第110話 「影」、子守りをする(後編)

「よくやってくれた。母子ともに健康で何よりだ」

後から「影」の働きを知ったセイジア・タリウスがにっこり笑って褒め称えたのに複雑な思いを禁じ得なかったものだが、

(こんなことをしている場合ではないんだが)

今の彼は焦燥感に駆られながらも泣き止まぬ赤ん坊を背中であやすことしかできずにいた。確かに黒ずくめの刺客にはやらなければならないことがあった。しかし、だからといって、生後間もない幼子を抛っておくわけにもいかなかった。母親のメイは産後の肥立ちが悪く、体調が十分に戻り切っていなかったし、父親のゴアは、

「かみさんに精のつくものを食べさせたい」

と大物を狙って出産前よりも狩りに出かけることが多くなっていた。そのおかげで、

「あんたよりあの黒いやつの方がずっとメイのそばにいてやってるじゃないか」

「どっちが亭主だかわかりゃしないね」

などと口さのない村の老婆たちに毒を吐かれたりもしたのだが、「女房を思ってのことだ」と「黒いやつ」と呼ばれた男は思わず庇ってしまい、夫婦からの信頼をさらに篤いものにした、ということもあった。そのおかげでネネと名付けられた女児の面倒をさらに頼まれるようになってしまい、闇の仕事人は本来やるべきことに集中できなくなっていた。しかし、仮に自由が与えられたとしても今の男が十二分に動けたかというとそうでもないようであった。

(これまでおれのしてきたことは一体なんだったのか)

手が空いたときに、深夜眠りにつく前にどうしてもそのように思ってしまうのだ。出産を手伝い、赤ん坊の世話を見ているうちに「影」は命について考えるようになっていた。人間というものは、ある日突然何もない空間から「ぽん」と現れるわけではない、というのがようやくわかった気がしていた。母親が命を懸けて生み落とし、父親が心を込めて育て上げようとし、そうやって作られた新しい家族を周囲もまた温かく受け止めていく、そんな多くの関わり合いの中で人という存在が出来上がっていくのだ、と男は経験から学んだのだ。しかし、そうして得られた理解が暗い世界で生きてきた悪漢に苦痛をもたらしていた。生まれるまでに多大な力が尽くされた命を、今までの自分があまりにも多く奪ってきたことを思うと慄然とするしかなかった。これまでにも悪行に対して報いを受けたことがなかったわけではない。牢獄に閉じ込められたことがあった。宗教者から説諭されたこともあった。暴行を加えられたことは数え切れない。しかし、いかなる機会も「影」の底知れぬ闇のごとき心に反省や悔恨を芽生えさせることはなかった。

「どうせおれは取るに足らない存在だ。人間失格の外道なのだ」

と自らを貶めることだけが上手になって、社会の底辺で汚泥に肩まで浸かっていることに快さすら覚える倒錯した感覚に囚われていた。だが、今はもうそのようには思えない。自分を頼ってくれるメイとゴアの若い夫婦だけではなく、ジンバ村の人たちも最近では「影」に親しく声をかけてくれるようになっていた。「おっちゃん、遊ぼうぜー」と毎日のようにまとわりついてくる悪ガキたちには困らされていたし、モニカという娘だけはいまだに悪態をついてきたが、それでも村人たちが自分を「仲間」だと見てくれているのは感じていた。小さな集落に暮らす人々は「よそもの」を簡単に受け入れはしないが、ひとたび迎え入れるととても暖かく接してくれる、ということも知った。

「おまえはいいやつだからな」

セイジア・タリウスにそう言われてからまだ1年も経ってはいなかったが、だいぶ前のように感じてしまう。女騎士の言葉を耳にしたときは「何を馬鹿げたことを」と強い反発を感じたものだが、もしも再び同じことを言われたとしても反論する自信はなかった。「おれはいいやつなのか?」と自らに問いかけて動けなくなってしまうはずだった。

(おれはどうしちまったんだ)

「影」は自分が変わりつつあるのを実感し、心に迷いが生じているのも感じていたが、彼に変化を及ぼしている一番大きな原因が、背中におぶったネネだとは気づいていなかった。生まれたばかりの赤ん坊のぬくもりが、彼の黒く染まった心臓に熱を与え、人間らしい心を取り戻させようとしているとは考えもしなかった。

(誰かに代わりを頼めればいいが)

やるべきことは山積みだが、幼子は依然として泣き止まず、抛っておくことはできない。家の中で眠りこけているメイを休ませておきたかったし、ゴアは今日も狩りに出かけている。集会場にたむろしている婆さんたちに押し付けてもいいが、最近結婚したばかりのアンナをネネは気に入っているようなので(抱っこされても全くぐずらずにニコニコしていた)、彼女に頼むのが一番いい気がした。生意気な妹と違って温和な性格だからきっと引き受けてくれるに違いない、と赤子をおぶったままメイ夫婦の家の前から路上へと進み出ようとしたそのとき、

「ん?」

妙な気配を感じて「影」は立ち止まる。ジンバ村は山脈がそびえる東を除いた3つの方角に道が開けていたが、西の山道から誰かが下ってくるのが見えた。

(村人ではない)

人はそれぞれ異なるオーラを持ち合わせているもので、一流の仕事人は100人に満たない集落の住人のオーラをほとんど把握していたが、そのどれにもあたらない、と察知する。初めてここに来る人間だ、一体何者なのか、と「影」が思わず緊張したのを感じたのか、どんなにあやされても泣き続けていた赤ん坊が不意に静かになっていた。

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