第34話 運命の暗転(その2)

日付が変わろうとしている頃に、リヒャルト・アマカリーは自邸に戻ってきた。付き人を下がらせて、明かりもまばらな廊下をひとり歩く老人の胸元には、鶏卵ほどの大きさの宝石が赤く輝いていた。「煌炎の真紅石」と呼ばれるルビーで、初代子爵が国王から授けられて以来、アマカリー家の当主の証として代々伝えられている財宝である。

「おや?」

書斎から明かりが漏れているのに気づいた。昼間に出かけるときに消したはずだが、と思いながらチョコレート色のドアを開けると、

「今日はずいぶんと遅くまで起きているな」

思わず顔が綻んだのは、孫娘のリボンがデスクの前に立っているのが見えたからだ。可愛らしく利口な少女を祖父は心から愛していた。リヒャルトの目には後ろ姿しか見えず、早くその顔が見たい、と思いながら近づいていく。

「部屋に勝手に入るのは感心しないぞ」

注意はしたものの、温かい口調のおかげでどれほどの効果があるかは怪しかった。娘の肩に手を延ばそうとしたが、それより先に彼女の方が老人へと左手を差し出してきた。その手には封筒が握られていて、アマカリー子爵は事情を察した。

「そういうことか。ゲオルグめ、また間違えおったか」

執事のゲオルグが届け物を誤配するのは前にも何度かあって、自分に宛てた手紙がリボンのもとに送られてしまったのだろう、と推察できた。わざわざ渡しに来てくれた孫娘に感心しながらも、こんな夜更かしせずに明日持ってきたらいいのでは、という疑問が子爵の胸に湧く。そして、もうひとつ、少女がずっとこちらを向いてくれないのも気にかかったが、ともあれ手紙を受取ろうとすると、

「貴殿の連絡によって、天馬騎士団の軍事行動を未然に防ぐことができた。協力に感謝する」

12歳の娘の口から出たとは思えないしわがれた声が深夜の部屋に響き、リヒャルト・アマカリーは感電したかのように老いた身を硬直させた。

「リボン、おまえ」

ごくり、と唾を飲み込んだ後でようやくそれだけを口にした白髪痩身の貴族に、

「おじいさまのせいなのですね」

振り向いて祖父を見たリボン・アマカリーの顔は涙で濡れそぼっていた。

「おじいさまのせいで、たくさんの人が死んだのですね」

アステラ国王直属の騎士団のひとつである天馬騎士団が、モクジュ諸侯国連邦の国内に潜入しようとした作戦が失敗に終わったと明るみに出たのは、つい1か月前のことだった。リボンが生まれる数十年前から始まった戦争はいまだに終わる気配がなく、膠着状態を打破するために敵国に忍び入り、首脳を暗殺し重要施設を破壊する極秘の計画だったとのことだが、天馬騎士団は国境を越えてすぐに、モクジュの精鋭部隊「龍騎衆」の迎撃を受けて、半数以上の騎士を失い潰走するという醜態をさらしていた。ひそかに進めていたプランが大失敗に終わりアステラ王国の国王以下、政治家、官僚、軍人、そして遅れて事実を知った一般の国民もみな一様に大きな衝撃を受けたのだが、

「何処から情報が漏れたのか?」

それこそが最大の謎だった。ごく一部の限られた人間しか知り得ない、水も漏らさぬ秘匿された作戦だったはずなのだ。犯人探しは当然行われたが、手掛かりは見つからず、何処に敵の間諜スパイが潜り込んでいるかわかったものではない、と国中に猜疑心が蔓延する有様になっていた。

「でも、わかってしまえば、真相はあまりにも単純でしたね」

リボンは震える声で皮肉を隠すことなく笑ってみせようとする。

「おじいさまは作戦のことをもちろんご存知だったわけですから」

国政の中枢に深く関わっているリヒャルト・アマカリーは天馬騎士団の作戦を事前に知らされていたが、それ以上に重要なのは普段の彼がいわゆる「主戦論者」であり、モクジュに対して強硬な姿勢を取っていたことだ。そのような人間が自国を裏切って敵と内通するなど誰も思いも寄らぬことであり、リボンも当然疑いもしていなかった。

「リボン、聞いておくれ。違うのだ」

最愛の孫娘に正体を暴かれたリヒャルトはあからさまに動揺しつつも、どうにか抗弁を試みるが、

「なにが違うものですか!」

少女の手から、ばさばさ、と何枚もの便箋が床に落ちる。

「一度だけのことではないではありませんか。これまでに何度も何度も、おじいさまはモクジュに大事な情報を知らせて来たのではありませんか」

子爵はおのれの迂闊さに舌打ちしたくなる。「向こう」から届いた書類はすぐに処分すべきだったにもかかわらず、なすべき行為を怠ったおかげで少女に発見されてしまったのだ。もはや隠しおおせることも、ごまかすこともできない、と観念した老人は右手で胸を強く抑えつけ、深く瞑目したのちに、

「これは、わしの信念に基づいてやったことだ。金が欲しくてやったことでも、弱みを握られたからやったことでもない」

おまえのような子供にはわからないかもしれないが、と語る男の口ぶりは孫に対するものではなく、権謀術数を厭わず行使する老練な政治家のものになっていた。だが、

「そんなの、わかりたくもありません」

リボンの瞳に燃える怒りと悲しみの炎は消えはしなかった。

「どんなご大層な信念なのか知りませんが、おじいさまのためにたくさんの人々が犠牲になったのです。亡くなられた方とそのご家族に今の言葉をそのまま言えますか?」

不正に対する怒り、弱き者への思いやりが少女の全身から噴き出し、老人のみならず屋敷全体を焼き尽くし、天まで焦がさんばかりの勢いになっていた。国内有数の論客である子爵が絶句してしまうほどに、このときのリボンの憤怒はすさまじいものがあった。そして、

「リボンよ、何処へ行くのだ?」

書斎から足早に立ち去ろうとする孫娘に祖父は慌てて声をかける。このまま帰らせてはいけない。ちゃんと説明してやらなければ。そう思って懸命に弁明しようとするが、

「聞きたくありません」

リボンは短く言い切った後で、

「売国奴の孫に生まれて、本当に恥ずかしい」

嗚咽を漏らす美しい娘に老人はこれ以上何も言えず、彼女が立ち去った後もしばらく顔を上げられずにいた。どれくらい時間が経っただろうか。重苦しい空気が残る広い部屋に一人たたずんでいたリヒャルトは、

(あの子を悲しませてしまった)

黒い革張りのチェアーに腰掛け、脂汗を流しながら自らの愚かさを心底悔やんでいた。この世の何よりも大切な少女を泣かせてしまうとは、いくら懺悔したとしてもし足りなかった。しかし、それにも増して、

(あの手紙を自力で解読したというのか)

孫の聡明さに驚いていた。確かにモクジュからの連絡文には暗号が隠されていたが、それはある種のコードを理解していなければ読み解けない仕組みになっている。それを12歳の子供が初見で見破ったのだ。賢いどころではない。賢すぎるというべきだった。

(リボン。わしはおまえを誰よりも愛している。それだけはどうか信じておくれ)

苦しげな表情を浮かべ、胸に右手の爪を立てながら、リヒャルト・アマカリーは壁に掛けられた絵を見つめた。幼い娘の笑顔が描かれた水彩画だ。リボンが5歳の頃に自ら絵筆をとって仕上げた思い出深い一枚の絵を見つめる子爵の目から涙が一粒こぼれ落ちる。その瞳は悔悟と苦痛に満ちていたが、それだけではなく「やるべきことをやらなければならない」という決然たる思いも確かに含まれていた。


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