第134話 母と娘(後編)

鈍い光を放つ金属の鋏が自分の右手から離れ、音もたてずに絨毯に落ちたのを高熱に潤んだ瞳でセシルは見つめた。握力が失われた白い掌が震えている。もはや自分には娘の髪を整えてやれるほどの体力も残っていないのだ、と思い知らされ、そんな母を振り返ったセイも心配そうに眺めていた。

「奥様、後はわたしがやりましょう」

黙り込む親子を見かねたのか、年配のメイドが一歩前に進みながら声をかけてくる。

「そうね、タバサ。お願いするわ」

いつも自分のヘアメイクを担当してくれている彼女なら心配要らない、と思いながら、白いシーツの掛けられた広いベッドに貴婦人は腰掛けて、

「でも、急いでちょうだいね」

と言い添えると、「かしこまりました」と忠実な使用人は表情を変えることなく頷いた。タリウス家の家督はもう間もなく彼女の夫であるアンブローズから息子のセドリックへと受け継がれることになっていて、今日は親子揃ってその挨拶のために知人の邸宅を訪れていた。セイが騎士になるのを反対している両者がともに屋敷を不在にする機会はあまりないので、娘を送り出すとすればこの日しかない、とセシルは前から決めてひそかに準備を進めていたのだ。あまりにも美しすぎるがために見落とされがちだが、彼女はかなり優秀な頭脳の持ち主だった。

(セディにもかわいそうなことをしている)

母は娘だけでなく息子にも惜しみなく愛情を注いでいて、それだけに今のセドリックのありように胸を痛めていた。「すぐにでも後を継ぎたい」と少年が強く言い出したとき、両親は共に困惑した。息子はまだ18歳で、家の継承は後継者が成年に達してから、というアステラ王国の慣例から外れるものであったからだ。しかし、そう言い張るセドリックの気持ちは痛いほどわかったので、父と母は特に反対することなく彼の意思を尊重して、その提案を認めることにした。セシルの寿命がもはや1年も残されていない、とかかりつけの医者から知らされたのが少年を突き動かしているのはあまりにも明白だった。

「母上がお元気なうちに立派な姿を見せたい」

最愛の母を安心させたいと気丈に振舞うセドリック・タリウスの容貌にまだ幼さが残り、身体も痩せっぽちで成長しきっていないことがセシルを余計に悲しくさせた。子供がまだ一人前になっていないのに、離れていかなければならない口惜しさで胸がいっぱいになり、収まりきらずに溢れ出しそうになる。とはいえ、息子の行動が彼女を決断に導いたのも確かであった。

(セイのこともちゃんとしてあげないと)

セドリックはきっと大丈夫だろう。未熟ではあるが、父親の助けも借りて、いずれは立派な貴族になれると信じていた。そうなると、娘の将来も今のうちに確かなものにしておきたかった。アンブローズもセドリックもセイが騎士になることを決して認めはしないだろう。自分がいなくなったら彼女の夢を応援してやれる人間はいなくなってしまう。だからこそ、セシルは今こうして娘を外の世界へ解き放とうとしているのだ。

「まあ、可愛い」

散髪を終えたセイに美しい淑女は立ち上がって近づく。タバサの技術は見事なもので、セシルが乱雑に切ってしまっていたのが嘘のように、髪は美しく整えられていた。とはいうものの、

「少し短すぎません?」

新しい髪形は少女のお気に召さないようだった。前髪が短くなったおかげでおでこは丸出しとなり、後ろ髪を刈り上げられて、一見すると男の子だと勘違いしてしまうヘアスタイルになっていた。

「いいじゃない。とても似合ってる」

騎士団に入る以上、女の子らしい長い髪は邪魔になるだろう、と思って切ることにしたのだが、自分一人だけでやり遂げられなかったことをセシルはいくらか残念に思っていた。考えてみれば、子供たちに料理を作ったこともなければ、服を繕ったこともなく、母親として何かをしてやれた、という自信はあまりない。貴族の女性が自ら家事をしないのはこの時代としては当たり前なのだが、母性愛に満ちた彼女がもっと子供の世話を焼きたかったと思うのは無理からぬところなのだろう。ただし、その代わりに限りない愛情を注いだつもりで、それは決して失われることはないはずだと信じていたし、その思いが子供たちの行く手を照らす光になることを祈っていた。

「でも、本当にわたしは騎士団に入れるのですか?」

正直なところ、出発を目前にしてもセイは半信半疑のままだった。自分のような女の子を王国の騎士団が迎え入れてくれるのだろうか。

「大丈夫よ。スバルくんなら絶対に悪いようにはしないから」

母は月のような清らかな微笑みで娘の不安を打ち消そうとする。彼女の言葉に嘘はなく、セイが騎士団本部を訪れると、

「きみがセシルの娘か」

前もって連絡が行っていたのか、いかにも真面目そうな中年の騎士団長が少女の前に現れ、

「まったく、相変わらず無茶な頼みごとをしてくる」

にこりともせずに、それでも何処か嬉しそうにしてセイを追い返すことなく迎え入れたのだ。後になって、

「団長は母上とお知り合いだったのですか?」

とセイはオージン・スバルに何度も訊ねたのだが、

「昔、ちょっとした縁があったのだ」

としか答えてくれなかった。もちろん、満足のいく返事ではなかったが、「蒼天の鷹」と呼ばれる勇者でも手の届かない遠い空を懐かしむかのような表情をされては、少女騎士もそれ以上何も言えなかったし、彼の寂しげな瞳が何よりの答えだ、という気がしていた。

「奥様、そろそろ行きませんと」

タバサが顔色を変えずに告げた。少女を王都チキまで送り届ける馬車が屋敷の裏手に到着する時間が迫っていた。

「ああ、セイジア。可愛いセイ」

「母上!」

永遠の別離を目前にして母娘はしっかりと抱き合う。言葉もないままに、互いの記憶を刻み込むかのように身体を重ねる2人の姿に、離れた場所で見守る忠実にして冷静なメイドの眼も濡れて揺れる。

「ねえ、セイ。約束してほしいんだけど」

「やくそく、ですか?」

ようやく離れた少女に母は優しく微笑みかける。

「ただ騎士になるだけじゃつまらないから、この国で、いいえ、この大陸で一番の騎士になってごらんなさい。あなたならきっと最強の女騎士になれるはずよ」

死病に取りつかれる前と何ら変わりない女神のような笑顔に、セイは一瞬だけ涙を忘れて、

「わかりました! このセイジア・タリウス、母上の仰せの通り、最強の女騎士になってみせましょう!」

ぴしっ、と見事に姿勢を決めた妖精のように愛らしい少女に、

「それでこそ、わたしの娘よ」

セシルは音もなく手を叩いて喜んだ。そして、

「タバサ、後はよろしくね」

「かしこまりました」

懸命に涙をこらえるメイドは震える声で返事をすると、一足先にドアを開けて廊下へと出る。

「それでは、母上、行ってまいります」

「行ってらっしゃい。しっかり頑張ってね」

精一杯元気を出して笑おうとして我慢できずに泣いてしまっている顔が、セシルが最後に見たセイの姿だった。ばたん、と黒く頑丈な扉が閉められたのと同時に、旅立つわが子に向かって振られていた手の動きが止まり、貴婦人は激しく咳き込みながらベッドに倒れ込んだ。娘との最後の別れのためにどうにか踏ん張っていたが、もはや彼女の力はほぼ尽きかけていた。そして、緊張の糸も断ち切られて、声を上げて涙を流していた。覚悟はしていたはずなのに、それでも可愛いわが子を手放すことがこれほど辛いなんて。半身をもぎ取られたかのような痛みに母は泣き叫ぶことしかできない。しかし、それでも、歯を食いしばり、最後の力を振り絞ってセシル・タリウスは起き上がる。部屋の窓からセイを乗せて出発する馬車が見えるはずだった。嘆き悲しむのは見送りを終えてからでいい。ふらつきながらも、雨粒で濡れて曇った窓に貴婦人は近づく。押し寄せる冷気を感じながら外を見つめると、黒塗りの二頭立ての馬車が停まっているのが見えた。御者があわただしく準備をしているところを見ると、セイはもう乗り込んでいるらしい。そして、少女を乗せた馬車は音もなく走り出し、その影はすぐに小さくなっていく。

(愛しいセイ。わたしはいつでもあなたのそばにいるからね)

暖かな涙が一筋頬を伝ったのを感じたそのとき、セシルの全身から力が抜けて、もう立ってはいられなくなった。

「奥様!」

伯爵夫人が倒れ込んだ直後に部屋に戻ってきたタバサが絶叫する。そのまま危篤状態に陥ったセシル・タリウスは時折意識を回復させたものの、再び起き上がることのないまま、それから1か月後にこの世を去った。


(逝ってしまったか)

アンブローズ・タリウスから急ぎの連絡を受けたオージン・スバルはセイに母親の死を告げるために団長室を出た。つらい役割だが果たさないわけにもいかず、千々に乱れた思いを押し隠しながら騎士団本部の外に出る。新米の騎士を探す必要はなかった。雨が降りしきる練兵場の隅でひとり素振りを続ける少女の姿をすぐに見つけたからだ。

「おい、セイ」

近づこうとした天馬騎士団団長はその足を止めた。

「えい! えい! えい!」

鬼気迫る様子で剣を振り続ける金髪の少女の咽喉から悲痛な叫びがほとばしり、その目からは涙がとめどなく流れ落ちているのが遠くからでもわかる。とても声をかけることはできない。

(そうか)

スバルもまた部下と共に雨に打たれ、身体を濡らしていく。

(セイ、おまえにはわかったんだな)

遠く離れていても、親子の間にある見えないつながりが、愛する人の死を知らせたのだろう。戦場で生きている間に、幾多の不思議な経験をしてきた歴戦の騎士は特に驚きもせずに、

(きみによく似て強い子だ。わたしが傍にいるから、どうか安心してくれ)

重く垂れこめた雲を睨みつけ、その上で見守ってくれているはずの美しい女性に思いを馳せていた。


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