第33話 運命の暗転(その1)

「あの日のことはよく覚えている」

椅子に腰掛けたセドリック・タリウスは熱いお茶の入ったティーカップを両手で持ったまま呟いた。雨に濡れたジャケットは脱いでいた。

「というよりも、忘れられるはずがない、と言った方が正確なんだろうな。きみにプロポーズした日なんだ。わたしにとって、何物にもかけがえのない時間だったんだ」

微笑みながら顔を上げて、

「きみも覚えてくれていたのなら、うれしいのだが」

テーブルの向かい側に座ったリブ・テンヴィーを見つめた。すると、女占い師は憂い顔をして、

「わたしも覚えているけど、あなたとは違ったかたちで覚えているわ」

とだけつぶやいた。

「どういうことなのかな?」

眉をひそめて訝しむセドリックに、

「これからちゃんと話そうと思ってる。こうなった以上、わたしの身に起こったことを、あなたにみんなわかってもらうつもりだから」

リブは赤い唇をわずかに歪める。彼女の過去を知ることを心から望んでいたが、願いが叶おうとしている状況で、セドリック・タリウスは心の奥底でごくわずかに怯えがあることを自覚せざるを得なかった。目の前の美しい女性が彼が想像していたよりもはるかに深刻な事情を抱えていることを、ようやく理解しつつあったからだ。


もう既に外は暗くなり、明かりが灯された屋敷の廊下を、リボン・アマカリーはきびきびと歩いていた。夕方にタリウス家から自邸へと戻って、一人きりの食事を済ませたところだった。

「おじいさまはまだお帰りにならないの?」

すぐ後ろを歩いている侍女のジェンナに訊ねると、

「はい。ご友人から会食に招待されていると伺っております」

少女が生まれる前からアマカリー家に仕える中年の女性が答えると、リボンは「ふーん」と小さな声を出した。リヒャルト・アマカリーは多忙を極める身であり、屋敷を留守にすることは珍しくなかったが、それでもいつもかわいがってくれている祖父の不在を寂しく思った。

「まあ、いいか。どうせ明日の朝には会えるから」

それでも今日はさほど気分が沈まないのは、昼間にセドリック・タリウス少年から告白された興奮が少女の小さな体からいまだに消えやらずに残っているせいなのかもしれない。自室の扉までたどりつくと、

「じゃあ、もう大丈夫だから。ジェンナ、あなたもゆっくり休みなさい」

「おやすみなさいませ、お嬢様」

メイドはうやうやしく頭を下げる。召使たちにもまるで偉ぶるところのない令嬢は、

「リボンお嬢様が後を継いでくだされば、アマカリー家の将来も安泰だ」

と家内でも絶大な支持を得ていた。おやすみ、と返事をしながらリボンは部屋の中に入る。

「さて、と」

寝るまでにまだ時間はある。本を読もうか、予習でもしようか。今日の出来事を記しておくのもいいかもしれない。

(セディったら、あんな恥ずかしいことを言っちゃって)

タリウス家の少年の熱烈な愛の言葉を思い起こして、くすくす笑いながら足を踏み出した少女のつまさきに、かさっ、と何か軽いものが触れた。

「なにかしら?」

まだ明かりをつけていないので正体がわからないが、絨毯から拾い上げるとどうやら手紙らしい、と見当がついた。机の上のランプを点灯してよく見てみる。やはり白い封筒だった。人付き合いに積極的でない彼女にも、パーティーや舞踏会の招待状はたまに来ることがあるので、今度もそのようなものだろう、と思いながら銀のペーパーナイフで開封して便箋を取り出す。

「あれ?」

リボンは不審げに首を傾げた。手紙の文面がきわめて簡素で事務的なものだったからだ。ある種の業務連絡のようなものだろう、と推測はできたが、わたしみたいな女の子にこんなものを送られても、と思ったそのとき、

「やっちゃった」

少女は自らの失策に気付く。封筒の表を見てみると「リヒャルト・アマカリー様」という宛名があるではないか。つまり、これは彼女の祖父に向けて出されたものだったのだ。

「ゲオルグったら、またやったのね」

アマカリー家に配達された郵便物は執事のゲオルグが管理することになっていた。主人の信頼の厚い彼は基本的には優秀な男だったが、たまにつまらないポカをすることがあって、祖父への手紙が間違って孫娘に届けられたこと、またはその逆になったこともこれまでに何度かあった。リボン(Ribbon)とリヒャルト(Richard)、頭文字だけで判断するからそうなるのではないか、と思ったが、

「でも、ちゃんと確認せずに開けたわたしの方が悪いから」

と外見だけでなく内面も美しい少女は、家来を必要以上に責めたりはしなかった。おじいさまが帰ったら届けに行こう。そんなに怒られることはないはずだ、と思いながらも、リボンは違和感を胸の内から消せずにいた。その原因になっているのは、さっきちらっと見た手紙だ。自分に向けて出されたものではない、というのを承知しながらも、令嬢は再び便箋に目を落とす。

(なんだか変ね)

一見、なんてことはない文章だと思われたが、よく読んでみると、ちょっとした言い回しや助詞の使い方がどうもおかしかった。だが、その一方で手紙を書いた人間がそれなりの知性を備えているのも感じられたので、妙な話だが、のではないか、とリボンには思われた。

(でも、どうしてそんなことを)

不自然な文章をわざわざ書く意味が分からず困惑する少女の紫の瞳が不意に強く輝いた。慌て気味に愛用しているノートとペンを引き出しから取り出すと、机上に広げて何かを書き留め始める。それは知的好奇心と悪戯心に突き動かされての行為だったが、

「あんなことをしなければよかった」

と後になって彼女は何度となく悔やむことになる。あの夜、あのまま祖父に手紙を届けていれば、自分には違う未来があったのかもしれない、と思わずにはいられなかった。



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