34 キスは対価になりますか?
「すぅー、すぅー……」
イシュタッドの隣で眠るルルーティカの寝息に耳をそばだてていたノアは、表が明るくなり始めたのに気づいて洞窟の外に出た。
岩場のかげで人間の姿をとり、大きな流木に腰かける。崖から落ちる際に多くの魔力を使ってしまったので、形を保つのがやっとだ。
手袋を外して袖をまくると、両腕がひじの辺りまで透けている。
「また、代償なく、尽くしてしまった……」
研究所跡で金貨が入った巾着を渡されたとき、一枚でも手元に残しておけばよかった。ルルが気まぐれに渡した物でも、ノアにとっては大きな意味がある。
わけあって人に力を貸す場合は、必ず『それ相応の代償』を払ってもらう。
物質を介することで、情が沸くのを防ぐのだ。もらった分の働きをしたら、すぐに離れて相手を忘れる。そうでないと、骨の髄まで利用されて死ぬことになるからだ。
対価を得ずに人間に肩入れした場合は、生まれ持った憎悪によって魔力を消耗していく。
ノアは、代償をもらわない状態で、長くルルに尽くした。そのせいで魔力はすり減り、空も飛べない、人を攻撃もできない、疲弊した猛獣になってしまった。
「こうなっては、いつまでお側にいられるか……」
「どうして、黙っていたの?」
声の方を振りかえると、ルルが立っていた。ノアは驚いて立ち上がる。
「ルルーティカ様、これは」
急いで袖を下ろそうとしたが、近づいてきたルルに掴まれる方が早かった。彼女は、透ける手を青ざめた顔で見つめている。
「いつから?」
「……晩餐会の夜からです。二角獣は、人間に与する場合は、代償をもらわなければならないのですが、個人的な理由でおこたりました」
ノアが二角獣であることは、研究所の秘密をにぎりこんだイシュタッドとヴォーヴナルグ、当時のわずかな関係者しか知らない。
ルルにも永遠に秘密にしておくつもりだった。
研究所での攻撃的なノアを見ているルルは、ノアの正体を知ったら怯えて遠ざけようとするかもしれない。そんなことは耐えられなかった。
ノアにとっては、ルルはもはや自分の生活の一部だ。
屋敷に彼女がいてくれないと、体の真ん中がシクシクと痛む。少しでもそばに居られないと思いは強く激しくなって、魔力をひどく消耗した。
ルルは「言ってくれたら金貨を渡したのに」と悔やんだ。
「どうしよう、渡せるものを持っていないわ。金貨を入れていた袋は、逃げるときに放り投げてしまったもの」
「金貨は、もういりません。私がルルーティカ様からもらいたいのは、金貨ではないのです」
「それはなに? わたしは、なにを渡したらいいの?」
無垢な表情で見つめられて、ノアは困ってしまった。
「…………もらえません。もらったら、貴方が無くなってしまう」
見つめ合う二人の間を、強い海風が間を通りすぎた。ルルの銀色の髪を吹き散らした風は、崖に当たって上へと抜けていく。
薄い青の絵の具を刷いたような一面の空を、真白い一角獣が飛んでいった。
どんどんと高度を上げて、砂浜に落とした砂粒のように見えなくなる。
朝の風に乗って、天空に帰るのだろう。
「人の姿が保てなくなったら、ノアも天空に帰ってしまうの?」
「もう帰れません。ここまで消耗してしまっては、消えるのみかと」
「そんなの、絶対に嫌!」
ルルは、ノアの首に腕を回してキスをした。
噛みつくように触れてきたルルに、ノアは目を見開いて驚く。
「――ノアが消えてしまうなんて、自分が死んでしまうよりも嫌。わたしが無くなって、ノアが生きられるなら、そうして。わたしの全部をあなたにあげる」
透けた手を取り上げたルルは、自分の胸の中心に当てた。
好きな人との初めてのキスに飛び跳ねる心臓も、うれしさではち切れそうな心も、震える体も、全て差し出すつもりで微笑む。
「大好きよ、ノア。受け取って」
「……ルルーティカ様……」
ノアの瞳が潤むと同時に、彼の体が光り出した。
輝きは、海の向こうに出た朝日に負けないくらいに強まっていき、蝋燭の炎を吹いたときのように唐突に消えた。
「え……?」
ルルに触れるノアの腕は、以前のように実体に戻っていた。
ノアは、きょとんとした顔で空に手をかざす。
「魔力が戻った……」
「これでノアは消えないわ! でも、おかしいわね」
ひたひたと頬を触ったり体を見下ろりたりするが、ルルは前となんら変わらない。どこかがえぐり取られているわけでもないし、心臓もちゃんと動いている。
「わたしは無くなっていないわ。ノア、ちゃんと受け取ってくれた?」
「はい。たしかにいただきました」
ノアは、ルルをぎゅうと抱き締めて、傷跡がのこる額に頬を寄せた。
「ルルーティカ様を」
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