第98話 脱出行の後で(中編)

シーザー・レオンハルトの素振りはそれから何時間も続いた。最初は見守っていた黒獅子騎士団の仲間たちも付き合い切れなくなって、テントへと引き上げていった。既に深夜になり、煌々と松明のともる陣地で起きているのは少年の他は、見回りを担当する当番の兵士くらいのものだった。

「もう休んだ方がいいんじゃないか?」

頑張りすぎる後輩を見かねて衛兵はそんな風に声をかけたが、脇目もふらずに槍を振り続ける駆け出しの騎士には応える余裕もないようで、「よくやるもんだ」と呆れたように苦笑いして当番の男は巡回を続けるためにその場を離れていった。

(おれは弱い)

その思いだけがシーザーを駆り立てていた。少女を守り通せなかったこと、逆に少女に助けられたこと。それがどうしようもなく悔しくて、ただひたすらに槍を振ることしかできなかった。少年騎士も長い間森をさまよっていたおかげで疲労の極みにあった。そんな状況で闇雲に身体を痛めつけたところで強くなれるはずもない、というのはわかっていた。しかし、だからといって、横になって休んでいたところで何も変わりはしない。それならば、少しでも何かをしていたい、とてもじっとしてはいられない、という渇望にも似た凶暴な情動が少年を突き動かす。あるいは、今行っているのは鍛錬ではなく弱い自分への罰なのかもしれなかった。

ぴたっ、と不意にシーザーの動きが止まった。流れ落ちた汗でできた水たまりの真ん中に立ち尽くして、黙ったまま前方を睨みつける。

(違う。そうじゃない)

自分は間違っている。突然そう思ったのだ。といっても、夜中に素振りをしていることが間違いだというわけではない。やりかたの問題だ。根本的な部分でずれを感じたから、少年は今動けずにいる。誤った土台の上にいくら積み上げようとも、それは徒労に過ぎない。基礎から見つめ直す必要があった。

(スバルさんはそうじゃなかった)

シーザーに気づきを与え、模範になってくれたのはオージン・スバルだった。夕刻に目撃したばかりの騎士の凄絶な戦いぶりが脳裏に焼き付いていた。あのとき、スバルが用いていたのは剣で、今シーザーが手にしているのは槍だが、得物の違いは関係ない。戦いにあたっての姿勢を「蒼天の鷹」から学ぶべきだった。

(確か、こうだった)

少年は今一度構えを取り直す。もちろん、騎士として修業を始めるにあたって、構えは最初に教えられていて、今までは正しく構えられているつもりだった。しかし、そうではない、と気づいていた。間違ってはいないが、かといって正しくもなく、せいぜい「おおよそ正しい」といったところだ、と若者は気づかされていた。オージン・スバルの構えこそが本当に正しいものなのだ。正しいからこそ、あの騎士は人間離れした強さを誇っているのだ。あの構えをできなければ、本当の騎士にはなれない。そう感じたシーザーは正しい構えを探るべく、もう一度槍を構え直した。

「正しい」と「おおよそ正しい」の間は極めて近いように見えて、実際のところ埋めがたい懸隔があるのだ、ということを少年はすぐに思い知らされた。わずかなずれでまるで違ってしまう。顔の向きで、指の位置で、ほんの些細な違いで全く正しくなくなってしまう。いや、それどころか、脳も内臓までもあるべき場所に置き正確に動かす必要がある、とわかった。そして、何よりも心が正しくなければ構えも正しくならない、とシーザーは悟った。あっちへふらふら、こっちへふらふら、おのれの心が根無し草のようにさまよい続けていたのに少年は気づく。風に吹かれるたびに踏みとどまることなく右へ左へと動く頼りなく情けない心だ。だが、いつまでもそのままでは嫌だった。弱い自分とおさらばすべきだった。それをやるのはいつか、と問われれば、「今だ」と力強く答えたかった。そう思っていると、

(あれ?)

いつの間にか身体がぴくりとも動かなくなっているのにシーザーは気づく。といっても、それを悪いようには思わなかった。まるで自分がひとつのレンガになって、壁に嵌め込まれたかのような感覚をおぼえていた。巨大な建築物の一部として、世界にしっかりつながれたような気がした。

(これか? これでいいのか?)

少年騎士は自分に問いかけるが、たぶんこれが「正しい」のだろう、と自分でもわかっていた。定まった場所で寝起きしたことがなかった、家族を持たなかった彼が生まれて初めて充足感を味わっているのが何よりの答えのはずだった。と、そのとき、

「自力でつかみおったか」

明かりの届かない暗がりから近づいてきたのは、

「親父?」

ティグレ・レオンハルト将軍だった。息子が素振りを始めてから、老騎士はずっとその様子を見つめ続けていたのだ。

「それでやっと騎士として半歩踏み出した、というところだ。今までの調子だと一生変わらん気もしたがな」

この馬鹿息子め、と毒を吐かれて、

「『一歩』じゃないのかよ」

とシーザーが反撃すると、

「構えは悪くないが、握りが良くないわ」

と軽く笑い飛ばしてから、

「槍から一度手を放してみろ」

と息子に告げた。少年騎士は言われた通りにしてみようと試みたが、

「あれ? あれ?」

得物をつかんだ両手が糊付けしたかのように動かなくなっているのに気づいた。あまりに長く稽古し続けたせいだろうか、と思っていると、

「強く握りすぎるからそうなるのだ、馬鹿者め。正しく握っていれば、いかに長く振るおうが、そうはならん」

そう言うと、将軍は息子の両手をとって、指を槍から引き剥がしていく。一本一本離れるたびに激痛が走る。

「痛って! もっとそっとやってくれよ」

涙目になって懇願するシーザーだったが、

「自業自得だ。見ろ、掌も指も皮が破れて血が出ておる。これがおまえの未熟さの表れだ」

10本の指が槍から離れると、少年は赤く染まった掌を見つめてから、

「でもよ、しっかり握ってないとすっぽ抜けちまうじゃないか」

と反論する。

「話をちゃんと聞け。強く握りすぎるのがいかんのだ。しっかり握りつつも、常に余裕を持たせることが肝要なのだ」

わけわかんねえ、と文句を垂れながらも言われた通りにやってみようとするが、

「そういうことなら、もっと早く教えてくれよな」

ぶつくさ言っていると、

「聞く耳を持たなかったのは何処の誰だ」

あっさりカウンターを食らう。確かにその通りだった。父は一から教えてくれようとしていたのに、厳しい指導に音を上げて逃げたのは自分の方なのだ。

「悪かった」

だから、素直に頭を下げたのだが、将軍は何も言わずに黙ったままだったので、仕方なく槍を正しく握ろうと試みる。

(わしの方こそ、よくない父親だった)

老騎士もまたひそかに反省をしていた。成り行きで少年を拾って育てることになったが、我が子が間違いを犯しても、殴りつけるばかりで適切な言葉をかけることができないでいるのを、内心歯がゆく思っていたのだ。「アステラの猛虎」と呼ばれる男でも子育ては容易なものではなかった。このままでは息子の未来は危うい、と案じていたのだが、彼は自分から正しい道に戻ってきてくれた。だから、今度こそ父親らしい振舞いをしなければならなかった。

「うむ。それでいいだろう」

シーザーの握りと構えが正しいものであるのを確認して将軍は頷いてから、

「では、しばらくそのままにしていろ。構えと握りを身体に覚え込ませるのだ。何があっても二度と忘れぬようにな」

「わかった」

集中しきったシーザーは父の顔を見ずに返事をする。松明に照らされたまだ幼さの残る横顔を見つめながら、

(わずかな間に人というのは変わるものだな。セイジアと逃げている間に思うところがあったのだろう)

少年の確かな成長を感じて目を細めると、

「ほどほどにしておくのだぞ」

と告げてから、テントへと戻ることにした。明日は早朝から行軍を開始する予定になっている。休息をとり身体をいたわるのも騎士の大事な役目だった。


短く浅い眠りから覚めると、将軍は手早く鎧を身にまとい、テントから出た。早朝の空気は冷たく、秋の訪れを感じさせたが、何やら宿営地がざわついているのに騎士団長は気づく。出発の準備をしていることもあるのだろうが、そればかりでもない、と歴戦の勇士の勘が告げていた。人だかりのしている方に近づくと、

「何があった?」

副長に訊ねると、将軍がやってきたのに気づいた騎士たちが一斉に礼をとった。

「あ、これは閣下、おはようございます」

「挨拶はいいから、何があったかを教えろ」

「いえ、それが」

真面目な性格の副長が少し困った顔をして前を指差した。その方向を見て、

「あやつめ」

将軍は思わず苦笑いをする。彼の視線の先では、シーザー・レオンハルトが槍を構えていた。夜中に覚えたばかりの構えをしていたが、少年騎士の瞼は閉じられ、眠りこけているのが遠目でもわかった。

(ほどほどにしておけと言うたであろうに。加減を知らぬ青二才が)

心中で憎まれ口を叩きながらも、息子を見守る男の顔はまぎれもない父親のものになっていた。

「いかがいたしましょう?」

おろおろしながら訊いてきた副長に、

「抛っておけ。飯を用意をすれば勝手に目を覚ます」

そう言うと、いつになく満ち足りた表情をしたまま、ティグレ・レオンハルトは立ち去って行く。眠ってもなお構えを取り続けた少年騎士の根性を他の騎士たちも大いに認め、その日からシーザーは本当の意味で黒獅子騎士団の一員となれたのかもしれなかった。

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