第196話 「魔術師」の回想(後編)
「おまえは怖かったのだ」
オージン・スバルは日常の会話と同じように切り出したが、ヴァル・オートモにとってそれは運命の審判が下される前置きのように聞こえていた。
「あの日、おまえが所属する部隊は危険な任務を担当していた。少数の味方で多数の敵を迎え撃つ、生きて帰れる確率は楽観的に見てもフィフティー・フィフティー、入団したての新人には厳しい状況だ。その点は団長としてすまなく思っているし、怯えたとしても無理はない」
そこで「蒼天の鷹」は目を光らせて、
「だが、おまえは本当は怖いのにそうではないふりをしようとした。仲間に愚痴をこぼして気を紛らわせてもよかったのに、それもしなかった。見栄っ張りのおまえのことだ、みんなに臆病者だと思われたくなかったのだろう」
スバルは音もなく笑いを浮かべ、
「そして、おまえは恐怖心に耐えかねて逃げ出した。ただし、敵から逃げたのではなく、敵に向かって逃げたのだ。それならば、人はおまえの無謀さに呆れはしても、腰抜けとは決して思わないだろうからな。まあ、そこまでしなくても『怖い』と素直に言えばいいのに、としかわたしには思えないが、それだけに興味深い心理ではある」
あんたみたいなお偉い人にはわかるわけがない、と言い返したかったが、上官の指摘によっておのれの錯覚に気づかされ、オートモは言葉を失っていた。あの日、ひとり隊を抜けだし、
「
と敵の陣地に潜り込んだ最中に覚えた全身の血が沸騰するかのような感覚を、戦いを前にした興奮だとばかり今の今まで思い込んでいたが、あのとき自分は怯えていて、その事実から必死で目を逸らそうとしていたのではなかったのか。
「まあ、きっかけはどうあれ、敵の大将を単独で討ち取ったのだから、おまえの得た名誉が栄えあるものであるのは変わりは無いし、わたしも貶めるつもりはない」
だが、とスバルは言葉を継いで、
「シュピーカの首を取って陣地に戻ってきたおまえを見たわたしの胸に疑念が生じたのも否定できない事実だ。あのときのおまえの顔は堂々たる勝者のものではなく、後ろめたい隠し事を抱えた罪人のものだったのだからな」
栄光の瞬間にスバルに不信が兆したと知ったオートモは愕然とするしかない。
「それから、戦場におけるおまえの行動を気をつけて見るようにした。一度だけなら何かの間違いかも知れないし、団長として部下を信じたい気持ちも当然あった」
デザートを食べ終えても、歴戦の勇士の顔から苦さが消えることはない。
「しかし、残念ながら第一印象が変わることはなかった。おまえは普段は優秀だが、ひとたび危うくなるとどうにも及び腰になってしまう、そんな場面を何度となく見せられたものだ。その結果、ヴァル・オートモの本性は『保身』だ、とわたしは評価せざるを得なかった」
相次ぐ酷評に我慢ならなくなった「双剣の魔術師」は、だん! とテーブルを殴りつけて立ち上がると、
「あなたはわたしが身分が低い生まれだと思って貶めようというのか!」
と、青みがかった髪を逆立てて反論するが、
「気を悪くしたなら悪かった。わたしの家も貧乏だったから、人の身分をとやかく言えはしない。それに、事の善し悪しを判断するつもりもない。正義だとか悪だとか、そういうことは象牙の塔にこもった学者が考えるべきで、一介の武辺にすぎないわたしの手に余ることだ」
平常心を失わない相手に、オートモは感情的になった自分が馬鹿げた存在に思われて、激怒の捌け口を見失う。
「わたしはただ単に、おまえが戦場において共に戦い得る同志なのか、と見極めようとしただけだ。今まさに奈落に落ちようというときに支え合うことのできる仲間なのか、と」
音もなく大きな溜息をついた「蒼天の鷹」は、
「自分しか大事でない者に命を預けることはできない。背中を任せることはできない。それがわたしの出した答えだ」
重く響く声音はその結論が決して覆らないという証でもあった。天馬騎士団における出世の道が絶たれ、がっくりうなだれるオートモの脳裏に去来したのはセイジア・タリウスの姿だった。あのおきゃんな娘は要請も無いのに苦戦する味方の応援に勝手に向かおうとするので、
「物好きなことだ。自分からわざわざ危険に飛び込もうとするとは」
と内心ひそかに嘲笑っていたのだが、まさにその違いが2人の明暗を分ける結果となったのだ。他人のために本気で動ける者とそうでない者、いずれが副長の地位にふさわしいか、考えるまでもないだろう。
(わたしが団長だったとしても、わたしをナンバーツーには選ばないだろう)
オートモの優秀な頭脳は理屈の上では敗北を受け入れていた。しかし、感情の面において上手く処理しきれていなかった。だから、
「団長、あなたはどうなんですか?」
上官に思わず突っかかってしまっていた。スバルに指摘された通り、オートモはエゴイストであったが、「蒼天の鷹」に尊敬の念を抱いていたのは間違いなく、仰ぎ見る相手に欠点を指摘されたのが余程に堪えていたせいで逆上してしまったのかも知れない。
「どういうことだ?」
明朝早くから職務を控えた騎士団長は、一足先に個室を出ようとしたところで立ち止まって訊ねた。オートモは蛇のようにねちっこい視線をスバルへと向け、
「あなただったら、自分以外の他の誰かのために命をかけられるというのですか?」
できるわけがない、という反感がこもった挑戦的な口調だったが、スバルは顔色を変えることなく天井を見上げ、はるか頭上の大空が見えたかのように目を細めてから、
「必要とあれば、な」
とだけつぶやいて、部屋を出て行った。
(嘘っぱちだ。あんただってわたしと同じ人間なんだ。自分が一番大事に決まっている)
オートモは上官の返答を信じようとはしなかった。信じたくなかった、とするのが正確だろうか。しかし、この夜からおよそ2年後、後に「
(わたしは昔のわたしではない)
そのように思っていた。騎士団を離れ国境警備隊に転職したことで前よりもずっと自由になれた気がしていた。しかし、それは立ち向かうべき問題から目を背けたために得られたかりそめの解放感でしかなかったことを、ジンバ村という辺境の小さな集落において、かつて苦手にしていた女騎士からいつかの「蒼天の鷹」と同じセリフを聞かされたときに、ヴァル・オートモは否応なく気づかされていた。
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