第159話 和解(後編)
「ちょっと、セイ、大丈夫?」
兄妹の会話に部外者が立ち入るべきではない、と少し離れた場所にいたリアス・アークエットがセイが落涙したのを見て駆け寄ってきた。
「ああ、いや」
えへへ、と気まずそうに笑いながら、ガントレットを嵌めたままの左手で頬をつたう雫を拭ってから、
「すまない。少し感情が高ぶってしまってな」
ふう、と大きく息を吐きながら夜空を見上げて、
「母上が仰ったことは正しかった、と思ってたんだ」
「母上が?」
最愛の人の名前が思いがけず出てきて驚く兄に「はい」と妹は頷いてみせた。
「兄上はわたしのことを嫌ってるに決まってます」
12歳のセイジア・タリウスはべそをかいていた。「騎士になりたい」という願いをいくら頼み込んでも聞いてくれない兄セドリックに腹が立って仕方なかった。わからず屋め、と唇を尖らせる少女の金色の髪をいとおしげになでながら、
「そういうことを言うものではないわ。セディはあなたのことを大事に思っているに決まってるじゃない」
母セシルは娘をたしなめた。本人としてはきつい口調のつもりだったが、絶世の美女と謳われるほどの容貌が自ずと迫力を減じてしまっていたのに加えて、もともと柔和な性格の彼女が子供を本気で怒るのは無理な話でもあった。
「でも、大事に思っているなら、どうしてわたしの願いを聞いてくれないのですか?」
いきりたつ娘に、
「大事に思っているからこそよ。あなたを心配しているから危ないことをさせたくないのよ」
噛んで含めるように母は説明してみせたが、むう、と唸り声をあげて、眉間の皴が消えないところを見ると、セイの不満は依然として消えてはいないらしい。ふたりとも強情なんだから、と子供たちへの愛情を再確認しながらセシルはそっと息をついて、
「この世界に住む人たちは、みんなそれぞれ違う考えを持っていて、いつでもわかりあえるとは限らないものらしいわ。どんなに愛し合っていてもぶつかりあってしまうときはある、ということなのかしらね。ちょうど今のあなたとセディみたいに」
類稀な美しさを持って生まれたためにそれなりの苦難を強いられた美しい女性はひそかに冷徹な認識を隠し持っていて、母親がいつになくシビアな言葉を吐いているのに娘は不安げな表情を浮かべるが、セシル・タリウスの身の内に流れる温かな血はすぐに彼女自身に笑顔を取り戻させていた。
「でも、安心して。セディは頭が固いところがあるから時間はかかるかもしれないけど、いつか必ずあなたのことをわかってくれるわ。だから、セイ、信じ続けなさい。あなた自身とあなたのお兄さんを大事に思う気持ちを決して忘れないようにね」
愛する人に心からの言葉をかけられて「はい」と答えないわけにもいかず、セイは頷いてから母の柔らかな胸に顔をうずめ、セシルも娘をそっと抱きしめた。それから1年の後に母と永遠の別れを経験することになるセイにとって、決して忘れられない甘く切ない記憶となっていたのである。
「そうか。母上がそんなことを」
目を閉じて俯いたセドリックに、セイは無言で頷いて、
「いつも母上はわたしの心の中にいてくれますから」
右手を胸の上に当てた。鎧の下に兄からもらったペンダントを身に着けていて、そのロケットには母の絵姿が収められていた。
「もちろん、兄上と父上のそばにもいらっしゃると思いますが」
大忙しですね、と冗談めかしてつぶやいたので、伯爵も噴き出しそうになる。昔からそうだった。妹は湿っぽくなるのを嫌って、わざとふざけてみせるのだ。しかし、対面した女騎士の表情が突然きりっと引き締まったので、セドリックも背筋を伸ばさざるを得なくなる。
「兄上、申し訳ありませんが、わたしは今すぐ発たねばなりません。ジンバ村が今まさに敵に襲われているところなのです」
「なに?」
セドリック・タリウスは愕然とする。自分の領地である集落が危機にあると聞いて驚かないわけにもいかなかったが、
「すると、この連中の仲間が攻撃を仕掛けているのか?」
聡明な青年の脳内に事態の全体像が浮上しかける。国境近くの山奥にこれほどの軍勢が集結しているのはどういうことなのか、と捕まっている間もずっと考えていたのだ。
「仰る通りです。詳しい事情を説明している余裕はありませんが、悪辣にして非道の輩から善良なる人々を守らなければなりません。それがわたしのやるべきことです」
騎士として、そして領主の一族として彼女が覚悟を決めているのを見て取ったセドリックが、
「おまえひとりでやれるのか?」
と訊く。自分がついていけばまた足手まといになるのはわかりきっていた。セイは肩をすくめて、
「やれるかどうかは問題ではありません。どうあってもやらなければいけないのですから」
不敵な微笑が闇を照らした。大したものだ、と伯爵は感嘆する。勇気と矜持、2つの崇高なる精神を兼ね備えた妹を持ったことを心から誇りに思いながらも、あえて無表情を装って、
「では、タリウス家の当主として命じる。敵を撃退し、ジンバ村の人々を守るように」
重々しい声で告げると、
「はっ! 承知いたしました。セイジア・タリウス、この一命に代えましても、戦いに勝ち抜くことを誓います!」
金髪の女騎士は膝をつき礼をとった。すぐに立ち上がって村へと向かおうとするが、
「セイジア」
背中に声をかけられて立ち止まる。
「言い忘れていたが、おまえの役目はもうひとつある」
「なんでしょうか?」
振り返って兄の顔をじっと見つめると、
「必ず生きて帰ってくること、それが一番大事な任務だ。そして、わたしと話をするように」
おまえには言わなければならないことがたくさんある、とつぶやくセドリックの優しい笑顔に、セイの胸がいっぱいになってしまうが、騎士が戦う前から泣いていたのでは話にならないのでこらえるしかない。普通の場だったら号泣していただろう、と思いながら、
「リアス、頼みがある」
拳銃使いの少女に声をかける。
「なーに? まだわたしに仕事をさせるつもり?」
「まあまあ。きみを見込んでのことだから勘弁してくれ。見ての通り、兄上は怪我をしているからそれを診てほしいんだ。そして、それが終わってから村まで兄上を連れてきてほしい。戦いに巻き込まれてほしくないから、ゆっくり来てくれればいい」
注文が多いわね、と黒いドレスの娘は呆れながらも、
「まあ、いいわ。わたしとあなたの仲だしね。それに、考えてみたらハンサムな伯爵様と夜中に2人きり、というのはなかなかそそられるシチュエーションよね」
「おいおい。まさか兄上を口説くつもりか?」
「それくらいの役得がないとつまらないわ」
くすくす、とリアスは笑ってから、
「わたしも一緒に行って戦わなくていいの?」
怜悧な面持ちで訊ねるが、
「いや、きみはもう十分やってくれた。この先はわたしひとりでやれる」
やってやるさ、と青い瞳を輝かせた女騎士を見て「心配なさそうね」と拳銃使いにして踊り子の少女は勝利を確信するが、「金色の戦乙女」が完全無欠になるためにもう一つだけ必要なものがあるような気がした。だから、
「じゃあ、わたしからもおまじないをしてあげようかしら」
「えっ?」
セイのとまどいが消えないうちに近づいてきたリアスの細い腕が首に巻かれて、右の頬に口づけをされ、ちゅっ、と小さな音を立てて濡れた唇が触れて離れていくのを感じた。度数の高い酒を一気に飲み干したかのような濃厚な陶酔が女騎士の全身を瞬く間に浸していく。
「どう? 元気出た?」
ぺろり、と舌を出した黒猫によく似た娘に、
「ああ。まあな」
セイはどうにか真面目な表情を取り繕おうとするが、でれでれした笑みを消しきれなかったうえに、ダークレッドのキスマークがほっぺたにしっかりと刻印されていたので、どうにも締まりのない光景だと言わざるを得ない。とはいえ、
(すごい)
さっきまでの疲労が嘘のように消え去り、新たな活力がみなぎってくるのを感じた。今まさにこの世に生を受けたばかりのようなみずみずしい自分がいる、とすら思えた。兄との和解か美少女のキスかあるいはその両方か、原因はどうあれ最強の女騎士は今まさにベストコンディションに到達し、来る戦いへ向けての障害が消えてなくなったのは疑うところのない事実であった。
「それでは、これより出陣いたします」
「ぶち」にひらりと飛び乗るなり、はいやー! と大声を上げて全速力でセイジア・タリウスは次の戦場へと走り去っていった。
(頑張ってね。わたしの
すぐに見えなくなった背中に向けてリアス・アークエットは小さく手を振ってから、
「それじゃあ、セドリックさん、怪我を診てあげるわ」
くるり、とタリウス伯爵の方へと向き直った。
「いや、きみのような女性にそこまでしてもらうわけには」
リブ・テンヴィーとは別種の美しさを持つ年下の娘にセドリックは腰を引いてしまうが、
「偉い貴族様は堂々としていたらいいのよ」
リアスは気を留める様子もなく強引に治療を始めた。まずは顔をハンカチで拭う。痛みはあるようだが口に出さずにこらえているところを見ると、怪我人はそれなりに根性があるらしい、と少女は好ましい思いを抱く。しばらく手を動かしてから、
「ねえ、セドリックさん」
「なにかね、リアスさん」
あら、名前を覚えてくれている、とさらに好感度がアップしたのを感じながら、
「子供の頃のセイってどんな感じだったの?」
唐突に質問された伯爵は訝しげな顔をして、
「何故そんなことを知りたがる?」
と訊き返す。
「わたしはあの子と友達だけど、そこまで深く知っているわけじゃないから、聞いてみたいなあ、と思って」
嫌なら別に話さなくてもいいわ、と言われたので、セドリックの胸の内に罪悪感が湧いてくる。治療してもらっているのに何も返さないのは礼儀に反しているし、かわいい女の子と2人きりで黙りこくっているのはかなり気まずいものがあるので、
「あいつの話をすると長くなるが、それでもよければ」
溜息交じりに首を縦に振る。
「結構よ。今夜は長くなりそうだから、ちょうどいいんじゃないかしら」
リアス・アークエットは笑って、セドリックの顔の傷の具合を見ようとする。少女の美貌が接近してきたのにどぎまぎしながらも、
(わたしもあいつのことを話したかったからちょうどいい)
妹との距離を縮められたことをひそかに喜ぶ伯爵の眼には、真夏の暗闇さえも輝かしいものに見えていた。
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