第172話 小さな騎士と最後の罠(その2)

物置の奥に潜り込んだ猫を救出しようと屈み込んで手を伸ばしていたマルコが、

「ぎゃっ!」

突然悲鳴を上げたかと思うと、飛び上がった拍子に棚に頭を強く打ち付けて、

「うわあっ!!」

その衝撃で乱雑に積んであった缶がいくつも悪童の頭に落ちてきた。まるでコントみたいだ、と数年前にモクジュの都の劇場まで出かけたときのことがジャロの頭の中で甦る。劇の内容は今よりも幼かった少年にも他愛なく思えるものだったが、それよりも客席の左右を父と姉に囲まれて一緒に観覧できた喜びの方が大きかった。二人とも「龍騎衆」の一員として戦場に出かけて家を空けることが多かったので、家族揃って外出した数少ない機会は少年にとってかけがえのない思い出になっていたが、甘美な追憶は心の窓辺に一旦取り置き、後でひとりきりになったときにまた思い返すことにして、

「おまえは一体何をやってるんだ?」

目の前でスラプスティックを実演した友達に突っ込みを入れる。すると、「るせえなあ」とぼやきながらマルコは右手をジャロに向かってかざした。手の甲に幾筋もの赤黒い傷ができているのが暗い室内でもわかる。猫にひっかかれたのだ。

「あの野郎、せっかく助けようとしているのに逆らいやがって」

ジンバ村一のいたずら小僧が憎まれ口を叩くと、それに反論するかのように、「ふううううう!」と部屋の隅から威嚇する声が聞こえた。姿は見えないが、幼女マオの大事な飼い猫が全身の毛を逆立てて怒りに燃えているのが鮮明に思い浮かぶ。やれやれ、とリュウケイビッチ家の御曹司は溜息をついて、

「ダメじゃないか、マルコ。おまえが乱暴に引きずり出そうとするからミケは嫌がったんだ。動物を大事に扱ってやらないから痛い思いをすることになる。猫でも犬でも馬でもみんな、紳士が淑女レディに接するのと同じように優しくしなくちゃいけないんだよ。わかるかい?」

うるせえ、何がレディだ、とお高くとまったお坊ちゃまにマルコは腹を立てたが、

「そんな偉そうなことを言うならおまえがやってみろよ」

ジャロに丸投げしてしまう。これ以上引っかかれて傷をこしらえるのはごめんだった。お安い御用だ、と悪友の無茶振りを請け負った栗色の髪の美少年は蹲りながら猫が潜んでいるであろう方向を見つめて、

「おいで。もう出てくるんだ。マオが心配してるぞ」

両手を広げながら優しい声でささやきかける。そこまでならまだ良かったが、

「あの恐ろしい鬼のような男はもういないから安心するといい」

などと言い出したので「誰が鬼だよ」と黒い短髪のガキ大将はふて腐れる。ジャロがしばらく話しかけても何の動きもなかったので、「ほら見ろ。やっぱりダメじゃねえか」と友人を全力で罵倒しようと顔の向きを変えかけたそのとき、ひょこひょこ、と表に出てきた猫が、そのままゆっくりと異国生まれの少年の方へと近づいてくるのが見えた。

(マジかよ)

呆気にとられるマルコをよそに、その名の通り三色の美しい毛並みを持つ猫は「にゃおん」と小さく鳴き声を上げると、自分からジャロの腕の中に飛び込んだ。

「いい子だ」

ころころした丸っこい身体を抱きしめると温もりが伝わってきて、まだ平和だった頃に屋敷で飼っていた犬たちと戯れたことを思い出した貴公子の胸は一杯になる。

「おまえ、どういう手を使ったんだ?」

動揺がさめやらない様子の悪童の問いかけに、

「特に何もしていない。普通に呼び掛けただけだ」

ジャロ・リュウケイビッチは平然と答える。

「じゃあよ、前からマオの家に来て、ミケと遊んでいたのか? それでなつかれていたとか」

「いいや。マオの家に来たことはないし、この猫とは今が初対面だ」

マジかよ、とマルコはもう一度唖然とする。おれなんか前から何度も遊んでいたのによ、とつい不平を漏らすと、

「ははは。つまり、ミケには人を見る目があるということだ。誰が信頼できて誰が信頼できないかがわかるとは、実に賢い猫だ」

うるせえなあ、と悪ガキは完全にへそを曲げてしまう。これでは貴族のお坊ちゃんに点数を稼がれて、彼に熱を上げている少女クロエがますます夢中になってしまうではないか、と思うと気が気では無かった。赤ん坊の頃からずっと一緒にいたおれよりもぽっと出の「よそもの」の方がいいなんてどういうことなんだ、と村はずれの洞窟に避難している娘に不満を覚えていると、

「ん?」

外から妙な気配を感じて顔を上げた。少し経ってから、また同じ感覚をおぼえたので、

「今、何か聞こえなかったか?」

と訊ねたが、

「え? 何が?」

懐におさめた猫に気を取られていたジャロは何も気づいていないようだった。鈍いやつだなあ、と呆れながらもう一度話しかけようとして、今度は大きな音がはっきりと聞こえて、2人の少年は空気の悪い狭い小屋の中で見つめ合う。避難場所から脱け出した自分たちを連れ戻しに誰かが追いかけてきたのだろうか、と思ってから、「おそらくそうではない」とどちらも考えていた。特に長きにわたる逃亡生活を送っていたジャロは楽観的な見方は往々にして外れるものだ、といくつかの経験から学んでいて、おそらく今回もそうなる、と予感していた。

(ここから出るぞ)

(ああ。でも、静かにして、声を出さないように)

マルコとジャロがアイコンタクトで意思を確認し合ったのと同時に、「みゃあ」と貴公子に抱かれた三毛猫が鳴いたので、びくっ! と2人して飛び上がりそうになるが、柔らかな毛に包まれた生き物は、ふわーあ、とあくびをすると満足げに目を閉じた。人騒がせな、と揃って苦笑いを浮かべてから、2人の少年は物置から忍び出て、極度に緊張しながらも家の裏から出て行こうとする。一刻も早く洞窟へ戻りたかったが、そのためにも無人の村で何が起こっているのか確認しなければならない、と考えつつも、物陰から表通りの様子をうかがっていると、

「おい、今の」

マルコが小声で呟くと、

「ああ。ぼくにも聞こえた」

ジャロが強張った面持ちで頷く。それほど近くはないが、村の中で何人もの叫びや金属音が確かに聞こえ、闇に包まれ視界のきかない状況でも多数の人影が動き回っているのが見えた。

(やべえ)

村一番の暴れん坊の少年は全身の血が引いていくのを感じた。この村に怖い人たちがやってこようとしている、と大人たちが話しているのは知っていたが、どうにも現実味が感じられず絵空事のように思っていたのだが、その恐るべき事態の真っ只中に自分が放り込まれ、危険がすぐそばにまで迫っているのをいつも元気な彼でも自覚せざるを得ず、足の震えが止まらなくなり、それは全身へと伝播していく。

(まずいことになった)

ジャロ・リュウケイビッチは計算が狂ったのを悟っていた。彼の考えでは村に敵が入り込む前に猫を見つけて引き上げられるはずだったのだ。自分たちがミケを探すのに手間取ったのか、あるいは向こうの侵攻が早かったのかはわからないが、今現在ジンバ村にはたくさんの襲撃犯が入り込んでいて、その連中に見つかったら子供でもただでは済まないことだけは確実だった。猫を救い出すミッションには成功した2人だったが、それとは比べものにならない絶対の危機に晒されつつあり、脱出する手立ても見出せずにいた。

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