第58話 女占い師、世界を巡る(その5)

「困ったわねえ」

リブ・テンヴィーは宮殿のバルコニーから外を見渡して眉をひそめた。彼女が誘拐されて早くも10日あまりが経過していた。女占い師の紫の瞳に映るのはあたり一面に広がる砂漠だ。砂、砂、砂。さらに砂。灼熱の太陽に晒された赤い大地のあちこちに陽炎が立ち上っていて、行き交う人の姿はない。強制的に連れて来られてからというもの、リブはずっと脱出の機会をうかがっていたのだが、どうやら無事に逃げられる可能性は極めて低いものと言わざるを得ないようだった。警備がとりたてて厳重なわけではないが、前述した通りこの宮殿は砂漠に囲まれていて町からは遠く離れている。屋外に出られたとしても、たちまち熱気にやられて動けなくなってしまうのは目に見えていた。逃亡イコール自殺行為、というわけなので警備も薄いのだ、と少女は気づいていた。そうなると、誰かの助けを借りなければならないことになるが、後ろ盾も財産もない異国の娘を助けてくれる物好きがいるとも思えない。いや、彼女には魅力的な美貌と肢体という伝説の聖剣にも匹敵する武器があるわけだが、色仕掛けをするにしてもそれなりの準備が要るうえに、誰に仕掛けるかも見極めなければならない。つまり、それなりに時間と労力をかけて脱走のプランを練らなくてはならないことが判明して、リブは大いに悩んでいたのだが、

「本当に困ったわ」

彼女には悩み事がもう一つあって、それはこの宮殿での暮らしがかなり快適なことだった。長い間旅をしていた占い師にとって、屋根のある所で寝起きできるだけでも有難いというのに、三食昼寝付きで美味しいお酒も飲める、とあっては生きながらにして天国にやってきたかのように思われて仕方がなく、日を追うごとに逃走する気が失せていくのを実感していた。「一生ここにいてもいいんじゃないかしら?」とまで思ってしまう。困った困った、と言いながら、美女は南国原産の甘い果実を頬張る。

(まあ、この恰好はどうかと思うけれど)

今、リブはサタドの女性の伝統衣装を身にまとっていた。腰にパレオを巻いただけのカラフルなビキニスタイルだ。海水浴に来たわけでもないのに、と服とも呼べない服を着るように言われた当初は戸惑ったものだが、もともと露出の多い服装を好んでいただけあってすぐに慣れてしまった。くびれた腰と形のいいおへそを露わにして歩く新入りの寵姫は宮殿で働く男たちに恐慌をもたらし、数日のうちに何人もの使用人が馘首クビになっていた。「旦那様の愛人に色目を使ったら去勢した上で放逐」という厳格な規則に違反したためだが、あのお色気を見たらそうしたくなる気持ちもわかる、と残された召使いたちは元同僚の愚かさを責める気にはなれず、悶々としながら日々の職務に従事しなければならなかった。

「旦那様」の素性をリブは宮殿に来て3日のうちに把握していた。サタド城国は「太守」と称される指導者によって支配されているが、その領土はいくつかの「藩」に分けられ、その統治者を「藩主」と呼んでいた。女占い師を強引に買い求めた男は「藩主」のひとりで、その中でもかなりの実力者でなおかつ野心家であることがわかった。次期太守の座を狙っているとの噂もあるらしい。

(あの人がそんな大物とはねえ)

とリブが思うのは、初めて会うなり男の痴態を目撃してしまったからだ。昼間は周囲を威圧している権力者が、夜になると閨房で「いじめてくれ」「罵ってくれ」と懇願してくる極端さをどう考えればいいのか、いまだによくわかっていなかった。ただ、馬鹿馬鹿しく思いながらも何故か嫌いになれないのは確かで、昨晩もベッドルームで「プレイ」を求められた際に、

「どうして叩いてくれないのだ。ぶってくれないのだ」

と鞭でひっぱたくように執拗に懇願してくる男が哀れになって、「よしよし、いい子ね」と思わず頭を撫でてしまったものだった。すると、「旦那様」は「おお。おお」と香辛料を丸呑みしたブルドッグのように絨毯の上を転げ回って歓喜の涙にむせび泣き、そのままいつものように気絶してしまった。何やってんだか、と歪な性癖に囚われた巨漢とそれに付き合っている自分自身に呆れてしまう。

サタドは男尊女卑が深く根付いた社会で、上流階級の男は多くの女を愛人にすることが認められている。いわゆる一夫多妻制だが、この宮殿の一角にも後宮ハレムが存在し、新入りのリブにも一室が与えられていた。かつてリボン・アマカリーだった頃にも住んだことのない豪華な部屋だったが、

「あまりぼやぼやしてられないかも」

バルコニーから室内に戻ってきた女占い師は化粧机の前に座って溜息をついた。代償のない幸福など有り得ない。20歳にもならないうちに苛酷な経験をいくつもしてきた少女にはそれがよくわかっていた。宮殿での安穏とした生活は、「旦那様」の愛人となることと引き換えにして得られたものだ。今のところ、男は彼女を乱暴に扱いはしていないが、時間が経てば別の一面も見えてくるかもしれず、またそれ以上に、彼のリブへの執着が日毎に強くなっているのに危うさを感じていた。

「貴様はなかなかいい心がけをしている。第一夫人にしてやってもいい」

まだ昼間で権力者モードだった男に「有難く思え」と言わんばかりの態度を見せられたものだが、有難迷惑としか思えなかった。そんなものになりたくなどない。愛していない男の妻になるなど真っ平御免だ。それに加えて、宮殿を歩いていると他の愛人とすれ違うこともあるのだが、その誰もが主人の寵を得た新参者に対して敵意を隠そうともしなかった。「第一夫人」とかいうものになったら、より一層面倒に巻き込まれるのは目に見えている。なので、可及的速やかにこの宮殿から脱出したかったのだが、

「困ったわねえ」

その手段が見つからずにリブ・テンヴィーは途方に暮れていた。そうこうしているうちにまた夜が来て、「旦那様」に「プレイ」を求められるのだろう、と思ってさらに途方に暮れるしかなかった。


突破口、あるいは破綻は思いも寄らぬところから訪れた。その夜、

「旦那様がお待ちかねです」

リブを呼びに来たのはまだ10歳にならない少年だった。後宮では男児が多く働いていて、浮気の心配がないからだろう、とその理由を考えてから、使用人たちが嫉妬深い主人に配慮をしているのを感じて、そのせせこましさに美女はあからさまに嘲笑を浮かべる。ところどころに明かりがついてはいても薄暗い廊下を幼い使用人に先導されてリブは本館へと向かおうとするが、

「ん?」

分かれ道まで来たところで足を止めていた。左へ行けば本館へと出るが、右に行っても何もなく、長い廊下の先は行き止まりになっている。どうしてこんな無駄な場所があるのか。まさか設計ミスでもないだろう。何度も通った道で、そのたびに「おかしい」と思っていた。思っただけで何もしなかったのだが、その夜のリブは実際に行動に移り、右へと曲がった。先を急ぐ少年は、ついてきているはずの美女がいなくなったのに気づかない。ごめんね、と小さな背中に無言で謝ってから、占い師は奥まで歩を進める。行き止まりにはやはり壁しかなく、特に目に付くものはない。無駄足だったか、と気まぐれを起こした自分に呆れながら引き返そうとして、

「ん?」

もう一度足を止めた。目につくものはなくても、女占い師リブ・テンヴィーには目に見えないものも見えてしまう。行き止まりの壁ではなく、その左側から妙な気配を感じた。そっと触れると、壁が音もなく開き、その中には暗闇が広がっているではないか。

(まさか、隠し扉?)

そんなつもりは全くなかったのに、館の秘密を見つけてしまったリブは愕然とする。そして、

(やれやれだわ)

決心したというより諦めにも似た気持ちで、少女は隠し扉の中に入る。他人の秘密を暴くのは懲りたつもりでいた。愛する祖父を死に追いやった自らの罪を片時も忘れたことはない。だが、彼女が注意を払っても、謎が向こうからやってきては「解き明かしてくれ」と言わんばかりにヒントを提供してくれるのだ。そして、リブ自身、知性を働かせて難問に向かい合うのに喜びを感じていたのは否定できなかったし、どうしても好奇心を殺すことはできず、今夜も余計な真似をして秘匿されたドアを発見してしまった次第だった。

(わたしって本当に救えない女よね)

毒を食らわば皿まで、とでも言うべき自棄に近い気持ちでリブ・テンヴィーは闇の中を歩き出す。恐る恐る一歩踏み出すと、段差になっているのが分かった。地下へと降りていくのだろうか。後宮の奥底で何が待ち受けているのか、それは女占い師の直感をもってしてもまだわからなかった。





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