第86話 青年騎士、村を訪れる(その5)
「セイ!」
追いかけていた女騎士が尻餅をついたのを見てシーザーは駆け寄る。嫌な転び方だった。何処か痛めたのではないか、と感じていた。すぐ近くまで来て声をかけようとすると、セイはもう音もなく立ち上がっていた。
「おい、大丈夫か?」
返事もせずに長い金髪の騎士は歩き出した。だが、その足取りはぎこちない。右足を軽く引き摺っている。
「セイ、おまえ、足を捻ったのか?」
「別に大したことはない」
不機嫌を隠さずにセイは答える。確かに足をくじいてしまった。だが、それがなんだというのだ。抛っておいても明日には治るだろうし、戦場でもっとひどい怪我を負いながら戦い続けたことは何度もある。だから、こんなものは大したことはないのだ。
「そんなわけないだろ。どう見たって歩き方がおかしいぞ」
「うるさいなあ。おまえには関係ない」
足首の痛みが次第に強いものとなってきたが、それ以上につまらないことで泣いた挙句につまらない怪我をしてしまった自分に腹が立って、また涙が流れ出していた。
「関係ないとか言うなよ。心配してるんだぞ」
悪友の言葉にかっとなって思わず叫んでいた。
「いいから抛っておいてくれ。わたしのことなんか、どうだっていいと思っているくせに」
この言葉で、青年騎士をつなぎとめていた何かが断ち切られた。それまでシーザーはセイを落ち着かせようと最大限に気を使っていたつもりだったが、それを台無しにするようなことを言われたのと、このままでは埒があかない、と彼の持ち前の直感が察知した結果、自分でも思いがけない行動に出ていた。手にしていた槍を遠くに抛り投げると、
「あっ」
セイが驚きの声を上げたのは、突然シーザーに後ろから身体を抱えられたからだ。脚が地面から離れ、横抱きの態勢になる。
「抛っておけるか、ってんだ」
シーザーの怒ったような表情がとても近く感じられたのと、泣き顔を間近で見られた恥ずかしさで、セイの頭にたちまち血が上る。
「馬鹿、離せ。どういうつもりだ。いきなりこんなことをして」
じたばた暴れてみせるが、青年のたくましい両腕はびくともしない。
「どういうつもりも何も、泣いているおまえをそのままにしておけるか、っつーんだよ」
「うるさい。さっさと離せ。馬鹿。シーザーの馬鹿」
聞き分けのない駄々っ子と化した女騎士に溜息をついてから、
「おまえをどうだっていい、だなんて思っていない」
「え?」
セイの動きがぴたりと止まる。
「おまえとはだいぶ長い付き合いになっちまったが、はっきりと言ったことはなかったっけな。言わなくてもわかってくれている、と思っていたが、それはおれの怠慢だったのかもしれねえ。だから、今はっきり言わせてもらうが」
女騎士の青い瞳をしっかりと見てから、
「おまえは大事な友達だ。仲間だ。おれはいつもそう思ってきた。だから、おまえとは自然に付き合ってきたつもりだったが、それがおまえを不愉快にさせたんだったら謝る。すまなかった」
そんなことを言われても、とむくれた顔でセイはそっぽを向くが、
(あれは言い過ぎだった)
と彼女自身も今になって気づいていた。いくら頭に来たとはいえ、あそこまで言うことはなかった。シーザーはデリカシーがなくても悪いやつではない、というのは自分が一番よく知っているはずではないか。
「まあ、確かにおまえを女の子として扱ってきたか、と考えると、あまり自信はねえな。おまえがそうしてほしい、って言うなら、これからはもっと優しくしようと思うが」
「いいよ別に。そんなことしてほしくない」
「いや、しかし」
頬を膨らませたまま、セイはシーザーを見上げて、
「できもしないことを要求するほどわたしも馬鹿じゃない。それに、おまえに優しくされるのって、なんかきもいし」
「ひでえよ! きもいとか言うんじゃねえよ!」
せっかくの気遣いを否定されて青年が悲鳴を上げたのを見て、セイは噴き出してしまう。猫撫で声で「セイさん」などとシーザーに呼びかけられたら、三日三晩笑い転げてしまう自信があった。
「っていうかさあ」
女騎士は青年騎士の左胸に頭を強く押しつけてから、
「おまえがすっごくドキドキしているのも、なんかきもいんだけど」
セイの耳にはシーザーの心臓が早鐘のごとく激しく脈打っているのが聞こえていた。
「うるせえな! おまえを持ち上げてるからそうなってるだけだ! それに、また『きもい』って言いやがったな」
恋する女子を抱きかかえて興奮しているのがばれて、顔を赤く染めた若者は大声を出す。しかし、その鼓動によってセイの信頼を取り戻せたことには気付いていなかった。
(わたしのこと、なんとも思ってないわけじゃないんだ)
口に出してはっきり言ってくれたのも嬉しかったが、胸の高鳴りが嘘偽りのない彼の思いを何より雄弁に語っているようにセイは感じていた。
「すまなかったな、シーザー。ついかっとなって、おまえに八つ当たりしてしまった。ひどいことを言ってしまって悪かった」
腕の中の騎士が冷静さを取り戻しつつあるのを感じて、シーザーは安堵しつつも、
「別に気にしちゃいない。おまえのおかげで死にかけたことは何度だってあるんだ。あれこれ言われるくらいは朝飯前、ってなもんさ」
「その倍以上、わたしがおまえを助けたこともあるはずだがな」
見事なカウンターを食らったのと、目を赤く腫らした女騎士の顔が奇妙な色気をたたえだしていたので、精悍な容貌の騎士は思わず顔をそむけてしまう。空は暮れかけ、山には2人以外に動くものはいない。立ち並ぶ樹々の中で、本当の意味で2人きりになれた気がした。だから、
「おまえが結婚のことを気にしていたとは知らなかった」
普段ならできない踏み込んだ話をすることにした。ああ、いや、とセイは気まずそうな顔になって、
「いや、それこそ、おまえに怒ってはいけないことだったし、いつまでも引き摺ることじゃなかったよな。悪かった」
「そうじゃねえだろ。引き摺って当たり前のことだ。おれがおまえの立場だったとしても、気に病んで飲んだくれていたに決まっている」
そして、
「つらかったら、つらい、ってはっきり言っていいんだ。何も恥ずかしいことじゃない」
親友にはっきり言われて、女騎士は目を丸くしてから少し考えこみ、
「そうだな。あれはつらかった、というか、今でも時々つらくなる。『わたしのせいじゃない』とリブは慰めてくれたが、どうしてもそうは思えなくてな」
と寂しく笑った。優しくしたい、という衝動が野性的な青年の中に湧き上がる。
「おれには経験がないからわかるはずもないが、うちの騎士団の連中にはバツイチが多いから話を聞いてみると、結婚生活が上手く行かなくなる、というのはどっちか一方が悪い、ってわけでもないらしいぞ。どっちも悪くなくてもダメになっちまうことだってあるんだ。だから、あまり深く考えなくてもいいんじゃないか?」
「へえ。シーザーのくせになかなか深いことを言うものだな」
「『くせに』とか言うんじゃねえよ」
苦い顔になる青年を見てセイは声を出して笑う。婚約が破綻した事実が彼女の人生から消えてなくなることはないが、それでも、この瞬間だけはその重みはきわめて軽いものになっていた。「アステラの若獅子」の戦果に付け加えていいかもしれない。
「もう一度結婚するつもりはあるのか?」
青年の問いかけに、
「どうかな」
と女騎士は溜息をつく。
「どうもわたしには向いていない気はするし、それにわたしにするつもりがあっても、相手がなくては始まらない話だしな」
「いや、それは問題ないだろ」
「え?」
シーザーは少し迷ってから、
「おまえに求婚する手紙が毎日騎士団の本部に届いていてな」
「はあ?」
素頓狂な叫び声を至近距離で浴びて「アステラの若獅子」は顔をしかめてから、
「いや、そもそも、おまえへのファンレターがひっきりなしに届くのもどうかと思うんだけどな。しかも、山のようにどっさり来るから、わざわざ仕分けの係を作らないといけなくなったくらいだ。もう辞めている人間なのに、おれやアルより人気があるなんてどういうことだよ、って思うけどよ」
不満を言われても、「それはわたしが悪いのだろうか?」とセイは困ってしまうが、
「騎士団に届く以上、中身をあらためさせてもらっているが、『金色の戦乙女にずっと憧れていました』というのはともかく、『食堂で作ってもらった料理が素晴らしかったです』とか『ブランルージュで踊っていたのがとてもセクシーでした』とか、それは騎士団を辞めた後の話だろうが、って思うんだが」
「はあ、それはなんだか申し訳ない」
とうとう自分の責任ではないはずなのに謝ってしまう。
「まあ、『アステラ王国 セイジア・タリウス様』と宛名を書いたらどういうわけか騎士団本部に届く仕様になっているみたいなんだが、とにかくそういった熱烈な手紙が男女問わず大陸全土から来ているわけだ」
要するに、とシーザーは真面目くさった顔になって、
「おまえと付き合いたい、結婚したい、という人間は山程いる、ってことだ。だから、もっと自信を持っていいんじゃないか?」
うーん、とセイはやや太めの眉をひそめて、
「正直それはどうか、と思うんだけどな」
「いや、おれから見てもおまえの人気はなかなかのものだぞ」
そういうことじゃなくて、と女騎士は青年の顔を見てから、
「わたしのことをよく知りもしないのに、会って話もしないうちから結婚しようとするのはどうかと思うんだ。ある程度交際してから判断した方がいいと思う。わたしの場合が上手く行かなかったのもそこが原因な気もするしな」
そういうことじゃねえよ、と今度はシーザーが思う番だった。もっと自信を持て、と言いたいのであって。
「うん、でも、なかなか笑えて面白い話だった。ありがとう、シーザー」
笑い話をしたつもりもないんだが、と思いながらも、
(機嫌を直してくれたなら別にいいか)
と細かいことは気にしない性格の青年は受け入れることにした。彼女が笑ってくれることが、彼の何よりの幸福でもあった。
「じゃあ、帰るか」
トラブルはどうにか解決したようだが、村に戻ってセイの足首の手当てをする必要があった。彼女を抱えたまま歩き出そうとすると、がしっ、と突然首に手を回されて驚いてしまう。
「おい、いきなりどうした」
「ちょっと待て」
女騎士の声は緊迫感を帯びていたが、それ以上に彼女の身体がより強く押し付けられたことがどうしようもなく気になってしまう。
「このまま帰らせるわけには行かない」
「は?」
白い顔がだんだんと近づいてきて、青年の動悸がまた速くなる。彼女の香りを強く感じ、くらくらしてしまう。
(おい、まさか、こんな場所で)
首筋に吐息がかかるのに眩暈を感じ、時ならぬ期待に胸をときめかせていると、耳元に寄せられた女騎士の赤い唇からささやきが発せられた。
「山菜を採るぞ」
「は?」
愛の言葉とはかけはなれた生活感あふれるフレーズに愕然とするシーザーに、
「当たり前だろ? このまま帰ったら、晩ごはんのおかずが肉だけになってしまう」
栄養はバランスよく取るものだ、という信念は怪我をしても揺らがないようだった。
「いや、でも、何が食べられるのか、とかおれはよくわからないぞ」
「安心しろ。わたしが教えるから、それを採ってくれればいい」
「おまえを抱いたまま採るのかよ?」
「じゃあ何か? 怪我をしたかよわい女を無理に歩かせようというのか?」
騎士団長様はずいぶんお優しいことだ、と唇を尖らされる。
(さっき無理に歩いて帰ろうとしてたじゃねえか)
と思いながらも、惚れた弱みでそれ以上怒れない。
「わーった、わーった。そういうことならさっさと教えろ。日が暮れるまでに終わらせるぞ」
「ははは。おまえのそういう素直なところは好きだぞ」
それくらいの「好き」では苦労に見合わない、と思いながらもシーザーは言われた通りに山菜を採っていった。セイを抱きかかえながらの作業は肉体に負担のかかるものだったが、美しい女子と身体を密着させた時間は間違いなく至福のものだった。
「ふう。大漁、大漁」
キノコまで採れた、と得意満面のセイを持ち上げ続けるシーザーの消耗は激しく、肩で息をするようになっていた。
「帰ったらわたしが食事を作ってやろう。それくらいのことはしなくてはな」
「そいつは楽しみだ」
女騎士がひとりで暮らす村はずれの小屋までこれから帰るのだ。今日の雲は厚く、夕陽はよく見えない。
「ん? どうかしたか?」
抱きかかえた女騎士が自分の顔をまじまじと見つめているのにシーザーは気づき、気づかれた彼女は照れくさそうに笑って、
「昔、同じようなことがあった、って思い出してたんだ」
「は?」
「いや、だから、本当に昔の話だ。わたしとおまえがまだ騎士になりたての頃、2人で山の中を逃げたことがあったじゃないか。そのときも、今みたいにおまえがわたしを運んでくれたものだった」
ああ、と若者も何かを思い出したかのように、
「そういうこともあったかもな」
とだけ、ぼそっとつぶやいた。しかし、その頭の中では、
(こいつもあのときのことを覚えていたのか)
複雑な感慨が押し寄せていた。その出来事こそが、シーザー・レオンハルトという騎士の根底に大きく影響を与えたもので、彼にとって決して忘れられない事件でもあった。
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