第272話 謀略の発動(その5)

深夜の王宮に居合わせた誰もが身を刻まれる思いで一秒一秒が経過するのを感じている中で、

「そういうことでしたら、やっぱりぼくが死んだ方がいいです」

アリエル・フィッツシモンズは尚も上官の翻意を促そうとしていた。お前もしつこい男だな、と呆れるように見たシーザーを睨みつけて、

「ぼくがあなたの分まで矢を受けますから、それからレオンハルトさんが一人で謀反人たちを鎮圧すべきです。あなたには騎士団のトップとして最後まで生き抜く義務があり、ぼくには副長として団長を守り抜く義務があるはずです」

自らも生命の危機にありながら健気に振舞う少年を可愛く思って、

(もしもここから生きて帰れたらキスでもしてやるか)

とシーザーはふざけ半分本気半分で思ってから、

「アル、おまえも案外鈍いな。そんなにこのアステラを滅ぼしたいのか?」

シャツを後ろ前に着ている、と指摘するかのようにのんびりした口調で剣呑なことを言われたので少年騎士は息を飲み込んで絶句する。王国が滅ぶ、というのはどういうことなのか。

「いいか? 『黒鷲』のおっさんと宰相のおっさんをぶっ殺せばこの場は収まるだろうさ。だがよ、それで帝国が『平和条約』を諦めはしねえ、って話だ。あの手この手でどうにか約束を取り付けようとしてくるに決まっている」

おれには難しい話はわからねえが、と青年は軽く笑って、

「王立騎士団をバラバラにしようとする『条約』がまともな代物じゃないってことくらいはわかる。軍がなくなれば国だって今のままってわけにはいかなくなる。マズカはてめえの意志でもってこのアステラをどうにかしちまおうとしている。つまり、わが国に対し戦争を仕掛けようと、いや、もうとっくに始まっちまってる、って考えた方がいいんだろうな」

他の人間の口から出れば妄言として片付けられても、軍隊のリーダーが語った以上無視できない内容に、政治家も高級官僚もまともに向き合わざるを得なかった。今まさに他国の兵士たちが王宮に乱入しているように、この王国に嵐が迫りつつあるのかもしれない、と暴力から遠い場所で暮らす上級国民たちは恐怖のあまりその身を震わせるが、シーザー・レオンハルトの説明はまだ続く。

「ただ、戦争といっても、今おっぱじまっているのは武器を使わない戦争だ。頭と言葉を用いた世界の裏側で行われる見えない戦争、って言った方がいいのかもしれねえ」

「アステラの若獅子」の笑顔に虚無感がいくらか滲む。

「そういう戦いは、おれの出る幕じゃない。おれは腕っぷしにはちょっとばかり自信はあっても頭はからっぽで口喧嘩はさっぱりな男だからな。こういう戦いには向いていない。今一番必要なのは、二手三手先まで先の読めるおつむのいい秀才くんなのさ。そういうやつがいてくれたらずる賢い帝国にだって立ち向かっていけるはずだ」

そこまで言うと、アルの顔をしっかりと見つめて、

「だから、お前に死んでもらっちゃ困るんだよ。アリエル・フィッツシモンズ」

おれの代わりにやつらをぶっとばしてくれ、とさばさばとした口調で言い渡した。

(嫌だ。そんなのは嫌だ)

後を託されたアルはこらきれずに涙をこぼしていた。団長の言いたいことはわかる。シーザーのような直情的な男は陰湿な謀略戦には不向きで、自分の方が適任だというのも納得できないではない。しかしそれでも、

(レオンハルトさんに死んでほしくない)

こんな立派な人を死なせたくない。しかも自分の身代わりになるなんて絶対に嫌だ、という拒否反応がアルの頭の中を支配していた。いかなる時も騎士らしく貴族らしく振る舞うことを絶えず心がけている少年だが、あともう少しで奈落に足を踏み外すギリギリの場面にあって彼を突き動かしていたのは、騎士道精神でもノーブレス・オブリージュでもなく、尊敬する先輩を守りたいという友情、ただそれだけだった。アリエル・フィッツシモンズの魂は誰よりも熱く燃えているのかもしれなかった。

(あきれたやつだ。こんなときにまで逆らいやがる)

言うことを素直に聞いてくれない生意気な後輩を困ったように見つめながら、シーザーもまたアルを大事に思い、そしてこの少年になら安心して任せられる、と死を従容として受け入れる心境になりつつあった。

「やめよ。皆やめるのだ」

惨劇が近づきつつある、もはや引き返せない状況を覆さんと、国王スコットの絞り出すような声が謁見の間に響く。

「ファンタンゴもレオンハルトもやめてくれ。そなたたちが争うことなどあってはならないのだ」

懇願するなど王にあるまじき態度であったが、宰相も騎士団長も彼にとってはかけがえのない家臣だった。失わずに済むのなら恥も外聞もなく何だってしてみせるつもりだった。主君に声をかけられたシーザーは軽く噴き出して、

「おれだってやめにしたいところだが、背中を矢で狙われてるのに、いちぬけた、って言えるわけもないんでね」

確かに理屈ではあったのでそれ以上強要できずに、若き王が玉座の直下に立つファンタンゴに目をやると、

「わたしは正しいことをしているのです。今更後へは引けません」

怜悧な政治家は王の顔を見ることなくギロチンの刃を落とすかのように拒絶する。退路を断った者だけが持つ言葉の重みに、まだ十分に経験を積んでいない王は反論できない。さらに、

「このソジ・トゥーインは帝国を代表して今夜この場所におります。アステラ国王陛下におかれましては、わが帝との信頼を裏切ることのないよう、心からお願いする次第です」

「マズカの黒鷲」が持つ小型の弓の弦がかすかに鳴る。つまり、大鷲騎士団団長も説得を受け入れるつもりはない、ということなのだろう。自分の言葉が誰にも届かないのにスコット王は絶望し、おのれの無力を痛感してがっくりと肩を落とした。

(誰でもいい。助けてくれ)

余は王にふさわしい人間ではない。国を窮地に陥れたうえに、家来を救えもしない。しかし、王は暗愚であってもアステラは素晴らしい国であり、優れた人材が多く存在する。そんな人たちにこれまで助けられてどうにかやってこられたのを誇りに思っていた。だから、今そこにある危機も誰かが解決してくれるのではないか。そんな一縷の望みを抱きたかったが、救世主が現れる気配はまるでなく、事態が刻一刻と破局へと進んでいくのを高貴な若者は感じ、そして絶望した。

「トゥーイン殿。そろそろ終わりにいたしましょう」

ジムニー・ファンタンゴが呼びかける。ソジ・トゥーインの矢が放たれればすぐに決着がつく。シーザー・レオンハルトに守られたアリエル・フィッツシモンズが自分を討つ、というのもわかっていた。しかし、ファンタンゴ個人の終わりは光に満ちた未来の始まりでもあった。条約が履行されれば彼の待ち望んだ世界が到来するのだ。それがかなうのなら、わたし一人の命など何ほどのものでもない、とこみあげる歓喜に宰相の色の薄い瞳は揺れ動く。

「では」

「マズカの黒鷲」が弓を引き絞り、

(ちきしょう。ここまでか)

シーザー・レオンハルトが覚悟を決め、

(もうだめだ)

アリエル・フィッツシモンズが諦めかけたまさにそのとき、

「あれ? みなさん、こんな夜中に大勢で集まるなんて、一体どうされたのです?」

開け放たれた入り口から、よく響くのんきな大声が聞こえた。

(え?)

国王スコットが思わず顔を上げたのは、その声が状況にまるでそぐわない明朗なものだったのに加えて、以前聞いたことのあるとても懐かしいものだったからだ。そして、彼の目に飛び込んできたのは、謁見の間に悠々と入ってくる久しく目にしていなかったかつての臣下の姿だった。

「いやあ、ここに来るのは騎士を辞めて以来になるのかな? 久しぶりだなあ」

シーザー・レオンハルトとアリエル・フィッツシモンズ、ジムニー・ファンタンゴ、ソジ・トゥーイン、その他大勢、そしてアステラ国王スコットが呆然と見つめる中、セイジア・タリウスがにこにこ笑って、金色のポニーテールを揺らしながら歩いてくる。かくして、王国の最大の危機に最強の女騎士は颯爽と登場し、長きにわたって続いてきたこの物語のクライマックスがいよいよ始まろうとしていた。

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