光路

悪谷性哉

点灯

 バスの窓にびっしりと付いた水滴にすれ違う車のヘッドライトが滲んで、わたしは視線を正面に移した。元々暗い視界がばらばらと青紫に彩られる。ゲームなんかで、宝物やヒントのありかを示すみたいに。

 もう、そんな画面を見ることも少なくなるのかな、わたしはそう思って膝の上に畳んだマフラーを軽く握る。耳元で鳴る、電子音が並ぶインスト曲の、その音量が上がった気がした。塾に通うことと引き換えて手に入れた、iPodと高いヘッドフォン。今日が、初めての塾での授業の日だった。

 思えば一石二鳥でもあるんだろう。静かな場所と、静かな場所を作るための道具をもらった。そのくせやっぱり塾はめんどくさいなだなんて思う、普通な自分が、いやだった。親に決められたことが嫌い、そんな普通の中学二年生になっていく自分がいやだ。

 暗いバスの中を、目の動きだけで見回す。赤いコートの綺麗なお姉さんも、学ランを着た高校生も、ベビーカーをひしと掴んだお母さんもみんな同じように俯いて、雨に濡れてところどころで車内灯の反射が閃く床を、黙々と眺めていた。

 前方にある電光掲示が、スクロールされるように文字列を変えていく。

「次は、久南山七丁目」

 家の最寄りの停留所の名前を呼ぶざらりとした無機質な女のひとの声が、ヘッドフォンの隙間から入ってきた。わたしは、右側にある降車ボタンを横目に見る。誰かが押すだろうか、それとも?人差し指をボタンに伸ばす。

 車内のそこここで、旧く暖かいオレンジ色の灯りが点いた。

「次、止まります」

 わたしの人差し指は、ボタンに軽く触れたまま止まっていた。先を越されてしまったようだ。

(ざんねん)

 手をマフラーの上に戻して少し顔を上げ、ふうぅ、と息を吐き出す。それから、子供っぽいな、と控えめに吹き出した。

 もう一度、今度はきちんと首を回して車内を眺める。つぎとまります、その光る文字列のおかげでさっきよりは明るい。微かに揺れるシートは温みきって、わたしと服と座面の境界が分かりにくくなっている。

 少しだけ、静かな時間。それからまた耳元で音楽が流れだす。今度はさっきより少しだけ元気な、スネアドラムの効いた曲。人差し指が、勝手に跳ねる。

(なんか、ちょっと安心した)

 わたしは変われない。ざんねん、だなんて。いつまでも成長してない。音楽の再生を一度止めてヘッドフォンを外し、畳んであったマフラーを広げて身につけていく。

 マフラーを巻き終えたころ、滑らかにバスが減速してやがて止まった。飲みかけの炭酸ジュースを開けるみたいな音でバスの扉が開く。

 わたしが曲の一時停止を解除してヘッドフォンを着ける、その動作の間に学ランの高校生が立ち上がって、杖をつくみたいに傘と床とを打ちつけ鳴らしながら扉の前まで進んだ。それから、亀みたいな仕草で首を伸ばして左右を見て、ワンタッチで真っ黒な傘を広げる。雨が止んでるか確認してたんだ。

 わたしも後に続いて、手すりに引っ掛けていた傘を手にして立ち上がりバスを降りる。骨の多い傘を開いて、右手と右の肩とで支える。雨足はあまり強くないがそれでも行き交う車や自転車のライトを巻き込んで降り、わたしの目を眩ませる。

 左手はポケットに入れる。傘の内側まで届く雨粒が当たるせいで、右手がひどく冷たい。暗いからよく見えないけど、きっと真っ赤になってる。

 家へと続く道がバス通りにぶつかるT字路までやってきて、わたしは赤信号に足止めされた。乱視ぎみなのもあって、疲れてぼけた目には、光がぶれて何重にもなって見える。棒立ちの赤いひともまるでなにかのオーラを纏ってるみたいだ。

 雨足はさらに弱まっていた。だけど細々と、画面に縦にノイズが走るみたいなはやさと曖昧さで降り続けていた。

 おじいちゃんが煙草の煙を吐き出すのを思い出しながら、口をウの形にして白い息を吐いた。風が吹いて、左のほうへと流れていく。ズボンだとはいえ脚が微妙に濡れてしまったのか、氷に薄く覆われたように冷たさを感じる。

 足踏みをして、ほんの少しでも脚を温めようとする。

(信号、変わんないな)

 曲がまた切り替わる。アコースティックギターの静かな曲で、水溜りのできた路面をゆく車の走行音、水を撥ね飛ばす音に紛れてフレットノイズだけがよく聴こえた。

 バスに乗る、そうして流れる外の景色を見るといつもおじいちゃんが頭に浮かんだ。色々なところに行ったこと、降りたい停留所を決めて、初めて降車ボタンを押したときの感動。

 どうして、降車ボタンを押すのが好きだったのだろう。

(……信号、変わんないな)

 ぼぉっと信号機を眺める。その横の白看板になにか字が書かれてるけど、読めない。なんだったっけ、見たことはあるはずなんだけど。

 車道を挟んだ向こう側にもひとがやってきて、わたしと同じく立ち止まって信号が変わるのを待っている。それから横を向いて、信号機についた小さな箱みたいなものに手を伸ばした。

「あれ……」

 それから十秒も経たないうちに、信号が青に変わる。渡ってきたひとはパーカーの中の顔を一瞬わたしのほうに向け、ふいと逸らして歩いて行った。

(夜間なんたら式)

 ボタンを押さないと信号が変わらないってことなのか。

 信号が点滅を始めても、わたしはその場に立ち尽くしていた。そして赤信号になったとたんに、自分の左側にある信号機の柱に備え付けられたボタンを押した。白文字の「おしてください」が消え、「おまちください」が代わりに表示される。

 まもなく信号がまた青になった。雨はほぼ降り止んでいたからわたしは傘を閉じる。横断歩道の白いところだけを、それもひとつ飛ばしで進んでいく。渡り終わった先の、歩道を区切る白線からも落ちないようにしながらどんどんスピードを上げていく。

 はっ、はっ、と短く白い息を吐き出しながら軽く走る。

「リベンジ、せいこー」

 ひとを押しのけたり、せき止めたりしてまで進んでいく快さ。自分で、ここを進んでいくんだと決めること。

(ばかみたい!)

 夜間なんたら式も知らないなんて、横断歩道の向こうのあのひともきっと思ったんだろう。普通じゃない、へんな子だって。

 でもこれからは、夜にも進んでいける。知らないことをいっぱい知れる。それで、そのことが嬉しいのはきっとわたしが普通じゃないからだ。

 走りながら切り裂いていく風の冷たさ、それに体が震えるのに対抗して、ははは!と笑う。ヘッドフォンからは、バスの中で聴いていたような電子音楽が、わたしを急かすようにぽろぽろと流れていた。

 

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