いたことはあるが、にしても、考えられない力…>
そう思いながら、八塚は与川を押さえようと、空いたスペースに加勢する。
「うわ!まじかよ!」
今度は与川の右側の肩と肘を両手で押さえていた大男が驚嘆の声を上げた。
手錠をしていたはずの右腕が背中の下から出てきて、男を掴もうとしてきたのだ。
見ると、与川の右手首は皮がずり剥け、一部骨が除いている。
<手錠を力づくで!?>
八塚は慄いた。
「手錠から無理やり手を抜くって、嘘だろ!?」
「もうダメっす!これ以上無理!」
与川は血だらけの右腕をやみくもに動かし、頭の方では左横を向いて、自分の肩を押さえている坊主男の手に噛み付こうとしてきた。
「もういい、離れろ!」
男二人はその言葉を待っていたかのように、八塚の後ろに飛び退いた。
八塚はそう言いながら自分も立ち上がり、懐から拳銃を取り出した。
与川は上半身だけむくりと起き上がると、
「きぃああああ!」
と奇声を上げた。
左手にはまだ手錠が残っており、手首から血が出ている。
<痛みを全く感じないようだとは言え、ここまでとは…>
八塚は後ろの二人の男を庇うように、銃を構えた。
与川は飛び跳ねるように立ち上がると、八塚に向き直って睨みつける。
「銃を構える、相手に予告する、威嚇発砲する…」
八塚はそう呟いた。
それは警察官職務執行法の発砲要件だ。
「動くな!撃つぞ!」
バンッ!
八塚は警告した後、すぐに空に向って発砲した。
「キャア!」
「おお!」
銃声を聞いて、若者たちだけでなく、野次馬からも驚きの喚声が上がった。
「銃を構える、相手に予告する、威嚇発砲する…そして…」
八塚は努めて冷静に呟いた。
与川は銃声を意に介さず、恐ろしい形相となって八塚に向かってきた。
<…そして…相手に向かって撃つ…!>
バンッ!
「キャア!」
「うわああ!」
野次馬からまた次々声が上がる。
結果、二回目に撃った弾は、与川の左腿を打ち抜いた。
与川の動きは一瞬止まった。
何が起こったかわからないのか、少し首を傾げる。
が、それも束の間、撃たれた足を引き摺りながら、また八塚に向かい始めた。
「キャー!」
「嘘だろ!?」
「あの娘、なんなの!?」
「マジかよ」
学生と野次馬からこれまで以上に、悲鳴やざわめきが起こる。
<なんだこれ…ゾンビ映画まんまじゃねえか…>
八塚は狼狽えながらも、
「来るな!撃つって言ってんだろ!」
と、もう一度警告した。
バンッ!
当然のように言うことを聞かず向かってくる与川の、今度は右膝を打ち抜いた。
「ちょっと、そこまでしなくても!」
眼鏡の女は与川と友達なのか咎めてきたが、八塚はそれどころではない。
女は前のめりに倒れるも、上体を反らせて頭を上げる。
睨みつけてくる血走った眼。
剥き出しの歯。
傷めて血だらけの両腕で、匍匐前進するように、まだ向ってくる。
冷静に考えれば、普通に歩く半分程度の速さしかない。
が、尋常ではないその行動に、八塚はたじろいだ。
「痛くねーのかよ、テケテケかよ、こえーよ」
蹴飛ばされていた軽薄男がいつの間にか起き上がっていて、慄いた。
「いや、ひぃ…」
眼鏡の女は腰を抜かして、座り込んでしまった。
八塚も何度目にしても、ウィルスの症状に恐怖を感じた。
本来なら、傷害或いは傷害致死で逮捕しなくてはいけない。
だが…
「もう、この与川とかいう娘は手に負えない。
君たちは彼女たちを安全な場所へ!とにかくここを離れろ!」
八塚は三人の男たちにそう言うと、向ってくる与川を迂回して、腰を抜かした女に近付く。
「さあ立って、君たちも急いで!」
そう声をかけると、今度は心肺蘇生をしている女の元に駆け寄る。
「君も、もういい!早く逃げろ。
おい、だから、人工呼吸はいいって!」
襟野はまた人工呼吸を行っているのか、倒れた男の顔に覆いかぶさっていた。
八塚の制止を聞かない。
「おい、襟野さんだっけ、君…!?」
近付いてみて、初めてわかった。
襟野は尾本に人工呼吸をしていたのではない。
口元を食べていたのだ。
<こりゃあもう駄目だ…このまま放っておくしか…>
「キャア!」
「おい、木本、何すんだよ!」
八塚が踵を返そうとした瞬間、後ろから悲鳴に続いて怒声が上がった。
八塚が振り返ると、木本がまだ座り込んでいた眼鏡の女に襲いかかっていた。
「くそ!」
八塚は走った。
迂闊だった。
木本は手に傷を負っていた。
しかし、こうも早く発症するとは。
「離れて!」
木本に近付きながら八塚が銃口を向けると、止めようとしていた学生たちは慌てて二人から離れる。
「やめて!助けて!ギャアアア」
時すでに遅く、女は木本に抵抗して伸ばした右手を噛み付かれた。
「おい!撃つぞ!」
八塚は至近距離で拳銃を木本に向けながら、女に当たらぬよう足早に横へ回り込む。
しかし、八塚を無視して木本は目を吊り上げて、女の手を噛み千切った。
「痛いー!」
バンッ!
女が叫び声を上げると同時だった。
銃声が響き、木本はその場に倒れた。
ニット帽ごと、こめかみを打ち抜かれ、即死だった。
「きゃー!」
「頭、撃ったぞ!」
「死んだんじゃない?」
野次馬の声の中、八塚は
「すまん…」
と呟いた。
<拳銃の弾は全部で五発。
最初の女に威嚇を含めて、三発使い、残りは二発しか…
向うにも、まだ男を食っている女がいる状況、無駄な弾はもう使えなかった。
しかし…殺した…
やむを得なかったからといって、人を殺してしまった、俺は…
いや、与川という女でさえ手こずったのに、アメフトをやっているような男だ…
逡巡していては遅い…
こうなっては仕方なかった…
だが…>
「何これ?どういうこと…はあはあ」
八塚が我に返って見ると、息を切らした若い女が立っていた。
先ほど、AEDを持ってくるように依頼した女だ。
「あ、君か。あ、ありがとう…」
八塚は、気を取り直して、その女になんとか声をかけた。
「はあはあ、何!?智香、どうしたの?
はあはあ、大丈夫?」
「大丈夫な訳ないじゃない!
こいつに噛まれたのよ、ううっ」
智香と呼ばれた女は、噛まれた方の手首を左手で掴んで喚く。
八塚は無言でその側に座ると、自分のネクタイを首から取った。
<お気に入りの奴だったんだけどな…>
そう思いながら、噛まれた方の手を取り、二の腕をきつく縛る。
「取りあえずこれで勘弁な。よし、じゃあ、立てるか。
急がないと、あっちの娘もおかしくなっている」
「理恵まで…」
八塚はそう言う女の左脇に手を差し込んで、半ば強引に立ち上がらせると、遠巻きに見ていた学生たちに近付いた。
「智香、大丈夫?」
長身の女がかけより、八塚と代わる。
「皆さん、聞いてください!ここは危険です!
これは、人が狂ったように暴れ回ってしまう細菌かウィルスに感染したせいです!
噛まれたり引っかかれたりしても、感染するようなので、構わずに逃げてください!
早く!」
下からまた近寄ってくる与川をかわし、八塚は大声で周りを急き立てた。
「ええ…」
「ウィルスって…」
学生たちや野次馬がざわめく。
「とにかく、逃げて!
構ってはいけません!急いで!」
その言葉に、野次馬の一人が走り去った。
すると、釣られるように、男子学生や他の野次馬も一斉にその場から逃げ始める。
「よし、君は病院に連れて行く。
あそこに車を停めているから来て。
そうだな、君たちも付き添いということで、取りあえず一緒に来ないか?
ここは危ない」
八塚は与川を避けるように三人を誘導し、車に戻った。
「さあ、後ろに乗って」
そう言って、キーレスキーでドアを開け、運転席に乗り込む。
「じゃあ、出すよ」
八塚はそう言って、サイレンを鳴らして車を出す。
この場だけでない。
街のいたるところで、騒然となっていることなど知る由もなく。
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