第43話 旅の始まり(前編)
リボン・アマカリーが不思議な老婆に助けられて数日が経った。占い師を自称する小柄な女性は、叔父に命を狙われ頼るものを失くした少女とともに北へと向かった。何故そうしてくれるのかはわからなかったし、訊いたところで答えてはくれない気がしたので、リボンは黙って老女の後に従って歩き続けた。
その夜、2人が出会ってから初めて屋根のある場所で眠れることになった。農家の納屋で一晩だけ泊ってもいい、と許されたのだ。特に対価も必要とされなかった、と聞いて、リボンはおばあさんの世慣れた交渉術に感心しきりだったが、
「あんたのおかげだよ」
と、いつもと同じ苦虫を噛み潰したような表情で答えられただけだった。実際のところ、
「お孫さんを連れて行かれるのは大変でしょう」
いかにも人のよさそうな農夫が同情したからこそ、宿が借りられたことも確かだった。あたしに孫なんていないよ、という愚痴は飲み込んで、勝手に誤解させておくことにした。
(ここはもうマズカ帝国なのよね)
今日の昼間に山道を行く途中で、「ここが国境だよ」と老婆に教えてもらったのを思い出す。王国と帝国のボーダーラインであるはずなのに、衛兵の姿はなく、特に目印もなかったのを、好奇心旺盛な少女は興味深く思ったものだった。
藁の敷かれた床に直に座りながら、小さな穴がぽつぽつと空いている屋根を見上げてリボンは物思いに耽る。夕食を恵んでもらい、慣れない野宿をしなくても済む安堵感で、久々にゆったりした気持ちになっていた。そんな娘の目の前に、ばさっ、と音を立てて何かが落ちてきた。
(新聞?)
手に取ってみると、「デイリーアステラ」、つまり少女の生まれ故郷で発行されている新聞だ。
「何日か前の古新聞だが、この家の嫁さんが読んでいたのを借りてきた」
よたよた、と老婆が納屋に入ってきた。フードが外れた頭は濃い灰色に近い髪の毛に覆われている。
「あんたのことが載ってるよ」
「えっ?」
読んでみな、と驚きに目を丸くする娘に促す。小さな二つの手がかすかに震えながら新聞紙をめくるのを見守りながら、
(嘘だとは思っていなかったが、本当のことだったんだね)
老婆、占い師テンヴィーは床へと座る。リボン・アマカリーと名乗る少女と同行しているうちに彼女の身の上とあの夜見舞われた奇禍についてすっかり聞き出していた。最愛の祖父を亡くした令嬢が異国へ留学へと旅立ったその日のうちに、親族に裏切られ危うく殺されかけ、さらには亡霊に襲われた、という一般の人間にとって到底理解しがたい話だったが、もとより常人ではないテンヴィー婆さんは「そういうこともあるだろう」と大して動じることなくリボンの打ち明け話を受け止めた。80年近い波乱万丈の人生の中で、それ以上に奇妙な経験を何度もしていて、今更驚くこともできない、というのが正直な思いだったのかもしれない。しかしながら、そんなベテラン中のベテランでも、貴族の令嬢を道連れにして旅をしたのは初めての経験だった。しかも、ただの令嬢ではない。老人の冴えわたる眼は子爵家の娘の小さな体の中に潜む輝ける精神を見逃がしはしなかった。美しさ、賢さ、気高さ、どれをとっても一級品というべき素晴らしい才能の持ち主というべきだった。
(だが、それが問題なんだろうね。天才というものは、その人を幸せにするよりも、不幸にすることが多いのだからね。この子もそうなんだろう)
老婆が娘の素質を評価しながら、それゆえに危ぶみ、哀れんでいると、新聞に目を落としていたリボンが、いつの間にか声を出すことなくぼろぼろと涙をこぼしているのに気づいた。
(しまった。読ませてはいけなかったかもしれない)
婆さんは今更ながらに後悔する。彼女が娘に手渡した数日前の「デイリーアステラ」の社会面のトップには、
「凶報! アマカリー家の令嬢、山中にて襲わる!!」
という記事がでかでかと載っているのだ。マキスィ都市連合の名門校に入学するために旅立った13歳の娘がアステラとマズカの国境付近に出没する盗賊に襲われてあえなく命を落とした、という内容になっている。記事にはリボンの実名も書かれているうえに、
「大切な姪を亡くして残念でなりません」
という叔父のロベルト・アマカリーのコメントも載っていた。既にリボンから話を聞いていた婆さんは「いけしゃあしゃあとデタラメをぬかしやがる」と真犯人に憤ったものだが、被害者であるリボンはさぞかしショックを受けているだろう、と慰めの言葉を探していると、
「やっぱり本当だったんだ」
と少女が涙ながらにつぶやいたので、何やら様子がおかしいことに気付く。
「それはどういう意味なんだい?」
老婆に訊ねられたブルネットの髪の少女は目をこすりながら、
「おじさまがわたしの命を狙っている、というのがハンスのでまかせだと信じたかったんだけど、やっぱり本当だったんだ、ってわかったんです」
何処でそのように判断したのか、先に記事を読んでいた占い師にもわからずに戸惑っていると、リボンははにかみながら、
「ここを見てください」
と新聞の上部を指差した。そこには日付が書かれているが、
「それがどうしたっていうんだい?」
特に変わったところがあるとも思えないので、首を傾げながら婆さんがもう一度聞くと、
「だって、この新聞はわたしが出発した日、つまりわたしが襲われた日の翌日に出てるんですよ。前の日の夜遅くに山の中で襲われたのを、首都にいる人たちがどうやって知るんですか?」
そういうことか、と老婆もようやく事情を理解する。つまり、このニュースはリボン・アマカリーが襲われて死ぬことをあらかじめ織り込み済みで書かれたようなものだ、ということだ。おそらく、ロベルト本人が自ら発表したのだろう、と占い師は推測する。子爵の座を継ぐべき娘が死んでしまったことにして、一刻も早く後継者としての地位を盤石のものにしたかったのかもしれなかった。
「おじさまったら本当に馬鹿なんだから。そんなに焦らなくてもいいじゃない。というか、わたし、子爵なんか継ぎたくない、って言ったじゃない」
真珠のように輝く雫を両目からあふれさせる少女に、多くの人々の悩みを解決してきた老婆もかける言葉が見つからなかった。危うく死にかけながらも、それでも親族を信じようとした少女に待ち受けていた残酷な事実を前にして、どのような行為も無意味としか思えなかった。
(この子は本当に優しい子だね)
彼女が手にした数多くの美点の中でもそれこそが最も素晴らしいものなのだろう、とテンヴィー老人は肉親の情を断ち切られた痛みに苦しむ娘を黙って見つめ続けた。
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