第90話 拳銃使い、ケリをつける(後編)

「ぎええええええええええ!」

耐えがたい痛みだった。両方の掌と両方の足の甲を撃ち抜かれた、とわかるまでには時間がかかった。掌の中央にぽっかりと大きな穴が開いていて、手をかざすとそこから夜空が見えたのにサンシュは心底恐怖する。なんてことをしてくれる、と思ってから、いつの間にか拳銃使いの姿が消えているのに気づく。どういうつもりだ、と勘繰っている余裕はなかった。4つの傷口からは血が大量に流れだし、体力が急速に失われていく一方だ。早くなんとかしなければ命に関わる。立ち上がろうとするが、足の傷の痛みで何度も転んでしまう。歩けなくするのも、あの女の狙いなのか。

(ちくしょう。ちくしょう)

涙と鼻水を垂れ流しながらサンシュは深夜の山中を這いずり出す。何故この自分がこんな惨めな思いをしなければならない、と恨み言で頭をいっぱいにして、それでも街道へと戻ろうとする。

(こんなことがあってはいけない。わしのような頂点を極めた者がこんな目に遭ってはいけない)

苦痛に呻きながらも、男は自らの出発点を思い出してもいた。首都の裏通りで這いつくばって屈辱に耐えながら、自分を見下した全ての人間の頭を踏みつけてやるのを夢想していた若き日へと心は帰っていた。

(わしの命を奪わなかったのを後悔させてやる)

怨念を原動力としてのしあがってきた男の精神に火が付く。再び返り咲いてやるのだ。一度できたことだ。何度だってできるはずだ。そして、あの生意気な拳銃使いといまいましい女騎士を今度こそ手中に収めるのだ。そう心に決めたサンシュだったが、その決意はあくまで決意のままで終わることとなる。

「え?」

ふと振り返ると、背後の暗闇にぽつぽつと小さな金色の光がいくつも浮かんでいるのが見えた。黒い帳面につけられた無数の黄金のピリオド、というような詩的な表現をやくざ者がするはずもなく、光の正体を知った男に夢想に浸る時間は残されてはいなかった。飢えた野獣の瞳が貪婪に輝いて、獲物をその視界に収めていたからだ。気が付くと狼の群れにサンシュは囲まれていた。あるいは山犬かもしれなかったが、いずれにせよ、これから今年最後の晩餐にありつこうとしている点では、傷ついた哀れな獲物を貪りつくそうとしている点では、何も変わりはなかった。

(あの女!)

悪党はリアス・アークエットの意図にようやく気付く。彼を始末せずに消えたのではなく、既に始末を終えたから立ち去った、ということなのだろう。手足を撃ったのは動けなくするためだけではなく、血の臭いで獣を引き付けるためでもあったわけだ。若い娘の残忍さに中年男は恐怖のあまり失禁し、力の限り匍匐前進を続け山の斜面を降りようとするが、狼の群れはその動きに合わせて、男を包囲したままついていく。生暖かい息がかかるほどに灰色の獣たちに近づかれた悪漢は完全にパニックに陥り、泡を吹きながら地面の上で平泳ぎでもするかのように緩慢にのたうちまわりはじめ、まともに前に進めなくなってしまう。

狼たちは、ぐるるるるる、と唸ってはいたものの、決してがっついたりはしなかった。獲物が弱り切るのを待っているのかもしれなかったし、目の前のごちそうに手を出しかねているのかもしれなかった。動物にも人間と同様に社会があって、仲間に対して遠慮が働くものなのか、とも考えられたが、そのあたりは今後の研究を待たなければ判断できないことだろう。しかし、やはり人間と同様に狼にも慌て者がいるようで、とうとう我慢できなくなった一頭がサンシュの左のふくらはぎに食いついた。男が絶叫すると、「おまえばかりずるい」とでも思ったのか他の狼も一斉に獲物へと群がった。

「やめ。うわ。やめて。ぎゃあ」

不幸なことに全身を貪られながらも男の意識は断たれることはなかった。鋭い牙で大腿骨に穴が穿たれるのも、指を全て食いちぎられるのも、頬の肉を剥がされるのも、はっきりと認識しながら終焉へと近づいていく。恐るべき強い力で身体を裏返された。ばく、と太鼓腹に噛みつかれ、腹腔に濡れた鼻を突っ込まれた、と感じた瞬間、サンシュの精神が粉々に砕かれて、それ以上苦痛を感じなくなったのは、悪党にもまた神の慈悲が及ぶ証なのかもしれなかった。


「終わったみたいね」

リアス・アークエットは目を開けると、大きな木の陰から歩き去る。素早く音のない歩みなので、獣でも察知するのは難しいだろう。少し離れた場所から事の顛末を見届けていた彼女にまでサンシュのはらわたの臭いが届いていた。ああなっては誰も生きてはいられない。拳銃使いの少女に手抜かりはなく、標的の死をしっかり確認したうえで現場を離れたのだ。

「人をさんざん食い物にしてきた悪党を逆に食い物にするとは恐れ入る」

彼女の師匠であるノジオ・Aならそんな風に感心したかも知れないが、リアスがこのような手段をわざわざ選んだのは、ブラックユーモアを実演したかったからでも、サンシュを必要以上に苦しめたかったからでもなかった。

(手を下したのはわたしじゃない)

マフィアのボスが死んだのは狼に襲われたからであって、拳銃使いの手に掛かったわけではない。そんな理屈づけをしたかったからだ。「組織」は壊滅したが、子分どもが何をしてくるのか想像がつかないところがあった。やくざの世界には「仁義」なるものがあるらしく、彼らにとってそれは何よりも優先されることのようだった。罪もない一般市民を踏みつけて何が「仁義」だ、とリアスは鼻で笑っていたのだが、頭のおかしい人間につきまとわれる危険性を潰しておくのに越したことはないので、こんな回りくどい手口を使った次第だ。ただでさえ、狼に食い荒らされて骨だけになってしまえば、もはや身元を特定することも難しくなる。リアスに追及の手が伸びることはおそらくないはずだ。

「いい子にしてた?」

街道の脇に駐めていた馬車に繫がれた年寄りの馬の鼻先を愛おしげに撫でてから、リアスは御者台に座り、街へと戻ることにした。来たときとは違って馬車の中身が空なので、快い速さで駆けていく。チキの街の灯を前方に見ながら車を走らせていると、やはり前方から鐘の音が聞こえてきた。

(もう新年か)

教会で新たな年を祝っているのだろう。リアスにとってあまりにもいろいろなことがありすぎた年がようやく終わったのだ。アステラ王国にやってきて、ベックの店で働くようになり、5人の少女たちと出会い、歌と踊りを教え、やくざたちを打ち倒し、セイジア・タリウスと出会い、反目の末に友人となり、そして大晦日に舞台に立ち最後まで踊りきることができた。数多くの出来事を上手く整理することはできなかった。そもそも整理する必要などなく、起こったことをそのまま受け入れるべきなのかも知れない。そんなことを考えていた少女の胸に、

(寂しい)

という思いが湧いていた。一人きりで新年を迎えたのを残念に思う自分が居るのにリアスは気づく。大切な人たちと大事な瞬間を迎えたかったのに、と思ってから、

(今からでも間に合うじゃない)

と思い直す。セイと少女たちは、今夜は特別に終夜営業をしている「くまさん亭」で打ち上げをしていると聞いている。

「用事を済ませてから来るといい」

劇場を抜け出そうとしたところをセイに見つかって声をかけられたのを思い出す。

(どんな「用事」なのかもお見通しなんでしょうね)

超能力に近い女騎士の直感に気の抜けた笑いを漏らしつつも、

(でもね、セイ)

リアスは心から思う。

(あなたには本当に助けられた。いつか恩返しをしなくっちゃね)

そこでまだ覆面をしているのに気づいて、「このままだとわたしだってわからないじゃない」と独り言を言いながらマスクを外す。

「ちょっとだけ急いでもらえる?」

そう言うと鞭を入れるまでもなくスピードが上がる。もちろん言葉が分かるはずはないが、気配で察したのだろう。馬の賢さに満足げに微笑むリアス・アークエットの長い黒髪がなびいて暗闇と溶け合い、彼女が乗る馬車は街へとひた走っていった。

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