~第一章 鬼になれそうな子羊ちゃん~

『ミーンミンミン、ジー、ジー』

 台風明けの七月の真夏日。彼方此方で蝉が鳴き声を奏でている。

「あぢぢぢぢ……」

 太陽がギラギラと、眩しい光をアスファルトに照りつけている晴天の下。

 白い道着に白袴をはいた杏(あんず)はコンビニを出た。袋の中には、練乳味のアイスが二つ入っている。

「まったく、桜(さくら)のやつ、姉使い荒いんだからぁ。ジャンケン負けたからってアイス買いに行けだなんて。真夏の太陽って、お肌に悪いのよ、もう」

 自分からアイスジャンケンしようと言い出したのに、彼女は妹の桜の所為にしてぶつくさ文句を言いながら歩く。

 この自由奔放な彼女は春山 杏。こう見えても、地区最強の中学剣士だ。

 アスファルトの照り返す中、街路樹の下を道場へ向かった。その時だった。

「稔(みのる)、神妙にいたせ!」

「成敗じゃ、成敗じゃ!」

 道中の脇手にある公園から、時代劇で出てきそうな言葉が聞こえてきた。

「何、何? 時代劇ごっこ?」

 杏は時代劇ごっこが大好きだ。

 あわよくば自分も混ざろうと、心踊らせながら公園へ寄り道した。しかし、何やら不穏な空気。

「ありゃあ。大人の世界じゃ、それはリンチっていうのよ」

 小学三年生くらいだろうか。三人の少年が、フェンスの際に追い詰めた一人の少年を寄ってたかって棒っきれで叩いている。

「ったく、あの子も男なら、やり返しゃいいのに」

 杏は、呆れていじめられっ子の方に目をやった。

 白い肌をした、少女のようにあどけない少年が、叩かれる度に苦痛で顔を歪めている。

(か弱い子羊ちゃん……。そりゃあ、あんなんじゃいじめられるわ)

 杏は、溜息を吐いた。

 しかし、ここで何やら違和感を覚えた。

(どこだろう? 何がおかしいんだろう?)

 杏は、子羊ちゃんをよく見た。

(そうか、目線だ。棒っきれで叩かれて苦痛な顔をしながらも、その目線は……。あいつ……)

 杏は、俄かにいじめられっ子に興味を持った。


「どうだ、稔。参ったか!」

「成敗完了じゃ!」

 いじめっ子達は好き放題言って去って行く。いじめられっ子の少年はトボトボと公園のブランコに座った。


「よっわむっしくーん!」

 杏は袋入りアイスでコツンと少年の頭を叩いた。

「お姉さん……誰?」

 振り向いた少年は一瞬頬を赤らめたが、すぐに眉を顰め怪訝な顔をした。

「私? 私はね……悪い狼達にいじめられて落ち込んでいる、か弱い子羊ちゃんを慰めてあげる、正義のお姉さまなのだ!」

 杏のいつものテンション。

 しかし、免疫のない少年はいよいよ怪訝な顔をしたので、杏は慌てて言った。

「冗談よ、冗談。アイス食べな。美味しいよ」

 杏は少年の隣のブランコに座った。


 ブランコに座りながら、『山口 稔』という少年はアイスをジャリジャリと食べている。

「ねぇ、あんた。何であんなに叩かれてたのにやり返さなかったの?」

「しょうがないよ。あいつら、クラスの一軍なんだから」

(一軍……? つまるところ、ガキ大将ってやつか)

「そんなの、関係ないでしょ? 痛くなかったの?」

「別に」

 稔は、不機嫌そうに目を伏せる。

「ふーん」

 杏は、切れ長の目を細め悪戯な顔になった。

「でも、あんた。あいつらの棒っきれ、躱そうと思えば全部躱せたでしょ」

「えっ?」

「だって、あんたの目線。一度も瞑らずにあいつらの棒っきれを全部追っていた。いいえ、全部見切ってた」

 急に真剣な顔で真っ直ぐ見つめると、稔は目を逸らした。

「別に、そんな……」

「どうして、躱さなかったの?」

「だって、しょうがないよ。あいつら、一軍だから」

「しょうがない、か」

 杏は少し上を向いた。

「でもあんた、あいつらを『一軍だから』とは言うけど、『強いから』とは言わないわよね」

 ニーっと笑って向き直ると、稔は下を向いた。どうやら、触れて欲しくなさそうだ。

「ま、いっか」

 杏は目線を宙に浮かした。

 いつもの公園の風景……黄色のジャングルジム、青々とした街路樹に、セミの鳴き声が響き渡る。

 しかし、何を思いついたのか、またすぐに稔に目を移した。

「ところであんたさぁ、ホントに強い奴に会ったことある?」

「ホントに強い奴?」

「そう」

 杏は、意味ありげな笑みを浮かべた。

「何なら今日、会わせてあげる」

 そう言うと、杏はブランコを軽やかに降りた。

 台風明けの公園は、そこら中に長い棒がゴロゴロ転がっている。その中で、一米くらいの棒っきれを二つ拾った。

「はい」

「はいって?」

「勝負よ、勝負。その棒っきれで思い切り私を殴りなさい」

 杏は、フッと笑った。

「殴れるもんならね」


 呆気にとられる稔に、杏は続けた。

「あんたが勝ったら、そうね……アイス、もう一つ上げる。その代わり。私が勝ったら、私の言うことを一つ、何でも聞くこと」

「えっ、そんな……僕、お姉さんを殴れな……」

「ほーれ、ほーれ、どっからでもかかってきなさーい」

 ブランコを降りて狼狽える稔を前に、棒をブラブラさせてふざけた。

(でも……)

 杏は突如、切れ長の美しい瞳で稔をキッと睨む。

(悪ふざけは、ここまで)

 両手で棒っきれを持ち中段(先を相手の喉元に定める構え)に構えた。


 突然の空気の変化を感じた稔は戸惑う。

「ドゥアア……」

 公園の空気が震え始めた。

 さっきまで聞こえていた蝉の声が全て鳴き止む。

「アアァ、ヤアアアーッ!」

 杏は、稔を正面に凄まじい気迫を発した。周囲の空気がビリビリと振動し、その全てが稔を刺す!

 杏の気迫。道場の有段者達でさえ、気圧されて動けなくなるほどの鬼神の如き気迫。

 そこらの小学生ならば、ちびって泣き出してしまうだろう。

 杏自身も、どうして自分が一人のいじめられっ子相手にこんなことをしているのか分からなかった。ただ……この稔といういじめられっ子の中に、何か……自分の引き出したい『何か』を感じ取っていたのだった。

(さぁ、どう? あんた、今までこんな気迫、ぶつけられたことないでしょう? どうする? 逃げ出す?)

 すると、稔は……クワっと見開いた目で棒っきれを振り上げ、向かって来たのだ。

 形こそ出鱈目、全くもって剣の体を成すものではないが、真っ直ぐ、杏の方へ……。

(こいつ……馬鹿? それとも……)

 杏は、瞬時に体を右に捌いて棒っきれを紙一重で避けた。全力の棒っきれが空ぶった稔は、前のめりになる。杏は捌くと同時に振り上げた棒を電光石火の如く稔の脳天へ振り下ろす! 稔は、グッと目を瞑る!

『コツン』

 杏は、棒を稔の頭へ軽く当てた。

「目を瞑った時点で、あんたの負ーけ」

 元の悪戯な笑みを浮かべた。

 しかし、稔は青ざめた顔でガクガクと震えている。


「ねぇ、一つ聞いていい?」

 棒っきれを放り捨てた杏は、まだ動けないでいる稔に向き直った。

「あんた、あの悪ガキ達には一切手を上げなかったわよね。なのに、どうして私にはあんなに全力で向かってきたの?」

「そ、それは……」

 稔は震えながらも声を振り絞った。

「お姉さんが……強いから」

「強いから?」

「だって、お姉さん、メチャクチャ強いんでしょう? 僕がどんなに全力で向かって行っても、擦りもしないと思ったから」

 杏は、切れ長の目を丸くした。

 しかし、

「プッ」

 思わず、吹き出した。

「変なヤツ。全力で向かって来ても擦りもしない相手だったから、全力で向かって来たの?」

「そうだよね、おかしいよね」

 稔も、初めて純粋な……少女のような笑顔を浮かべた。


「あ、いけない! つい、時間食っちゃった」

 杏は慌ててブランコの椅子へ向かった。しかし、アイスを取って思い出したように言う。

「そうだ、あんた!」

 公園の出口へ向かう彼女は、顔だけ稔に向けた。

「土曜日の十時。あの角を曲がった突き当たりの『剣信館』ってトコ来なさい」

「えっ?」

「だって、あんた、『負けた』でしょ」

 ニッと笑って公園を後にした。


「ありゃあ、完全に液体化してる。こりゃあ、桜に怒られるわ」

 杏はアイスの袋を見てベロを出した。

「でも……」

 道場への道を急ぎながら二の腕を捲った。

「全力で向かって行っても擦りもしないと思ったから、かぁ」

 二の腕には……躱し切ったと思っていたのに、僅かに稔の棒が擦ったすり傷が付いていた。それを見て、小悪魔な笑みを浮かべる。

「『鬼になれそうな子羊ちゃん』、みーっけ」

 笑顔の杏は、浮き足立って道場へ帰っていた。

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