第89話 ふたりの脱出行(その3)
あたりはすっかり暗くなっていた。優れた身体能力を持つシーザーは夜でも全く視界が利かない、ということはないが、それでも足場の悪い森の中を歩くためには明かりが欲しかった。だが、今の自分たちは追われている身だ。
(とっとと諦めてくれてりゃいいんだが)
少年は心中で掃き捨てたが、楽観的と悲観的、どちらに賭けるか、と言われれば迷うことなく後者にオールインするのがシーザーの習性だった。孤児として不幸な少年時代を送った彼にとって、世界は悪い方向に進むのが当たり前だったのだ。だから、敵は今でも執拗に自分たちを追いかけてきている、と思わざるを得ない。夜を徹して歩き続けるか、それともいったん休憩をとるか、難しい判断を迫られていた少年騎士は、
(あいつの考えはどうかな)
と同行者に話を聞いてみることにしたのだが、そこで一緒に歩いていたはずのセイジア・タリウスの姿が見えないことに気が付いた。「え?」と慌てたのは一瞬で、彼女はすぐに見つかった。後ろの方で膝をついて、肩で息をしている。
「悪い。もう動けそうにない」
いつになく弱々しい声を聞いて、「なんだよ、だらしねえな」と思いながら近づいてみて、少女の異変に気が付いた。夜目にも顔が赤いのがわかる。ただごとではない。額に手を当てると、
「すまない。おまえの迷惑にならないように頑張ってついていこうとしたのだが」
彼女はおそらくだいぶ前から異変に気付いていたはずだ。だが、自分に心配をかけまいと黙って我慢し続けたのだろう。余計な気遣いをしやがって、と腹を立てるのと同時に、セイの体調が悪化したのは自分のせいだ、というのもシーザーは気が付いていた。戦闘とその後の逃走で疲弊しきったところへ川へ飛び込み、濡れたままで森の中を何時間も歩き続けたのだ。普段から体を鍛えている少女でも具合が悪くなっておかしくない。迷惑をかけているのは彼女ではなく自分だ、と悟った少年は罪悪感で押し潰されそうになる。
「置いていけ」
「なに?」
「いいから、わたしを置いていけ。おまえの足手まといにはなりたくない。わたしにかまわず、ひとりで逃げてくれ」
この金髪の生意気な少女には何度となく腹を立てさせられたものだが、この発言は激怒の最高記録を更新するものだった。目の前が真っ白になるほどかっとなったシーザーは何も言わないまま、黙って屈みこむと、セイの肩を担いでそのまま一緒に歩き出した。そんな少年を驚きと呆れが入り混じった顔で見た少女騎士は、
「シーザー、おまえ、馬鹿じゃないのか?」
荒い息のまま呟く。
「人が助けてやろうっていうのに、なんだよ、その言い草は」
「助けようとしているからそう言ってるんだ。おまえひとりなら逃げ切れるのに、2人でいたら共倒れになるんだぞ」
そうやって指摘されると、自分がわざわざ馬鹿げた行動を選択してしまったのが分かって思わず笑いがこみあげてくるが、
「そんなことはできねえ」
ただ単に否定しただけでは少女を納得させられないのはわかっていたので、
「そんなことをしたら、スバルさんに合わせる顔がねえ」
と付け加える。
「えっ?」
セイが驚いて顔を上げた。彼女の上官であるオージン・スバルの名前が何故ここで出てくるのか。
「スバルさんに、おまえのことを頼む、って言われてるんだ。だから、おれにはおまえを助けるしかないんだ」
「蒼天の鷹」と呼ばれる騎士団長が自分のような新米に頭を下げて頼んだのだ。裏切れるはずもないではないか。少女騎士は驚きを噛み殺してから、ふっ、と笑みをこぼして、
「団長も人を見る眼がない。よりによって、おまえに頼むとは」
「なんだとコラ。てめえ、本当に置いてくぞ?」
「だから、そうしてくれ、って言ってるんだ」
身体は動かなくても頭の働きはいつも通りのセイにやりこめられそうになったシーザーは「嫌なこった」とだけ吐き捨てて、彼女と一緒に歩き続ける。武装した娘はそれなりの重さがあって、疲労しきった少年には厳しいものがあったが、それでも意地を張るのが騎士であり男である、とシーザー・レオンハルトは信じていた。
「勝手に諦めてんじゃねえよ、タリウス。おれとおまえは一緒に助かるんだ」
ひたすらに前を見つめ続ける少年の横顔を朦朧とした目で見ながら、
「名前で呼んでくれ」
「は?」
ふふふ、と可憐な笑い声をあげて、
「おまえとわたしは友達なんだろ? だったら名前で呼び合うのが当然、というものだ」
思いがけない申し出に若干混乱して、
「何て呼べばいいんだよ?」
と訊き返す。
「セイジアでもセイでも、好きに呼ぶといい」
「じゃあ、セイだ。短い方が言いやすいからな」
四文字も二文字も大して違いはないだろう、と横着さを咎めるように少女は熱で霞んだ青い瞳で少年を睨みつけたが、
(よっしゃあ!)
ひそかに歓喜にするシーザーはその視線に気づかなかった。実は以前から少女を名前で呼びたくて仕方がなかったのだ。だが、
「は? あんたみたいなダサメンになれなれしくしてほしくないんですけど? ってゆーか、マジきもくね?」
などと拒否されるのが怖くて、わざと他人行儀に苗字で呼んでいたのだ。シーザーの想像の中のセイがギャルっぽいのは謎ではあるが、ともあれ思いがけないことがきっかけで少女との距離を縮めるのに成功した少年騎士には、もはや鎧をまとった少女の重みなどまるで気にならず、暗い森もあちこちできらきら輝き出しているように見えていた。
「ありがとう、シーザー」
耳元でささやかれて、
「おう、任せろ。セイ、おまえはおれが必ず助けてやるからな」
すっかり有頂天になったシーザー・レオンハルトは、この先で恐るべき試練が彼を待ち受けていることをまるで想像もしていなかった。
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