第51話 女占い師、デビューする(その5)

リブは廊下からこわごわと「レッド・パール」の店内をのぞきこんだ。薄暗い照明の下で多くの客がざわめいているのがわかった。ステージ上ではバンドが流行歌を演奏していて、いかにもメロウなムードを醸し出している。

「ううう」

占い師見習いの娘は思わず胸を抱き寄せた。師匠の策略に嵌まって白いワンピースを着る羽目になってしまったが、ここまで露出度の高い恰好は人前でなくてもしたことがない。布地よりも肌の面積の方が広いくらいだ。恥ずかしさにいたたまれなくなって赤面する弟子を見かねたのか、

「ほら、あそこが占いのブースだよ」

テンヴィー婆さんが背後から短い指で示してくれた。見ると、フロアの一番遠い片隅に黒い厚手のカーテンで仕切られた一角があって、さほど広いスペースとは思われなかった。占い師と客、2人が入るのがやっとだろう。

(ひょっとしたら)

なんとかなるかもしれない、とリブは一筋の光明を見出した気持ちになった。ブースまでたどりついて、カーテンを閉め切ってしまえば客や店員の目にはつかなくなるはずだ。そう思うと、気持ちがだんだん軽くなってくるのを感じた。人というものは他人のことに案外興味を持たないもので、ある人にとっては生死のかかった大問題であっても、それ以外の人にとってはまるで関心が持てずに自らの腹加減の方を大事に思ったりするものなのだ。だから、酒、食事、音楽といった享楽に満ちた場所で、自分のような小娘など「どうでもいい」と思ってくれるのではないか。それに「レッド・パール」はキャバレーで、色気たっぷりの大人の女性はたくさんいるから、

(わたしなんか目立つわけがない)

とも思っていた。その考えが大間違いだったことは程なくして明らかになるのだが、ともあれ、困難な状況をどうにか前向きに受け止めようとしながらも、それでも動き出せずに少女が逡巡していると、

「ほら。さっさと行きな」

どん、と老婆に背中を押されて店の中へと足を踏み入れていた。客の吐き出した紫煙の香りがリブの形のいい鼻を衝く。高級な葉巻のものだろうか。安心したことに、誰も彼女を見ていないように思われた。

(なんだ。気にしすぎだったんだ)

ほっと一息ついてから、目指すブースへと足を速めようとするが、ハイヒールなので転ばないように気を付ける必要があった。最大限に注意しながらも、最大速度で歩行しようとするリブの試みは途中までは上手く行っていた。廊下とブースを結ぶ、中間地点を過ぎようとしたあたりで、がしゃーん! と高い音が彼女の耳に届いた。

「え?」

足を止めて振り返ると、銀のトレイが床に落ちて、その周りには瓶とグラスが転がって、飲み残しを撒き散らしている。蝶ネクタイを付けたボーイが唖然としてこちらを見ているのがわかった。その右手は高く持ち上げられていて、本人だけはまだトレイを持っているつもりなのかもしれない。おそらく、客商売の経験をそれなりに積んだ男だと思われたが、そんな人間に我を忘れさせるほど、目の前の娘はあまりに美しく、なおかつ魅力がありすぎた。ボーイだけでなく店中の眼がいまやリブに集中していて、バンドのメンバーも全員少女に気を取られるあまり、演奏を止めてしまった。じゃーん、とドラマーがスティックでシンバルを叩いたのは、彼女の美を賛美したいがための無意識の行動かも知れない。男たちは欲望と陶酔をこめて、女たちは嫉妬と羨望をこめて、ただひとりの少女にぎらついた視線を送っている。無数の矢に刺されたかのような感覚に襲われて、リブは思わず呻いてしまうが、見つかってしまった以上慌てても仕方ないので、しれっとした顔で「こほん」と軽く咳払いすると、そそくさと目的の場所へと歩いていく。腰が左右に大きく振られて、盛り上がったヒップが揺れる歩き方―この物語の世界にはない言葉だが、いわゆる「モンロー・ウォーク」―になって、性的魅力をよりアピールする結果になったのは、リブ本人としては望むところではなかったのだろうが。

ブースにたどりつくなり、しゃーっ、と音を立ててカーテンを閉め切る。視線を断ち切るのに成功して、「ふう」と溜息をつきながら背もたれ付きの椅子に腰掛けたのと同時に、閉め切られたばかりのカーテンが思い切りはねのけられて、どたどた音を立てて何人もの男たちが乱入してきたので、「ひいっ!」とリブは可憐そのものというべき悲鳴を上げてしまう。

「おねーちゃん、おねーちゃん、あんた、とってもかわいいな」

そう言ったのは集団の先頭に立つ大男だ。白と青のボーダーのTシャツの半袖から錨の入れ墨が彫られたたくましい腕が伸びている。船乗りだろう、と見当をつけながら、

「ええ、それはどうも」

少女がおずおずと頭を下げると、

「どうだい? おれと一杯やらねえか? あんたみたいなかわいこちゃんとねんごろになれたなら、今度の長い航海も我慢できるってものさ」

「いえ、わたしはそういうことは」

船乗りらしい荒波にも似た勢いに気圧されながらもリブがどうにか断ると、

「ねえちゃん、あんた、ひょっとして占いをやってるのかい?」

大男が訊ねた。この店で一番美しい娘の前には、紫のクロスが掛けられたテーブルが置かれ、その上には水晶玉が鎮座している。あまり冴えた頭を持っていそうにない船乗りでも察しが付くというものだった。以下は余談だが、テンヴィー婆さんにしてもリブにしても、水晶玉やタロットを使わなくても占うことはできる。ただし、老婆が言うには、

「ああいうのはなくっても構わないけど、あって困るものじゃないからね」

定番の道具を用意していると客の信用が増す、ということで常に用意をしていたというわけである。それはさておき、

「ええ、そうなんです。実は今夜が初めてで」

男の問いに答えてから、リブはしゃべりすぎたことに気付いた。少女の言葉を耳にした船乗りは喜色満面になって、

「そうかい、そうかい。じゃあ、おれがおねえちゃんの初めての客ってわけだ」

どかっ、と木製のスツールに腰掛けた。ただでさえ男に不慣れなのに、人並み以上の巨体に間近にやって来られて、リブは早くも泣きそうになる。おまけに、その背後には男の仲間なのか部下なのか、似たような屈強な連中が控えていて、とても抜け出せそうにない。そんな少女の弱気を見抜いたのか、

「そうびくびくしなさんな、子猫ちゃん」

船乗りがなれなれしく顔を近づけてきた。背中を反らせて遠ざかろうとすると、男はその分さらに侵攻してきて、離れることができない。

「おれとしちゃあ、早いところ、あんたと二人きりになりたいもんだがな」

早くも勝利を確信した大男は、ベッドの中で新人占い師の豊満な肉体を思うがままに貪りつくす光景を粗雑なつくりの脳内で思い描いて、ぐふふ、と下品な笑みを漏らす。欲望に狂う男と哀れな娘の成り行きを、「レッド・パール」の客も従業員も一緒になって見守っていたが、

「これはまずいかもしれないね」

廊下に残っていたテンヴィー婆さんは焦りを感じていた。老練な占い師に唯一計算違いがあったとすれば、弟子の色気が想像以上だったことだ。あれだけの強烈なフェロモンにさらされて、まともでいられる男がいるはずもない。飢えた獣に満ちた荒野に生まれたての小鹿を放ったようなものだ、と悔やみながらも、娘の危機を見過ごすわけにもいかないので止めに入ろうと、フロアに進み出た次の瞬間から、事態は思いも寄らぬ方向へと進み始めた。

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