第125話 少年騎士、温泉に入る(前編)

「ふう」

朝の光に包まれてようやく明るくなり出した山の中で、アリエル・フィッツシモンズは一息ついてから、頭上を見た。青々とした葉を付けた枝が広がっているのが、朝靄と湯煙でかすんで見えた。今、彼は肩まで温泉につかっているところで、

(一体どうしてこうなったのか)

とハニガンの家で絶望に沈んでいたほんの1時間ほど前には想像もしていなかった状況の変化に大いに戸惑っていた。とはいうものの、長旅で強張っていたうえにセイジア・タリウスとの激闘で披露していた全身の筋肉がほどよい湯加減でほぐれていく心地よさはなんともいえないもので、いつも細かいことを気にする少年も今は難しいことを考えられずにいた。そして、

(ナーガさんはいい人なのかもしれない)

とも思った。彼を朝食に誘ったナーガ・リュウケイビッチは、食事が済んだ後で、

「どうせなら身ぎれいにしていくといい」

と近くにある温泉に入って行くように言ってくれたのだ。どうしてまたそんなことを、とかつての敵国の少女騎士の考えがわからずに当惑したが、彼女は底意なく親切心だけで話しているのがなんとなくわかったので、素直に言うことを聞いたのだ。加えて、ナーガにはさっき叱られたばかりで頭が上がらない気がした、ということもあったのだが。

(こういうことをしている場合でもないんだけどな)

そう思いながらまた一息ついた。少なくともお昼までにはジンバ村を出ないと、休暇が終わるまでに王都チキに帰り着くことができないし、それ以上にセイジア・タリウスに謝らないといけなかった。しかし、あんなことをしでかして、どの面を下げて謝ればいいのか、優秀な少年にもそれはわからなかった。そうやって思い悩んでいると、

「いい湯だろ?」

だしぬけに背後から声が聞こえたので振り返ると、

「わたしも三日に一度はここに来るんだ」

セイジア・タリウスが木の幹に背中をもたれさせてこちらを見ていた。デニムを履き、袖を肘までめくり上げた青いワイシャツを身に着けていて、早朝でもやはり美しい姿だった。思いがけない人物の登場に唖然としてから、

「うわーっ!」

とアルは叫びながら湯に頭を沈め、数十秒後に浮上すると女騎士を恨めしげに睨みつけた。

「おいおい。大の男が何を恥ずかしがってるんだ?」

少年の慌てようにセイは苦笑いするが、

「男だろうと女だろうと恥ずかしいものは恥ずかしいんですよ」

彼の顔が赤いのはのぼせているだけではなく羞恥心のせいでもあるに違いなかった。以前からそうだった。着替えしている時でも入浴している時でもお構いなしに、この金髪の騎士はどかどかと踏み込んでくるのだ。このデリカシーのなさはいかがなものか、とここにはいない「蛇姫バジリスク」に同意したくなったが、それよりも先に言うべきことがあるのはわかっていた。

「ゆうべはすみませんでした」

だから、謝罪した。そう言われたセイは小さく頷いて、

「取り乱して逃げ出したのはおまえらしからぬ振舞いだったが、わたしも少々怒りすぎた。だから、おあいこ、ということにしておこう」

粘着質な性格でもない女騎士は少年の詫び言を素直に受け入れたが、

「いえ、元はと言えば、ぼくとシーザーさんが決闘したのが悪かったわけですから。そのこともすみませんでした」

アルにもう一度謝られると、

「まあ、その件は今でも正直引っかかってはいるんだが、おまえに関しては立ち合ってやっつけたから、許すことにする。ただ、シーザーのやつにはむかついてるから、次に会った時にボコボコにすることにする。あいつ、馬鹿な癖に隠し事なんかして、本当にどうしようもないな」

上官への制裁が決定されたのに、部下の少年騎士も熱湯に入っているにもかかわらず体温が下がるのを感じてしまう。

「でも、安心したよ」

セイは遠くの空を見上げながらつぶやく。

「せっかくおまえが都からはるばる来てくれたのに、喧嘩したまま帰られたら後悔しただろうから、そうなる前に仲直り出来て本当によかった」

深い思いやりが込められた言葉を聞いて、

「ぼくもそう思います」

アルも頷く。

「ナーガはいいやつだろ?」

セイがいきなり違う話題を振ってきたので「はい?」とアルが訊き返すと、

「おまえがここにいる、というのも、あいつに教えられたのだが、おまえはあいつを警戒しているようだったから、それは誤解だと言っておきたいんだ」

ほんの2年前まで戦っていた相手を警戒しない方がおかしい、というものだったが、

「いえ、それは直接話をして、ぼくもわかってますから」

と答えた。食事と風呂の面倒を見てくれた人間を悪く思えるほど、この少年はひねくれてはいない。

「だったらいいんだ。そこでおまえに頼みたいんだが、ナーガとモクジュから来た人たちを助けてあげてほしいんだ。シーザーにも一応頼んでおいたが、こういうことに関してはおまえの方が頼りになるからな」

セイに頼られたこと、シーザー・レオンハルトよりも上だと思われていることを嬉しく思って、

「なんとかやってみます」

とアルは答えたが、そうでなくてもモクジュの避難民たちを抛っておくつもりはなかった。一緒に朝食を摂っていても、彼ら彼女らが困窮しているのは目に見えてわかってしまい、高貴な者の責務ノブレス・オブリージュを自らすすんで負っている少年騎士が見過ごせるはずもなかったのだ。

「そうか。ありがとう」

セイの顔がほころんだのをアルも嬉しく思ったが、

「ただなあ、おまえには、ひとつだけ言っておかねばならないことがあるんだ」

気まずそうに頬を掻きながら女騎士がつぶやく。

「ぼくにまだ何か至らない点がありましたか?」

と訊くと、

「まあ、こちらとしても言いにくいことなんだが、ちゃんと注意しておきたいのでな。さっきの話に戻るが、ゆうべ、おまえが取り乱したときに、おまえはわたしを押し倒してから、それからその、なんというか、わたしに何かをしようとしたよな?」

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