第42話 悪夢とめざめ(その5)

「ジェンナ!」

突如我に返ったリボンが叫ぶ。危機を逃れて最初に思い出したのはメイドのことだった。殺されてしまって放置されている彼女をあのままにはしておけない。だが、戻ろうにも、何処に向かえばいいのか。ハンスに森の奥まで連れてこられた後で、亡霊から逃げ惑ったおかげで、自分が今どこにいるのかすっかりわからなくなってしまっていた。おろおろと周囲を見渡す少女に、

「いったいどうしたんだい?」

老婆が話しかける。慌てふためく娘の話しぶりは要領を得なかったが、誰かを探しているようだ、ということだけはどうにか理解できた。

「だから、早く見つけてあげないと」

今にも泣きそうになっているリボンの顔を、旅塵にまみれたフードをかぶった老女はいくらか悲しげに見てから、

「あんたが探しているのは、あの人のことかい?」

と言いながら、少女の後方へと視線をずらした。え? と思いながら振り返ると、そこには白い線で何かがぼんやりと輪郭を描いているのが見えた。絶えず揺れ動いていて、強い風が吹けば消えてなくなりそうなほどにささやかな存在だったが、

「ジェンナ? ジェンナなのね?」

リボンにはその正体がわかっていた。優しく暖かな雰囲気は生きているときと何も変わらない。少女が問いかけた後で、いくつもの線がかすかに震えたのは、微笑みかけてくれたのだ、という気がした。だが、

「待って。行かないで」

ジェンナだったものの気配が徐々に薄れていくのをアマカリー家の娘は感じていた。コーヒーに入れられたミルクが溶けてなくなってしまうように、一人の女性がこの世界から消えようとしている。

「嫌よ。行ったらダメよ。ジェンナ」

大粒の涙をこぼしながら手を伸ばして引き留めようとする令嬢に、

「行かしてやりな」

老婆はきっぱりと告げる。でも、と尚も諦めきれないリボンに、

「その人はもうここにはいられないんだ。無理にいさせようとすれば、さっきの連中と同じになっちまう」

あんたはその人をそうさせたいのかい? と言われはしなかったが、そう言われた気がした。不思議な力を持つ老女の言葉には厳しさだけではなく思いやりも確かに感じられたので、リボンは別れの無念を懸命に胸に納めてから、

「ごめんなさい。わたしのせいで、あなたまで巻き込んでしまって」

涙ながらに詫びると、白い線がひときわ激しく震えたように見えた。

「その人、ジェンナさん、というのかい? ジェンナさんはあんたを悪く思ってはいないよ。『自分の考えでついていったのだから、なにも後悔していない』って、そう思っている」

老婆には死者の言葉が理解できるのか、あるいは少女に罪悪感を持たせまいと方便を述べているのかはわからないが、リボンの知っているジェンナならそんな風に言いそうな気がした。

「正しく生きてきた人は、人生を終えると何も苦しむことのない安寧の地にたどりつくことができる。その人もそこであんたを見守ってくれる」

そうだったらいい。そうあってほしい、と娘は心から祈った。

「さようなら」

ぼろぼろ涙をこぼす幼い女主人の目に、一瞬だけ侍女の姿が鮮明に映り、

(リボンお嬢様、あなたならわたしがいなくても、きっと大丈夫ですわね)

そんなささやきが耳元で聞こえたように思われて、はっ、として顔を上げると、空中に描かれた線は跡形もなくなっていて、ジェンナの存在を感じることは出来なくなっていた。大事な人を失い、ひとりきりになってしまった心細さに泣き崩れるリボンの肩に、ふわり、と何かがかけられた。

「その恰好じゃ風邪を引いちまうだろ」

下着一枚の少女を気遣ったのか、老婆がズタ袋から毛布を取り出したのだ。よく知りもしない人にこれ以上迷惑をかけるわけにはいかない、と13歳の娘は戸惑ったが、

「つまらない遠慮をするんじゃないよ。今のあんたがたったひとりで何ができるというんだい」

痛烈な苦言にリボン・アマカリーは自らの置かれた現状を認識せざるを得ない。叔父から命を狙われた以上実家には戻れず、頼りになる侍女はこの世を去り、手元には一枚のコインもない。馬車に戻れば荷物はあるはずだったが、そこまでの道のりが彼女にはわからないし、それ以前に森から抜け出すこともできそうにない。誰かの手を借りなければとても生きてはいけないのだろう。だから、

「お願いします。助けてください」

貴族の娘は下賤の身の女性に素直に頭を下げていた。ふん、と老婆は面白くもなさそうに鼻息をついてから、

「言われなくてもそうするつもりだったよ」

とだけ言って、杖をついてさっさと歩き出した。ありがとうございます、と可愛らしくお辞儀をしてから、乙女はその後を追う。老女の小さな後ろ姿は実に頼りがいがあるように感じられて、

(あの人についていけば生きていける)

と心から確信したリボンは、毛羽だった毛布に身を包みながら、恐怖に満ちた長い夜を生き延びたことをようやく実感しつつあった。

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