第88話 ふたりの脱出行(その2)
「ごほごほごほっ!」
激しく咳き込みながらシーザー・レオンハルトは目覚めた。
「よかった。気が付いたか」
目を開けると、セイジア・タリウスの笑顔がすぐ近くに見えて、どきっとしてしまう。なんでこいつ、こんなにかわいいんだよ、とわけのわからない不満を抱いてしまうが、
(ここはどこだ?)
それがわからなかった。さっきまで山の中を逃げ惑っていたはずなのに、今は寝かされていた。川のせせらぎが聞こえ、背中にごつごつした感触があって、河原にいるのだとわかる。それに加えて、全身水で滴っていて、下穿きの中までびしょ濡れだ。すぐ横を見ると、水たまりができていて、その中に小さな藻が一片漂っている。その水を自分が吐き出したのだ、と気づいたそのとき、
「お目覚めのところ悪いが、移動するぞ」
既に立ち上がっていた少女に手を取られて、ぐい、と引っ張られる。
「あ、ああ」
わけのわからないまま起き上がると、セイに手を引かれたまま林の中へと入って行く。
「ぼやぼやしてると見つかりかねないからな」
しゃがみこみながら少女騎士はほっと一息つく。さっきまで彼女に握られていた右の籠手を見ながら、
「おれは溺れたのか?」
と訊ねる。状況から言ってそう考えるのが妥当だった。
「ああ、溺れていたな。それだけでなく、流されていた。レオンハルト君は泳ぎは不得手だと見える」
からかうように言われて、シーザーは「けっ」と顔を背ける。ずっと都会の裏通りで生きてきたのだ。泳ぎを学ぶ機会も必要もあったはずがないではないか。
「でもよ、どうしていきなり川の中なんかにいたんだ?」
少女の青く光る瞳が少年を呆れたように見つめてから、
「おまえはあそこから落ちたんだ」
と遠くを指差した。高い崖が見えて、「はあ?」と思わず驚きの声を上げる。
「『はあ?』と言いたいのはこっちの方だ。ちゃんと前を見ずに走るからそういうことになるんだ。下に川がなければ死んでたぞ」
そう言われて、思わずぞっとしてしまう。敵から逃げているうちに転落死するなど、笑い話にもならない。そして、もうひとつ気づいたことがあった。
「おまえが助けてくれたのか?」
セイも濡れ鼠になっていた。金色の前髪から雫がぽたぽた垂らしているその様は、清らかな水辺に棲む妖精のような愛らしさを感じずにはおかないものだった。
「まあな。おまえがあっという間に下流まで流されていったのは少し笑えたが、見過ごすわけにもいかないからな。後を追って助けることにしたよ」
すげえな、と野蛮な少年でも素直に感心してしまう。というのは、彼が落ちたという崖はかなり高く、そこから飛び込むのは大の男でもかなりの度胸が必要だとしか思えなかったからだ。自分だって意識的にやれるかどうか、あまり自信がないというのに、この娘はあっさりと飛び込んでみせたのだ。勇気だけは騎士にふさわしいものだ、と不承不承認めざるを得ない。
「おまえと違って、わたしは子供の頃から泳ぎは得意だったから助けられると思ったが、案外難しくて少し慌てたけどな。鎧を身に着けたまま川で泳ぎ、しかも人を助けるのは、普通の泳ぎとはわけが違った」
今後の課題だな、と勉強熱心な娘は一人頷く。
「それでもなんとか引き上げたのだが、そうしたらおまえが息をしていなくて慌てたぞ。だいぶ水を飲んだようだ」
どうもかなり面倒をかけてしまったらしい。生意気で気に入らない少女騎士に助けられた、という事実がシーザーの気分をかなり重いものにしていた。こいつに礼を言わなきゃならないなんて、とうんざりしながらも、それでも頭を下げないわけには行かない、と思っていると、
「ん?」
あることに思い当たる。
「おれは息をしてなかったんだよな?」
「ああ、そうだ。さっきそう言っただろ?」
小馬鹿にされても腹が立たなかったのは、それ以上に気になることがあったからだ。
「ということは、おまえが息を吹き返してくれたんだよな」
「そうだぞ」
セイは自慢げに笑って、
「人工呼吸をして、おまえが飲み込んだ水を吐き出させたんだ。ありがたく思うんだな」
その言葉を聞いて、少年はがくがく震えていた。
「あれもやったのか?」
「あれって?」
「その、なんだ。あれだよ、あれ。マウス・トゥー・マウス」
「そりゃやったさ。やらなきゃおまえを助けられないんだから」
ごほごほごほ! とシーザーはもう一度咳き込んだ。といっても、さっきとは違って、心理的な理由が彼の呼吸器官に機能不全を起こしていた。マウス・トゥー・マウス、ということは文字通り口と口が合わさることになる。年頃の少女が同年代の少年にそんなことをよくやる、と思ったのと同時に、そのことを恥ずかしくもなんとも思っていないように見えたのが、彼をどうしようもなく動揺させていた。
「なんだ? まだどこかおかしいのか?」
セイに心配そうに見られて、
「そうじゃねえ。そうじゃないんだ」
顔を真っ赤にして俯いてから、
(気にする方がおかしいんだ。こいつだって「そういうつもり」でやったわけじゃないんだから)
と思い込もうとしても、覚えていないはずの少女の唇の柔らかな感触が甦ってくるかのようで、シーザーはしばらく黙り込むしかなかったが、やがて、
「面倒をかけたな」
素直に頭を下げていた。強情な少年に似合わない行動に、セイは目を丸くしてから、
「まあ、確かに面倒なことだったが、わたしにとってもそれほど悪いことでもない気もするから、あまり気にしなくていい」
にっこり微笑んだ。
「どういうことだよ?」
「おまえが川に落ちてくれたおかげで、わたしたちはあそこから逃げ出すことができたんだ。あのままでは、いずれ追い詰められていたはずだ」
少女の視線の先には、シーザーが落ちた崖があった。自分のミスで逃げ切ることができたなら怪我の功名だと言えたが、
「だが、やつらが追いかけて来ないとは限らない」
セイはまるで油断していなかった。
「気づかれたのか?」
「それはわからないが、おまえが落ちるとき、結構大きな水音がしたし、わたしが飛び込んだときもしただろうからな。気づかれてない保証はない」
ともあれ、一刻も早く本隊に戻るべきだった。
「川沿いに遡っていけば合流できるはずだ。行こう」
ただ急ぐだけでなく見つからないようにしなければならない、難度の高い道行きになる。気を引き締め直して、セイは動き出したのだが、
「ん?」
シーザーがついてこないので振り返ると、
「え? お? は?」
立ち上がって妙な動きをしている。遊んでいる場合じゃないぞ、と怒ろうとしたそのとき、
「うわ。なんだ、なんだ」
いきなり全身をばたばた激しく動かした少年騎士の身体から、ぼとぼと何かがこぼれ落ちた。セイが近づいてよく見ると、
「ははは、大漁じゃないか」
2匹の川魚がぴちぴちと地面の上で跳ねまわっていた。
「いきなりくすぐったくなったと思ったら、こいつらかよ」
溺れたときに鎧の隙間にもぐりこんだのだろう。コントじゃねえんだから、とかわいい女の子の前でみっともない姿ばかりを見せている少年は肩を落としたが、
「そうだな」
セイは魚を拾い上げると、
「腹ごしらえをしてから出発した方がいいのかもな。長い道のりになるかもしれない」
満面の笑みを浮かべて「よくやったな、シーザー」と声をかけ、少女に褒められた少年は嬉しくてにやにやしてしまうのをどうにか我慢して、「おう」とわざとぶっきらぼうな返事をした。
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