第96話 ふたりの脱出行(その10)
騎乗したまま、ボスが乗っていた鹿毛の馬の手綱を引いてスバルは少年と少女の元へ戻った。
「シーザー、おまえはこれに乗るといい。セイを渡してくれ」
そう言われると、少年騎士は頷き、抱きかかえていた娘を男に寄越してきた。
(軽いな)
病んでいることもあるのだろうが、もともと成長しきってはいない娘が眠りこけているのをスバルは何処か痛ましく思った。この森を抜けるまで、それだけでなく一人前の騎士になるまでしっかり守ってやらねばなるまい、と改めて心に決めて強く抱きしめると、
「どうかしたのか、シーザー?」
少年が立ち尽くしたまま肩を震わせているのに気づいた。泣いているのだ。もう危機は過ぎ去ったというのに、何を泣くことがあるのか。わけがわからずに見つめていると、
「すみません、スバルさん」
いきなり謝られた。
「よくわからないな。おまえに詫びを入れられるようなことをされた覚えはないが」
「だって、おれのせいでセイがこんな目に遭って。それなのに、おれはセイを守れなくて、逆に守られて」
ううう、と嗚咽を漏らしてから、
「おれ、自分が情けなくてしょうがないんです。スバルさんにセイのことを頼まれたのに、何もできなくて」
その後は言葉にならなかった。泣きじゃくる後輩騎士を見やって、
「なあ、シーザー」
優しく声をかけながら、スバルが兜のバイザーを押し上げると、苦み走った整った風貌が現れた。
「確かに、わたしはおまえに『セイを頼む』と言ったが、無茶を言ったつもりはない。一人で敵を全滅させろ、とか、空を飛べ、とか、星になれ、とか言ったつもりはない。おまえが出来る限りのことをやってくれればそれでいいんだ。そして、おまえはセイをちゃんとわたしのところに連れてきてくれたじゃないか」
それだけで十分だ、と言ったが、「でも、でも」とシーザーは納得しない。少年の気持ちはスバルにも痛いほどわかった。出来る限りのことをしたところで少女を守り切れなければ、命が失われてしまえば、何の意味もないのだ。戦場に明日はなく今日しかない。「次は上手くやるさ」などという安易な考えが通用する場所ではなかった。
「悔しいか」
穏やかな声で投げかけられた問いに、少年騎士は泣きながら頷く。
「だったら、その気持ちを忘れずにいることだ。そうしたら、おまえは必ず強くなる」
ぽん、と肩に手を置くと、シーザーの身体の震えが一瞬で止まった。「蒼天の鷹」の輝く勇気が少年にも伝わったかのようだ。
「わかったなら、もう泣くな。セイに笑われるぞ」
そう言うと、黒い短髪の少年は、ようやく顔を上げて、気まずそうに頭を掻いた。
(閣下、心配要りませんよ。この子はきっと立派な騎士になりますから)
オージン・スバルとティグレ・レオンハルトは同じ騎士団長として酒を酌み交わすことがたまにあったが、そのたびに、
「うちの馬鹿息子はどうにもならん」
と愚痴を聞かされるのが恒例の行事になっていた。
(どういうわけか、わたしはこの子を気に入っている)
スバルは平民の出で、裕福とは言えない少年時代を送っていたので、それで孤児だったシーザーに共感しているのだろうか、と思ったが、それよりも一個人として少年に好感を抱いている、という方が正しい気がした。謹厳実直な騎士が喧嘩ばかりしている悪童に目をかける、というのも妙な話だったが、それで言えばこの世界そのものが妙に出来ているのだから仕方がない、ともスバルは思った。
「さあ、早く帰ろう。セイを医者に診せたいし、レオンハルト将軍も心配されている」
「親父がおれなんかを心配しますかね」
「そりゃするに決まっている。閣下は優しいお方だ」
「その優しいお方に、おれは毎日殴られてるんですけど」
馬にまたがりながら少年が溜息をつくと、
「おまえのことを思っているから殴るんだ。悪く思うんじゃない」
そんな痛い愛情は要らない、とシーザーはもう一度溜息をつく。陣地に戻ったらまた罰として殴られるはずだったが、そうされないわけにもいかないのだろう。2頭の馬が並んで走り出す。病気の少女を乗せていることもあって、それほどスピードは出ていない。しばらく走っていると、いつしか木立はまばらになり、空がよく見えるようになった。
「おお」
満天の星空を見上げてスバルが思わず感嘆の声を上げる。シーザーもあまりの美しさに見とれてから、さっきまで少女と一緒に必死で逃げ惑っていたことが、そして自分たちを追いかけていた男たちが全て血を流して死んでいったのが嘘のように思えた。だが、それが事実であることに変わりはなく、逃走の中で自分が役に立てなかったことにも変わりはなかった。
(おれはなんてちっぽけなんだ)
銀河がまるごとのしかかってくるかのような夜空の下で、シーザー・レオンハルトはおのれの卑小さを改めて痛感させられたが、それでも自分自身を乗り越えようとする意志も目覚めつつあった。尊敬する騎士にかけられた言葉を、そして肩に優しく置かれた手を裏切るわけにはいかない。そんな思いを抱いた少年は、強い向かい風にも俯くことなく、しっかり前を見据えたまま父の待つ陣地へと向かおうとしていた。
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