夜になったら

あるくくるま

夜になったら

いつもは、人がぎゅうぎゅうに押し詰められた息苦しいだけのこの団地も、夕焼けのこの時間だけは悪くない。

面倒、苦しい、つらい、悲しい。

階段の踊り場から見える橙色の揺らめきは

そんな気持ちをどろどろと溶かしてくれる。


――カラス、なぜ鳴くの?カラスの勝手でしょ

いまいち曲名が浮かんでこないが、耳になじんだ帰宅を促すチャイム。

19歳の僕に対して、このチャイムは特に強制力を持たないが、一日の終わり

を確かにもたらすものであった。


18歳で養護施設を離れた僕のために用意された新天地。

「あなたは、人を信頼することから逃げています」

ある日、施設長から頂いた有り難いお言葉。

そう言われるまでは、僕は微塵も気が付いていなかった。

水を飲んだら喉が潤う、火を触れば火傷をする。

それと同じように、人は泣くとうるさい、殴ると怒る、など。

そういうものだと、「信頼」して生活しているつもりだった。

そのことを素直に伝えたその日から、

今まで育ててくれた大人たちは僕から上手に将来の不安と期待を削いだ。

両親の顔はうっすらと覚えているが、それだけ。

愛も記憶も何もない。

生きている理由も、死ぬ理由もない。

自分には何もなかった。

橙色が紫色に、そして黒になっていく。

今日も階段の踊り場で、このまま夜を待つだけだった。


「――こんにちは、お兄さん」

この時間帯は、「こんにちは」「こんばんは」どちらを選択しても、どうしても違和感がある。

ただ、今回はそもそも、声を掛けられたことそのものに強烈な違和感があるため、

そんなことは気にしていられなかった。

「ねえ、もし暇だったら私の絵のモデルになってくれない?」

暇なのは確かだが、見ず知らずの得体の知れない女の注文を聞いてやる義理はない。

「まあまあ、そこで突っ立ってくれるだけでいいからさ、今まで通り」

そう言うと、僕の了解を確認する前に階段に座り込み、スケッチブックを広げた。

こうして僕は、一日の一番お気に入りの時間に横柄な絵描きに捕まってしまった。


「いっつもここでこうしているみたいだけど、そんなに居心地が良い?」

いつも、一人きりになれた気がしていたが、この絵描きには気が付かれていたようだ。

「そりゃあ、まあお向かいに住んでるしね、気が付くよ」

そうだったのか。

一棟、三階建て、ワンフロアに二部屋ずつあるタイプの団地。

この絵描きが、通行の邪魔を気にせず階段に座り込んでいるのは、三階に用事が

ある人間は僕とこの絵描きしかいないということを知っているからだろう。

絵描きは、鉛筆でささっと何かを書くと、すぐに色鉛筆に持ち替えた。

「まあ、ただ突っ立ってても退屈だろうからさ、いくつか質問をしてもいいかな?」

夕方が終わって、暗くなってしまえばこの時間は終わるのだろうか。


「残念だけど、夕方は終わらないし、夜は来ないよ。私の絵が完成するまではね」

夕焼けの光が、彼女のえくぼに不気味に吸い込まれているように見えた。

この戯言を信じるにしろ、信じないにしろ、この時間を終わらせるには彼女の

言うことを聞いていたほうが良いのだろう。


「ねえ、一つ目の質問。あなたが悪かったってまだ思ってる?」

僕が悪かった?何がだ。それに「まだ」ってどういう意味だ。

しかし、この問いの答えを持たないはずの僕の体を、悲しみが這う。

「いいよ、別に何も答えられなくても。私は質問をするだけで満足だから」

あなたは何も悪くないんだから、と付け加える絵描き。

苦しい。

さっき、夕日でどろどろにしたはずの感情が実態を取り戻していく。

「二つ目ね。まだ夜が怖い?」

うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。こわい。うるさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

「つらかったね、ごめんね。でも大丈夫だよ。あなたが思うよりずっと夜は優しいのよ。

だから怖がらないでね」

苦しい。くるしい。やめて。ごめんなさい。ごめんなさい。

「大丈夫。もう少しで絵が完成するからね。そうしたら、夜になるからね」

いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。


「うん、これで良し、と。はい、どうぞ、お兄さん」


絵描きさんが差し出してくれた絵は、星空の下で笑顔な僕だった。

これだったらここで絵のモデルをする必要がないじゃないか。

とってもおかしくて、僕はたくさん笑って、そしてたくさん泣いた。

その後、たくさん嫌なことを思い出して、それを絵描きさんに

たくさん聞いてもらった。

話を聞いている間、絵描きさんは優しく手を握っていたくれた。


――もうすぐ夜が来る。


「夕方はね、あなたと一緒にいたいから優しいフリをしていただけなの。

でも、あなたの居場所はここじゃないの。だってあなたは何も悪くないんだもの」

僕は静かに頷いた。その様子を見て、彼女は心底嬉しそうにした。


「じゃあ、これが最後の質問ね」

彼女は静かに僕の手を取った。


「――あなたは……」


僕は、僕を許すことにした。



「大家さん、おはようございます!」

「あら、今日は一段と元気ね、絵描きさん。おはよう」

「大家さん!私のお向かい、昨日空き家になりましたよ」

「ん?あなたのお向かいは三か月前から空き家じゃない」

「そうでした!ごめんなさい。それじゃあ行ってきまーす」



おわり


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