第365話 老兵、立ちはだかる(その6)
「ふむ」
いかにもやるせなさげな小男のつぶやきに農耕馬にまたがった老人はやや興味を引かれたようで、
「軍を辞めたくはなかったのか?」
と振り向かずに訊ねた。「とんでもねえ」と小柄な老爺は首を左右に振って、
「落馬した怪我が治るのが長引いたおかげで騎士団から娑婆に舞い戻った日には嬉しくて小躍りしてしまったもんでさあ。ようやっと命の心配をせずに腹一杯飯を食ってぐっすり眠ることができる、ってね」
へへへ、と赤らんだ鼻の頭を指でこすってから、
「生きて帰れただけでも十分ありがたいのに、かかあと共に寝起きして、子供が独り立ちするのを見届けて、孫をこの腕に抱くこともできた。文句を言ったら罰が当たるってもんでしょう」
夢見るように目を伏せ、しばし黙りこくってから「けどねえ」と小男は口を開き、
「我ながら実に因果なもんだ、と呆れちまうんだが、人間の欲というのは底がないもんなんですねえ、大将。これ以上ないほど幸せなはずなのに、どういうわけだか『まだ足りねえ』って思っちまうんだ。おれの人生、本当にこれでよかったのか? って毎晩眠れずに悩んじまうんですよ」
それはおめえがじじいになったからだろ、とはやしたてる外野に「うるせえ!」と怒鳴り散らした背の低い元騎士は、
「でも、本当はわかっていたのさ。どうしてそんな風に思っちまうのか、その答えはおれの中でずっと眠っていた、ってことをな」
眉間の皺を一段と深くして、
「おれは戦場が、あの場所が懐かしくて仕方ねえんですよ、大将。もちろん、てめえでも馬鹿なことをほざいてる、っていうのはわかっているんだ。実際戦っていたときはきつくて臭くて痛いばかりですぐにでも逃げ出したかったのに、騎士を辞めてからずっと心の何処かであそこへ戻ることを願っていたなんて、ったく、何考えてんだか」
半身を手の届かない場所に置き忘れたかのような痛みが年老いた男の口ぶりににじむ。
「戦って死にたい。騎士として死にたい。それがおれの、いやおれらの最後の願いなんだ。あんたと一緒なら、その夢がかなえられるはずなんだ、大将。なあ、頼むからそばにいさせてくれよ。一緒に戦わせてくれよ」
「大将!」「大将!」と懇願する野太い声が黒い梢を揺らし、飛び起きた小鳥の羽ばたきが道の左右から聞こえた気がした。
(馬鹿なやつらよ)
頭からフードをかぶった老人は、かつての部下たちの訴えを背中で受け止めながら、ただひとつ残った左目で夜空を見上げ、遠い宇宙の果てを睨みながらおのれの心の動きを探ろうとする。いい年齢をして駄々っ子のようだ、と男たちを一笑に付すことができなかったのは、彼らの心理が老人には痛いほどわかったからだ。平和な世の中にあって戦火の記憶を忘れられない、荒ぶる魂と沸き立つ血を鎮められずにいる時代遅れの失格者、という点では自らも何も変わりはしないのだ。そもそも老騎士が今夜国境付近にて帝国の騎士団を迎え撃つと誰にも告げてはいないにも関わらず、数十人もの男が駆けつけてきたのはかつての
「大将、なんとか言ってくれよ」
小男の叫びに、
「好きにしろ」
老将は短く答える。意味がわからないのか、聞き取れなかったのか、固まったままの男たちを首を巡らせてここでようやく一瞥した馬上の偉丈夫は、
「好きにしろ、と言ったのだ。やめろ、と言ったところでどうせおまえたちは聞かぬ。そんなに戦いたいなら勝手にするがいい。ただし、危なくなっても助けはせんからそのつもりで」
おれ、と言い終わる前に、
「やったーっ!」
「死ねる。大将と一緒に死ねる」
「今日は死ぬのにもってこいの日だぜ」
と歓声が暗い森にとどろく。老年の男たちが少年のように喜ぶ他愛のない光景を眺めて、
「馬鹿につける薬はない、とはまさにこのことよ」
と意図せざる微苦笑を浮かべながら前に向き直った白髪白髯の巨漢は、
「マズカ帝国鉄鯱騎士団の諸君。誠に申し訳ないが、わしとこやつらの死出の旅にご同行願いたい」
老兵たちを代表して現役の戦士たちに挑戦状を叩きつけた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます