第75話 吟遊詩人、村を訪れる

夏といえども、山間の村の朝は涼しかった。夜明け前に起きたモニカは自宅の前でせわしなく動き回っていた。明日のイベントのためにやらなければならないことはいくらでもあった。

「わたしが主役なわけでもないのにね」

胸が高鳴るあまり、くすくすと笑いがこぼれてしまう。村一番の勘を持つベヌンベ爺さん(若い頃にウラテンまで出稼ぎに行って漁師をしていたらしい)によると、数日のうちは晴天が続くらしいが、山の天気は変わりやすいから用心するに越したことはなく、会場に天幕を設営することにしていた。そのための布をナーガ・リュウケイビッチが用意してくれているらしい。本当にあの人は気が利く、と今やすっかり信頼しきっているモクジュから来た騎士の美貌を思い浮かべた少女の足取りが軽くなる。

(今は無理でも、わたしもいつかは素敵な人と出会いたいなあ)

近いのか遠いのかわからない未来に思いを馳せながら、少女が会場へと向かおうとしたそのとき、

「すみません」

背後から声をかけられた。その響きが鼓膜を通り抜け脳に達した瞬間、モニカは服を脱がされていた。屋外で一糸まとわぬ姿になった恥ずかしさもあったが、それにも増してえも言われる快感が少女の未熟な肢体を侵していた。夜にしか存在しない自分に会えた気がして、声も出せずに肩を震わせる村娘に、

「すみません」

もう一度声がかかり、それでモニカは正気に戻り、ちゃんと服を着ているのに気づき、あれは錯覚だったのか、と安心しながら振り向くと、そこには見知らぬ青年が立っていた。元は白かったはず薄汚れたターバンと寛衣を身にまとい、右手には杖を突いていた(杖の持ち手に小さなピンクの紐がついているのが不思議だが)。両目が固く閉ざされていたので「盲いているのか」と少女は同情しながらも、彼の整った容貌から目が離せなくなっていた。長く伸びた銀髪、高い鼻、引き締まった口元、甘さの中に苦みのあるルックスは、女子ならば誰もが心を大いに引き付けられるはずで、彼女も例外ではなかった。

「ひとつお訊ねしますが、ここはジンバ村でしょうか?」

何度聞いてもやはり素敵な声だ、とモニカは陶然となりながらも、心の片隅が冷めきっているのを感じた。こんなにかっこいい人がこの辺鄙な村にまでわざわざ来るはずがないのだ。来る理由があるとすればただひとつだ、と過去の事例から少女はしっかりと学習していた。だから、

「セイジア様なら確かにここに住んでますよ」

質問に答える代わりに、彼が知りたがっているはずの情報を教えてみせた。思いがけない言葉に盲目の青年は背中をややのけぞらせて、

「なんと。どうしてわたしがセイジア・タリウスさんを訪ねてここまで来たとわかったのですか?」

わかるわよ、とキレて叫びたくなる。シーザー・レオンハルトといいアリエル・フィッツシモンズといい、普通の女子なら一人でも十分なイケメンを何人もはべらせるなんて神をも恐れぬ重罪ではないのか。セイは自分と姉を救ってくれた恩人ではあるが、そのことだけはどうしても許せない、と思っていた。

(どうせわたしなんかじゃ無理な話よね)

根が善良な娘は人を憎み続けることができず、とほほ、と我が身を卑屈に省みつつ、

「以前、セイジア様の昔の同僚の方がお見えになったものですから」

と答えながら、「この人は違うだろうな」と見極めていた。目が見えない騎士などいるはずもない。

「ああ、そういうことでしたか。レオンハルトさんとフィッツシモンズさんも既にいらっしゃっていたのですか」

「お二人とお知り合いなんですか?」

「まあ、そうなりますね。友人というよりは敵対する立ち位置にあると思いますが」

なんだか物騒なことを言っている。王立騎士団の団長と副長と対立するとは、一体どういう人間なのか。あの「影」とかいう男みたいに変態だったらどうしよう、とモニカが危惧したのを察知したのか、

「申し遅れました。わたしの名はカリー・コンプといいます」

名乗りながら、左腕に持っていた弦楽器を差し出してきた。

「えっ? じゃあ、あなたは?」

「はい。つまらない歌を演奏して頂いたお金でどうにか生活をさせてもらっています」

吟遊詩人を見るのは初めてだ。田舎まで流れてきたところで満足な対価を得られるはずもないので、歌うたいがはるばるツアーに来るわけがなかった。

「でも、カリーさん、でしたっけ? あなたとセイジア様って、一体どういう関係なんですか?」

みすぼらしい吟遊詩人と最強の女騎士はいかにも不釣り合いな取り合わせで、どのようなきっかけで知り合ったのか、もともとゴシップ好きの少女は興味を惹かれて目を輝かせていた。

「一言で説明するのは難しいのですが」

ヤクザに襲われて怪我をしていたのを変装して食堂で働いていたセイに救われるところから話し出すとかなり時間がかかる、と思いながら、

(なんとも奇妙な縁だ)

詩人は苦笑いせざるを得ない。それが切っ掛けで恋に落ち、辺境の地まで追いかけてきた我が身の酔狂さもまた笑うべきなのだろう。

「そういうことでしたら、わたしの家で休みながら、話を聞かせてください。何時間かかっても構いませんから」

さあ、どうぞ、とすっかり乗り気になったモニカはカリーを家へと連れて行こうとする。

「いえ、知り合ったばかりのあなたにそこまでしてもらうわけには」

「モニカです。セイジア様のお知り合いなら、わたしにとって大事なお客様です」

押しの強い少女にぐいぐい来られて、旅慣れた歌うたいが困惑していると、

「おお。カリーじゃないか」

遠くから声が聞こえた。立ち止まった2人の元へ声の主は瞬く間に近づいてくる。

「どうしてここにいるんだ?」

久しく聞いていなかった声を耳にして、カリーの表情がほころぶ。ずっと会いたくて仕方がなかった人にようやく会えたのだ。

「あなたがお引越しをされたと聞いて、新居に遊びに来たのですよ、セイジア」

「まあ、引越しと言えばそうなるのかな」

セイジア・タリウスが困った顔をしたのが、目の見えない詩人にもわかった。以前よりも更に美しさを増しているように思われて、自然と気分は高揚していく。

「しかし、こんな山奥だぞ。来るまで大変だったんじゃないのか?」

「大変といえば大変ですが、わたしの目を気にしたのか、助けてくれる人もたくさんいたので、さほど苦労はしませんでした。旅は道連れ世は情け、というやつです」

なるほど、とセイは笑う。やはりこの世の中は捨てたものではないらしい。

「セイジア様はこんな朝早くからどうされたんです?」

モニカに訊かれた女騎士は目を丸くして、

「どうしたも何も、会場の準備をしようとしたら、おまえの姿が見えないから気になって呼びに来たんだ」

「あ」

そういえばそうだった、と村娘は思い出す。行きずりの美青年に気を取られてやるべきことが頭から飛んでしまっていた。

「いや、それにしても奇遇、というか幸運だな。カリー、おまえはちょうどいいところに来てくれた」

セイに褒めてもらったが、その理由がわからないと今一つ喜べないので、

「どういうことなのでしょう?」

訊き返した。すると、金髪の女騎士は朝の光にも負けないほどの明るい笑顔で、

「明日、この村で結婚式があるんだ。おまえが歌ってくれれば最高の式になることは間違いない」

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