第36話 最後の選択

「甘いわよっ。ただの正拳なんかじゃ私はとらえられない」


 綾音あやねは右手に身体をひねり、そのまま膝を上げようとした瞬間。

 瞬くような強い光が放たれる。その光に目がくらんだのだ。動きをとめていた。


「甘いのは、そっちだよ」


 ひろしは拳に強い光をまといながら、綾音の腕をつかむ。

 そのまま足をからませて、地面へと叩きつけるように落とす。柔道でいう足払いだ。


「あっ」


 綾音が小さく声を上げるが、もう遅い。

 洋は綾音の腕を捻り上げたまま抑えつけていた。


「悪いな。まともにかかったんじゃあんたには勝てそうにないからな、少々小細工させてもらったよ」


 うつつの術で一気に力を放つことで多量の光を発する。それをめくらましに使ったと言うわけだ。


「……やられたわね」


 綾音は静かな声で答えていた。口惜しさも悲しみも怒りもない。どこか満ち足りた顔で、洋と結愛の二人をみつめる。


「私の負けよ。まさか結愛ゆあでなく、貴方に抑えられるとは思いもしなかった」


 綾音は笑顔のままで、ゆっくりと告げる。


天送珠てんそうじゅを封印するのは、結愛。あの子に任せるわ」


 綾音の言葉に、洋はどこか拍子抜けしていた。こんなに簡単に負けを認めるとは思ってもいなかった。


 仮に決定的に勝ちをおさめても、最後まで抵抗されるものだと思っていた。


 冷静になってみれば、これはあくまで試験なのだから、命までかけるものではないのかもしれない。これに失敗したら、もう二度と天守てんもりになれないといった話を聞いた訳でもない。


 それとも天送珠を封印しようとしている隙をつくつもりだろうかとも思うが、それにしては綾音は完全に闘う気を無くしていた。


「いいの、綾ちん?」


 結愛がおそるおそるといった口調で訊ねる。結愛も驚きを隠せないのだろう。あまりにもあっさりしすぎている態度に、違和感を覚えたとしてもおかしくはない。


「ええ。天守になる機会はこれが最後って訳じゃないし」


「うん。なら、私やるよ。もし駄目だったら、綾ちん。後をお願い」


 しかし結愛は素直にうなづくと、天送珠へと視線を向ける。綾音がだまし討ちをするだとか言う事は、全く考えていない様子だった。


 結愛らしい、とは思う。そして結愛が信じているのなら、俺も信じようと洋は思う。


 もしもそれで裏切られたとしても、結愛が思うようにいられたならそれでいい。洋は心のどこかで、そう考えていたから。


「洋さん。初めにいっておきます。封印は力をものすごく使います。いま、洋さんが残している力の殆ど……もしかしたらそれ以上に使うかもしれません。前に綾ちんがいったように、死んでしまう事だって有り得なくはないです」


 結愛は彼女にしてはトーンを落とした声で、静かに告げる。


 そして目の前に浮かぶ天送珠をじっと見つめて、もういちど洋へと視線を戻す。


「洋さんが無事でいられるかどうかは、全て私次第です。私がうまくやれれば、例え失敗したとしても、大事にはなりません。続きを綾ちんたちに任せれば済む事です。でも私が下手をすれば、洋さん。封印には成功しても、洋さんの力を使い果たしてしまうかもしれません。そしたら、洋さん、死んでしまうかもしれないです」


 結愛の瞳にじわ、と涙がにじむ。洋が倒れるところを想像したのだろうか。ただ結愛はその涙は必死に押さえ込もうとしていた。

 この涙をみていると、少しでも結愛の事を疑っていた自分がどんなにばかばかしい事を考えていたのか実感させられた。


「それでも、私を信じてくれますか? 私に任せてくれますか?」


 結愛はまっすぐに洋を見入る。訴えるような瞳に、洋は小さく照れた笑みを浮かべた。

 ぽん、と結愛の頭に手を乗せる。そして優しく微笑んでいた。


「当たり前だろ。ここまできたんだ。やめろって言われてもやるさ」


「はいっ」


 洋の言葉に、結愛は満面の笑みでうなづく。そしてくるりと振り返って、天送珠をじっとにらみつける。


天式てんしきを使います。いきますっ。やりますっ。がんばりますっ」


 結愛はさっと縦と横に印を切る。その瞬間天送珠てんそうじゅの光がわずかに強まったような気がする。


天式四神てんしきししんしんかん。四方の聖獣。いでてとどまれ、滅びよ、星宿せいしゅく


 結愛の声がたからかに響いていく。


 だがその瞬間、天送珠の光が一気に輝きを増しだしていた。


「世界に還れ。あるべきものよ。八卦はっヶの長よ、天の欠片よ。我は汝を使役させす――」


 あの時のように、一気に輝きが増していた。結愛の姿すらも、まばゆいばかりで何もみえない。


 しかし前に冴人さいとが唱えた呪文であれば、最後に強く叫んだはずだ。なのにその声がいつまでたっても聞こえてこない。


 まばゆい光だけが、大きく放ち続けていた。


 そして、一瞬とも永遠ともつかない時間が流れた後。綾音の声が響いていた。


「結愛っ、どうしたの。結愛っ、呪文を唱えなさい。門はもう開くのよっ」


 しかし結愛の返事はない。


 ただ光だけが、強く滲み続けているだけだ。


 洋も辺りを見渡してみるが、しかしこの光では何も見えない。あの時と全く同じように。


「結愛っ。結愛っ、どうしたんだ! 返事をしろ。結愛っ」


 洋の叫び声。だがその声はむなしく響くだけ。結愛の返事は全く聞こえてこない。


 光はさらに強まり、いまにも何かが現れそうな、そんな雰囲気に包まれていく。


「っ。仕方ないわ。冴人っ、私達が封印するわよ」


 綾音の引きつった声が伝わる。もう時間に余裕がないのだろう。


「わかりました。天式を使います。天式四神」


 冴人の強い呪が聞こえていた。

 その瞬間、ふと心の中に何かが伝わってくる。それは初めはぼんやりと滲んでいたが、しかし次第に一つずつ象っていく。


『洋さん……洋さん……。ごめんなさい』


 それは結愛の声だった。


 響いてくる声は、洋が倒れていた時と同じように心の奥底から伝わっていた。


 何がごめんなさいなんだ。どうして最後まで呪文を唱えなかったんだ。


 洋の心の中に浮かんできた疑問。


 それでも、洋は強く思う。


『謝る事なんて、何一つない。俺は、お前を』


 思いが伝わるのかどうか。そんな事は分からない。


 ただ。声を伝うように、強く強く願うだけだ。


『信じてるから』


 洋の願いは、まばゆいばかりの光に包まれて。


 そして光と共に消えた。


「封印は……無事、終わったわ」


 綾音の言葉は、どこか苦々しく響く。


 冴人はかなりの霊力を失ったらしく、疲れが顔に滲んでいた。


 だけど、結愛の姿だけがどこにもない。


「まさか。あの子、狭間はざまに取り込まれたの」


 綾音は辺りを見回してみるが、しかしもうどこにも映像は見えない。


 天送珠を封印しようとして意識を集中させすぎた為に、狭間に対する注意が散漫になったということもありえない事じゃない。


 結愛は再び狭間に取り込まれてしまったのだろうか。


「結愛っ、いるなら返事しなさい。結愛」


 綾音が大きな声で呼ぶ。


 だけどその声に答えるものは、何一つなくて。ただがらんと広がった洞穴の中に、静かに何度も何度も響き渡るだけだった。


 洋は、ゆっくりと天を仰いだ。

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