第74話 伯爵、愛を告げる(後編)

それはとても優しい口づけだった。あのときと同じ、とリブは思う。子供の頃、少年が愛を誓ってきたときの甘やかな感動が胸に甦る。ただし、あのときキスされたのは手だったが今度は唇で、部位が違うだけで心の揺らめきもこれほど大きくなってしまうのか、と彼女は驚いていた。情動の波に呑まれて今にも溺れてしまいそうだ。いったん唇が離れ、短い空白の後に再び接吻される。なんとも念入りかつ丁寧なやりかたで、硝子細工のように大事にしてくれている、という気がした。セドリック・タリウスという人が真面目で几帳面な性格だとよくわかって、愛おしく思えた。ただ、その気持ちを素直に認めてしまうと何故か負けた気がしたので、伯爵の青い瞳が上からのぞきこんできたときに、

「セイの方が上手ね」

思わずそう言ってしまっていた。

「はあっ!?」

妹に先を越されていたことを知ったセドリックの驚くまいことか。

「なんだって? きみはセイジアとキスをしたというのか?」

「そんなに大きな声を出さないで。あっちからいきなりしてきたのよ」

ますます許せん、と高貴な若者がどす黒い殺気を頭から噴出しだしたのに、さすがに悪い冗談だった、と反省したリブが謝ろうとしたとき、既にその柔らかな唇は男の唇でもってもう一度塞がれていた。

さっきと同じキスのはずなのに、まるで違っていた。優しさの感じられない荒々しい乱暴なまでの接触だ。ただひたすらに掴まれ奪われ貪られていく。しかし、それが不快ではないどころかむしろ快感を伴っていたのは、それもまたひとつの愛のかたちなのだ、とリブが了解していたからに他ならない。愛し合う2人が「ひとつになる」という表現が使われることがある。それは一つの理想形なのだとばかり彼女は思っていたが、しかし、「ひとつになる」ことはおのれという存在を壊すことでもある、とセドリックとひとつになりかけているこの局面でリブは気づいていた。自分と世界とを分け隔てていた境目が破れ、他者と混じり合っていく。本来であれば恐ろしいはずなのに、蜜のような濃厚な陶酔に頭から爪先までくまなく浸されて、もっと溶け合ってしまいたい、とすら思ってしまう。彼女の中に彼が入り、彼の中に彼女が入り、ふたりはひとつに混じり合う。男の青と女の赤がマーブル模様を描き、ふたりだけの恋の絵画が完成へと近づいていく。そして、永劫にも等しい刹那は終わりを迎え、2人は近すぎる距離で見つめ合った。

「よくわかったよ」

興奮冷めやらぬ赤い顔のままセドリックがつぶやく。

「なにが?」

聞き返した自分の声が舌足らずになっていたのをリブは恥ずかしく思った。熱烈なキスを受けて心が打ち震えているのを今更取り繕うこともできそうもない。

「わたしがきみを愛していること。そして」

セドリック・タリウスはさわやかな笑みを浮かべ、

「きみもわたしを愛していること。それがよくわかった」

そう言われた瞬間に、リブの眼から大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちていた。その通りだ。わたしはこの人を愛している。隠そうとしてきた。否定しようとした。でも、それはもう無理なのだ。

「泣かないでくれ。わたしの大事なリブ」

セドリックは愛する女性を胸で抱き止める。シャツを濡らす熱い涙は彼の勝利の証に他ならなかった。

「簡単にはいかないかもしれない。でも、必ずきみとの結婚を成し遂げてみせる。だから安心してくれ」

いいね? と子供をあやすように言われたのが腹立たしかったが、泣くことしかできない今の自分は赤ん坊のようなものだ、と思って黙って頷き返した。「ありがとう」と満足げに笑った伯爵は、

「今度はきみの方からわたしの屋敷まで来てほしい。ずいぶん久々だが、笑ってしまうくらい、あの頃と何も変わっていないよ」

わたしたちもそうなのだろうか、とリブはふと考える。姿形は大きく変わっても、心だけは昔の少年と少女のままなのだろうか。思い出の土地を再訪したい気持ちはあったので、

「いいわ」

かすれた声で返事をすると、

「ありがとう」

もう一度キスをしてから抱きしめられ、体中を撫で回された。お返しとばかりにリブも彼の身体のあちらこちらに触れていると、

「まずいな。このままだと歯止めが効かなくなる」

一生この家から出られなくなる、とセドリックは考え、それならそれでも構わない気がしたが、リブ・テンヴィーとはちゃんとした形で添い遂げたかったので、ここはいったん我慢することにする。彼が貴族らしい心の持ち主でなかったら、愛欲の海から戻れなかったことだろう。

「もう雨はあがったようだ」

乾き切らないジャケットを羽織って伯爵は玄関へ向けて歩き出し、

「それじゃあ失礼する。さようなら、我が最愛の人マイ・スイートハート

室内から小さく振られる白い手に笑顔で応えて、セドリック・タリウスは家を出た。数時間前、悄然とした姿で占い師の館を訪れた青年は、凱旋将軍を思わせる足取りで意気揚々と引き上げていく。

扉が閉められたのと同時に、リブは床に蹲って声を上げて泣き崩れた。

(無理に決まっている)

セドリックの考えは無謀としか思えなかった。彼との結婚は困難を極めるはずで、破滅へと向かいかねない危険な道だ。わたしはどうなってもいい。だけど、彼には平穏な人生を歩んで欲しかったのに。しかし、それ以上に、

(わたしはセディを愛している)

胸の中で滾る情熱が彼女を責め苛んでいた。伯爵の激しい愛によって呼び覚まされた心は嵐のように荒れ狂って止めようがない。

(彼のそばにいるべきではない)

(彼と一緒にいたい)

相反する思いを抱えたリブは立ち上がることもできずに、涙を流し続けた。

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