ペンギンの足跡
染井綾
#001 水面の景色
日頃の疲れを癒やすべく、週末にふと旅に出た。少し離れた、行き易くも周りに何もない土地。
出かけ始めは何だっただろうか。心の迷いか、日常の疲労か、現実からの逃避か。忙しくもない、責任もない仕事に意味を感じなくなり、逃げ出したくなったのかもしれない。自分の存在意義とか、感情の行き場とか、周囲との比較とか、無意識のうちに疲れるようなことばかり始めている。
疲れたときほど、日本の文化は偉大に感じ、人の優しさが心に積もった雪をやさしく溶かしくれる。旅館とはとても人の温もりと気遣いを感じ、日常の蟠りを忘れさせてくれた。
空腹を満たし、温泉に入ることにした。貸し切りも考えたが、知り合いに会うわけでもないので、大浴場で済ませることにした。大浴場といっても、何個か温泉の種類があり、楽しそうだと思ったのも理由のひとつだ。
中に入ってみると、驚いたことに誰もいなかった。こんな大きいところを独り占めできるのか、と贅沢な気分だった。ひと通り温泉に浸かり、やっぱり露天が一番。と最後に露天風呂を堪能することにした。
貸し切りの露天風呂は優越感がありながら、少し寂しさを覚えた。近くを流れる水の音に耳を澄ませ、温泉の温かさに対してとても涼しい空気を肌に感じ、天井に映る水面から反射した光が描く模様をただただ眺めていた。
さっきまで、何か考えていた気がした。気がしていたけれど、今は何も考えられなくなった。感覚を研ぎ澄ませて全身で大自然を感じることで精一杯だった。ただ、天井の光を見つめて、何も考えない。こんな経験は、悔しくもここに来なければできなかった。何も考えられないほどの幸福感はこうも襲ってくるのかと。微かな関心すら覚えた。
枯れかけていた感情や心に、優しく栄養と水分を与えてくれる旅館に出会えた奇跡にただひたすらに打ちひしがれることしかできない。
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